第36話 月の影 見上げる太陽⑦

 ある時から夢が続くようになった。同じ夢だ。

 大きな鬼がどこまでも追いかけてきて自分を殺そうとしている。毎日同じ鬼が出て来て、恨みなのか怒りなのかわからないが凄い形相で自分を追いかけてくる。毎夜同じ夢だが、それは少しずつ距離を狭めていった。ほんのもう少しで今度こそ捕まってしまう。鬼のその大きな尖った爪の手が自分の身体に掛かれば、切り裂かれるのは一瞬のことだろう。


(もう……ダメだっ。うわぁっ)


「ぎゃあーっ」


 自分の叫び声でハッとする。また同じ夢だったのだ。ぎりぎりだった。逃げるのが遅れれば殺されてしまう。

 そんな日が毎日繰り返される中で、奈々恵はずっと考えていた。自分は何に怯えているのか。何が起きているのか。

 何が怖いのか、悪いことをしたのか、何に気が付く必要があるというのか、これが病だとして、何か気が付けることは無いのか……


 毎晩眠りに入ること自体が恐怖にもなっていた。変わらず同じ内容の夢が続く。段々と恐怖が増す。臨場感が濃くなっていく。徐々に質感が普段の現実と同じようになっていくのだ。


 毎日毎日、一日中考え続けていた。その中で思い付いたことがあった。


(まさか……でも、どういうこと?)


 考えてみる度に、それは自分の中で可能性が高くなっていく。やってみる以外、確かめるしか方法は無い。だが、夢の中の自分が、今考えているように考えたり、動いたり出来るかどうかということになると、それはとても難しいことに思えた。


 ある時、鬼の爪が身体に食い込み、もう八つ裂きにされてしまうという何度目かの瞬間がやって来た時、自分の内側から引っかかりながらようやく「言いたいこと」が溢れ出た。


 それはそれまで考えていた正しい言葉では無く、何が正しいのかでも無く、何かをどうにかわからなくちゃいけないのだということでも無かった。ただただ「自分の中に存在している思い」が言葉になって噴出したと言っていい。


(おまえ、は……)


「おまえ、は――私だぁぁっっつ!」


 力の限り叫んでいた。溜め込まれたものが一気に吹き出したように、それは一つの爆発だった。自分がそんなことを言うなんて、と思った。


 大きな鬼は一瞬にして生気を失い、途端に崩れる砂のように一気に形を失っていった。触れていたはずの鬼の手も爪先も砂になって崩れ落ちていった。その砂を被る。


 それと同時に部屋の中で横になっている自分がいることに気が付く。夢だったのだ。大声が聞こえたのは、自分自身の叫ぶ声。今まで走っていたかのように息が上がっていた。


 終わったのだ。と思った。ついに、である。全身から力が抜けていった。


 それは二度と現れることは無かった。


「鬼」は「私」


 それが結論である。



 その日から眠れるようになった。しかし、あの鬼が本気で殺すかのごとくあのように追い詰め続けてくれなければ、自分は自分を出せなかっただろう。自分の中から生み出される「思い」という感情や考えを出せなかったのだ。ならば、あの鬼は自分を助けに来たのではないのか。考えるほどにそうだった。

 鬼のおかげで自分は自分を出現させることになったのだ。それがわかってしまった今の段階では、もうあの鬼に対面して会うことは無い。自分が消したのだから。いや、消し去ったのでは無くてこの「私」という存在の裏には、あれが存在しているということなのだろう。


 他のことへも瞬時にそれは繋がっていく。否定したい感情が膨れあがるが、おそらく自分にとっての正解なのだろうと思った。自分を否定し、追い詰めるような存在や言動は自分にとって「何の意味を持つのか」ということ自体が重要なのだと気が付いたのだ。だとすると自分にとってはという括りではあるが、誰のことでも恨んだりするのは違っているということになる。逆に温かさに沈み込んでいくというのも違っているということにもなる。出て行かなくなる「罠」とも考えられるではないか。目の前の両親と、仮定としてだが「特定の働き」としての両親という二つの側面のそれぞれが持っている「温かさ」と「冷たさ」について考えていた。


(私は、知らなくちゃいけないことがたくさんある……)


  


 その後数年して、また同じ夢を見る時が続いた。

 極彩色の見たことも無いような動物や花が溢れかえっている森の中に居たのだ。

「おかえり」と聞こえた気がした。


 彼らを生み出すんじゃ無くて、もう居るのだ。 どこかに。

 そう言って、二十代の前半の奈々恵は分厚い紙のボードに両方の手を当てる。

 目を閉じて静かに呼吸する。

 やがて、手元にあるアクリル絵具に手が伸びていく。

 パレットにいくつかの色をのせて、筆でそれらを選びボードに塗っていく。何枚も描いた。介護という時間が増え続けていく中で、寝る間もないままに描き続けた。


 二十代前半のある時。それは金星期の終わりから太陽期の始まりの数年間のこと。

 奈々恵は絵を描いていた。それは自分でも突然のことであり独学だった。

 二十四時間の介護へと段階的に進んでいくその隙間で、見たことも描いたことも無い色彩と人の形をした存在たちと動物、見たことの無いような植物、海、山を描いていた。


「画家に?」


(わからないけれど。また、これが、いつか私を何処かへと運ぶことになるのだろう……)


 初めて出したコンテストで受賞し続け、有名な画家の先生に将来が楽しみだと言われた。出版社との出会いもあった。しかし、肝心の知りたいことへと繋がってはいない。そこにあるのはとある町の中で起きるよくあることの一つに思えた。「いい話だ」と頭はそれに手を出そうとしてはみるが、湧き起こってくる感情と全身はそれらを選ぶことは出来なかった。


 極彩色の夢は何年か続いたが、ある時ぴたりと止む。次は自分の描いた絵の意味を探すということの方へ行動がシフトしていく。画家は自分の属している絵描きの会に入会することを勧めた。心理の世界からの、というようにちょっとした専門家という人たちにも出会ったが、ありきたりのセリフばかりを多く聞いた。


「病んでいるのですよ。精神科の先生が喜ぶ顔が見えます……」


 ある時、その医者を紹介しようというとある喫茶店のオーナーのそのひと言で、二度とその店には行かなくなった。一体どう思われているのかわからなかったが、気分は良くなかった。


 ここまででさえ長い長い蝉の成長のような時間が土の中で過ぎていくような日々だった。このまま人生は終わるのではないかと思うほどの地中の中の長い時間のように思われた。


(蝉のように短い一生でも困るけど……このままっていうのも困る……)



 さらに地中生活は長く続いた。完全に社会から外れて呑み込まれていた二十四時間というほぼ父と二人きりの介護生活の十年以上が終わって、一年と少し経過した頃だった。しばらくは呆けていた。


 ある時、描いた絵の写真ファイルを持って、東へと旅することになる。

 それは出会いの入口に必要なものだったのだ。初めてその存在に描いた絵を見せるということは、他には何の言葉も要らないということを意味していた。



 鬼を背後に抱えて、奈々恵の東への旅が始まる。




 了

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月の影 見上げる太陽 ~七色書房の七色処方~ PRIZM @prism13

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