うちとしゃべるねこ
2024年2月23日。
夜はどこまで行っても、夜だ。
どこまで行っても、夜は夜。
そして雨は降る。
この雨は誰にとっても降り注ぐ。
だから人間は傘を差すし、屋内に逃げ込む。
そして降り止むのを待つ。
しかし人間以外はどうだろう?
建物は傘を差さない。人ではないから。
都市部のビルたちは人間たちが雨に晒されないように自らの身を呈する。そのおかげで古びたビルは黒ばみ、窓も曇る。
車や電車は雨が降りながら、その動きを止めることはない。当然だ。物に意思は存在しない。人間が動かせば動くのそれだけの道具だから、雨が降り続く夜でさえ動き続ける。
では怪物はどうだろう?
怪物はこの雨をどう凌いでいるのだろうか?
例えば……1月26日を最後に父と別れた狼の少女。
彼女は未だに、あの廃れたビルの一室で隠れていた。
捨てられたベッド用の白いシーツで全身を隠しながら。
……あの日から狼少女は待ち焦がれている。
父が帰ってくることを。
「…………」
ぐぅ。
けれども、ここで長い間待ち続ける事は危険な事だった。
ぐぅ。
一度は外に出て、森の中で過ごそうと思った。
しかし森の中こそ危険な場所だった。
自然は弱肉強食の世界。
そして……怪物たちの住処。
ぐぅ。
おかげで白スーツで隠した体は所々が赤く剥き出しになっていた。
それは廃れたホテルで落下した際に負っただけではない。
森の中に迷い込んだ結果、さらに傷付くことになった。
ぐぅ。
傷付いたのは体だけではない。
心もそうだ。
父がいなくなった傷も、裏切られた傷も、癒える事はない。
特に猫……金髪の女に負わされた傷は癒える事はない。
おかげさまで小動物を見るのが嫌になった。
また裏切られるのではないか。
森の中で自分の空腹を凌ぐ為に、小動物を捕まえようとした時があった。
しかし、父との出来事が重なり、急に動けなくなった。
その瞬間を見計らってか、小動物はあっさりと逃げた。
その時、どれほど安心したことか。
そう。それでいい、と。
ぐぅ。
森の中から逃げた狼少女はそのまま歩き続けた。
しかし都市部の方に逃げても、自分の身が危険なことに変わりはない。
そして、空腹が満たされることはない。
ぐぅ。
一度だけ。
人間を襲って、空腹を満たそうとした時があった。
夜中。廃れたホテルの敷地内で懐中電灯を持った男が辺りを注意深く見回していたのだ。
チャンスだと思った。その時、そこには一人しかいない。
怪我を負っていたとて、自分は怪物。狼の紛い子。
そして相手は人間。怪物の前では無力な人間。
だからそっと外に出て、見つからないように部屋を出て、男に襲い掛かかろうとした。
ぐぅ。
一歩、一歩。
歩くたびに思い出す。いなくなった父……偽りでありながらも父であろうとした狼人間のことを。
彼は言葉を発しないながらも、狼少女の心の中で彼は何度も見つめる。
もう、人間を傷つけてはいけない。
いや……人間を殺すことをしてはいけない。
俺はもう……嫌だ。誰かを殺せば、誰かが不幸になる。
お前もそうだ。お前は母を殺されたことにより、不幸になった。
忌み嫌われたお前を前に、俺はこれまでの行いを恥じた。
だからお前を連れ出した。贖罪の為に。
お前は俺と同じことをしてはいけない。
人間を殺すな。
結局……狼少女は部屋に戻った。
ぐぅ。
だから狼少女は今でも空腹だ。
あれから何も食べていない。人間であればいつ倒れてもおかしくない状況。
しかし今でも狼少女は歩き続けている。
狼……怪物の血が作用しているのか、それは分からない。
狼少女は今でも、このホテルの部屋で雨を凌ぐ。
「…………」
人間を食べれば、どれほどいいものか。
心からそう思う。けれども、父がそれを止めている気がする。
いっそ裏切れば……しかし出来ない。
自分を初めて愛してくれた、唯一の存在。
裏切ることは、決して出来ない。
それは裏切りの証。
ぐぅ。
あの時、いいと言わなければ。心の底から後悔する。
あの時は言葉の意味なんて考えられなかった。
考えていれば、いいという言葉に何が隠されているか分かるはずなのに。
だから狼少女は……猫を、あの金髪の女を深く憎んだ。
憎い。あの女が、猫が憎い。自分を裏切ったあの女が憎い。
おそらくはあの女が父を連れ去ったのだろう。
だから憎い。あの女が憎い。殺してやりたい。
「だ……ダメだよ……!」
狼少女は自分に言い聞かせた。
それでは……父に反することになる。
父の想いに反することになる。
それだけは決して出来ない。
狼少女は今でも苦しみ続ける。
ぐぅ……。
いまだに空腹が鳴り止まなかった時。
雨の中で鳴き声が聞こえた。
にゃあ……。
「…………!」
それは猫の鳴き声。
はっきりと聞こえる、静かな鳴き声。
「嫌だ」
反射的に思わず口に出る。
もう猫には会いたくない。
憎い、という感情よりも狼少女には拒絶の感情が先走る。
にゃあ……。
しかし狼少女は気付いてはいなかった。
その猫の鳴き声、というのは低く唸るような声だった。
雨の中でも部屋の中に響くような足音と共に。
小さい猫では聞こえもしない、床を歩くはっきりとした音。
「来ないでよ……」
どた、どたという重たい足音。
狼少女はシーツに包まり、拒絶の言葉を吐く。
しかし足音は……反するように急に足早となる。
どたどたどたどた。
床を走る重たい音。
にゃあ!
高く、喜びを表現するような鳴き声。
それはこの部屋で響く。
「…………」
狼少女は途端に静かになる。
しかし心の中で念じる。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
しかし、その包まっていたシーツは鋭い爪混じりに取り上げられた。
「来ないで───」
狼少女はシーツを引き剥がされながら、その姿を茶色い瞳で見てしまった。
細身で黒い二本足の体。
鋭く尖った爪を持つ二本の腕。
細くしなやかに伸びた一本の尻尾。
顔に埋め込まれた金色の目。
───猫の顔をした怪物の姿を。
「来ないでよぉ!!」
狼少女は叫んだ。拒絶を。
そして立ち上がり、短いその爪を向け、威嚇した。
「来ないで……!来ないで……どこかに行ってッ」
拒絶。
ベッドの上で立ち、床で立ち尽くす金色の目をした猫怪人に爪を向ける。
その目と腕を震えさせながら。
猫。
その意味するところは裏切り。
怪物が目の前に来たのなら、烏賊怪人と同じく食事が目的と捉えるだろう。
しかし狼少女にとっては、裏切りの意味でしかない。
だから……狼少女は、真っ先に飛びかかった。
『!?』
飛びかかられ、猫怪人は狼少女に押し倒される勢いで、床に倒れる。
馬乗りになった狼少女の茶色い瞳は、震え、そして殺気だっていた。
その心に今、父はいない。
「来るな!来るな!来るな!来るな!」
ボロボロになった爪を振り上げ、下ろす。
猫怪人は細い腕を構えながら、耐える。
「来るな!来るな!消えろ!ここから消えろ!消えろ!」
それは拒絶から破滅の言葉へと変化する。
猫怪人は未だに金色の目で狼少女を見続ける。
それが狼少女の心の傷に突き刺さる。
あの夜。黒い猫。金色の瞳。
「父さんを返せ!泥棒猫!」
ざざぶりの雨の中でも、その声は部屋の外へと響いた。
狼少女は叫んだ。憎しみと悲しみが混じる叫びを。
そしてボロボロの爪をまた、振り上げようとした。
『………ヤメ、テ』
しかし……。
猫怪人は細い体でありながらも起き上がり、狼少女の体を倒した。
ガンッとぶつかる音。
狼少女はベッドの方へとぶつかり、そのまま倒れる。
『ゴ、メン……』
猫怪人は狼少女を見つめる。
狼少女の体は一瞬、苦しむように悶えた。
ぶつかった時の衝撃と、体についていた無数の痛みが同時に狼少女の体を蝕む。
呻き声を出しながら、苦しみ……やがて、静かになった。
『!?マ、サカ……』
猫怪人はすぐに狼少女の体を掴み、揺らす。
そしてその口元に頭部の側面についた人間のような小さな耳を近づける。
しかし、狼少女は何もしない。言葉を吐くことは当たり前だが……息もしていない。
『ソン、ナ……タスケ、タイ……!』
人間であれば人工呼吸、AED、通報、様々に種類がある。
しかし怪物には、そのような知識はない。
そして怪物の世界では、矢継ぎ早に最悪はやってくる。
ドタッ、ドタッ、ドタッ、ドタッ。
きいぃぃぃ………。
足音、そして金属を引きずるような不快な音。
それもどうやら雨音に紛れてやってきたようであった。
壊れた扉さえも不快と思うように、大きな鎌でどたばたと切り刻み破壊する。
体がやや大きいのか、部屋には入り込もうとはしなかったが、その顔だけはしっかりと部屋を覗くようにこちらを見ていた。
───
『……マッテ、テ』
猫怪人は狼少女の体を、爪のついた手でそっと撫でる。
その金色の目を、蟷螂に向けながら。
『クル、ナ……!』
拒絶。
猫怪人は辿々しい言葉を叫び───その爪を向けた。
イブの激情に苛まれる日々、そして…… 那埜 @nanosousa
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