第35話 月の影 見上げる太陽⑥

 奈々恵が「路々ろろ」を辞めた後一年もしない間に、美登里さんも店を辞めることになったと本人から聞いた。家庭の事情ということで、お婆ちゃんのお世話が増えることになったからと言っていた。美登里さんが辞めた後、奈々恵は町には行かなくなった。


 奈々恵は金星期の終わりである二十代前半頃から、徐々に父の世話をする時間が増えていった。少しずつ自由な時間が削られていく。

 さらに太陽期である二十代半ばから三十代半ばの時代の丸々を父の介護生活として過ごすことになる。約十年とちょっとは一番大変な時期で、二十四時間対応型の介護生活だった。その頃には公的なサポートは無かった。

 母は仕事に専念していた。何も見ない、何もしないと決め込んでいるかのようだった。お金を稼いで来ることには長けていた。三人の大人が食べていけるだけのものを稼いでいたのだから。まるで分業のようだった。


 逃れられないのか、逃れてはいけないのか、逃れる気が無いのか。そのどれかなのか、もっと違うそれ以外なのか、奈々恵にはまだわからなかった。


 けれど、その混沌の中へと進んでいくだろうその先を予感していた。まだ、大きくこの環境から旅立つまでに時間がある。その時までにしておく必要のある準備がある、ということなのかもしれない。ただただ何も出来ないだけなのかもしれないとも思えた。

 今は力無き自分だと思えてしまう自分がいるが、そう思わなくなる自分とは、ということについて考え続けていた。



 「路々」でアルバイトをしていた時代の奈々恵はまだ高校生だった。やがては社会からも外れ、家の中での二十四時間介護という生活へと入っていく時代がゆっくりと近付いて来ている。

 それは占星術でいうところの「金星期」の後半のことだった。奈々恵にとっては、他に選択肢など無いように思えた。家が傾いていく速度のギアが変わった、と感じた。その環境から逃げることの出来ない「太陽期」という長く混沌とした時代へと突入していく。多くの人たちとはまるで違った人生になるだろうということは目の前にある事実と体感でわかっていた。


 (いつだってそう。苦しみや衝撃は、やがてその色を変えるときが来る)


 何度も経験してきていた小さな実感を支えに、その先へと進んでいこうと思った。そう思っていた自分自身のことを忘れてしまうか、この自分を継続して存在させることが出来るのか、それは大きな賭けのような、挑戦のようなものに思えた。


「私は、私で居続けられるだろうか。あるいは、今現在が眠りであって、より目覚める私へ、ということが、その時があるのだろうか。」



 

 そもそも「ここ」という両親の用意した人生の最初の場所から出ていくということを、普通の家庭では最重要視などしていないことが多いのかもしれない。それがこの社会の中の普通なのだ。多数の側という言い方も出来る。


 自分がいかに野性の動物たちのようにシンプルな生まれをしているのか、ということなのかもしれない。やがて父が父親&母親役、母が母親役&父親役というそれぞれの立ち位置からの両方の側面を見せることに、その役割にいかに徹していたか、という話になるのではないか、ということをこの先きっと考えることになるのではないのか。今はまだその実感は無かった。ただ予想はすでにあった。


 両親のそれぞれの感情と出会うこと自体、辛いことの方が多かった。親子関係、人間関係と呼ぶようなものの中で起きる日々のやり取りが辛かった。けれど奈々恵にとっては、彼らが彼らとして生きている瞬間の彼ららしいことが好きだった。

 だからこそ、一見辛く思える関わりや、温かすぎる関わりの、見たそのままの意味では無く、それらが何かの意図あってこそその言動なのでは無いのか、ということを考え続けていた。しかしそれを父も母もおそらく理解しないのだ。奈々恵もそれを説明出来るほどの言葉を持っていなかった。

 自覚の無いところでの父と母からの自分への「特定の働き」と呼べるようなものがあるような気がした。ならば、目の前にいる彼らの自分に向う感情よりそちらの方を信じる。それこそ嘘偽りの無いものなのではないか、そう考えていた。


 簡単に言うと「この地から、この母と父から、確実に卒業していけ」ということになる。それが何故なのか、そこまでして、というあたりがまだ全くわからなかった。

 


 それはこの地球の、一般的な社会的常識からは理解しにくい場合が多いかもしれない。地上では家族が仲良くということが、当然だが良いこととして扱われて来ている。もちろんそれが悪いことだというわけも無い。そういうものに今回の人生で自分が縁するか、しないかだろう。

 別の角度からわかりやすく言うと、地上の家族という物語の中に吸い込まれたまま没入している視点と経験という、たったひとつの選択しかない、そう思い込まされて来ていることが多いのだと思われた。

 通常そこに求めるものは、安定とか安心、目に見えるものの豊富さ、継続という約束のようなものだろう。それは正しさでもあるように思えた。幸せと呼ぶかもしれない。


 自分の生い立ち、父や母の生い立ちと人生の歩き方、それらを思うと違いは際立ってくる。安心安定の無い日常。目に見えるものの不安さ、頼りなさ。いつ失われるかわからないような毎日の生活。確かに他者に「可哀相に」と言われたことがある。それは幸せの反対側にあるよということを言われていたのだろう。


 だからこそこの地上を生きていくには自分にとって必要な「何か」を知らなければならないのだ。通常の当り前の人生の予定や計画は自分には当てはまることが全く無いだろうと自覚していた。生まれた最初からがそうなのだから。だからこそ、この人生をどう歩いて行くのか、自分なりの「何か」を見つけなければならない。


(その肝心の何か……が、まったくわからないのだけれど)


 

 お姉さんたちは決して不幸では無かった。確かにあの町に生きるということは多くの場合大変なことで、それを地獄とも呼ぶのだろう。だけどその外側に広がっている他の多くの町もかなりの地獄だと思った。むしろ、正面から地獄へと突入しているお姉さんたちの方が奈々恵から見ると潔いとさえ思えるようになった。

 彼女たちのことをとある偏った視点での「意味」で括ってしまおうとしていた人たちも居たし、自分もまたその影響を受けていたと言えるだろう。


 環境に根付くことの無い人生を選ぶということには意味がある。それは一般社会からすれば、常識から外れている信用の無い人たちに見える。

 あんな風にのたれ死にしたくない、という言葉も何回か聞いた。だからこそ土地とその上に建つ家と世間が羨ましがるような仕事というものは重要なのだと言う。


 両方の世界観の中で揺らされていた。どちらも違うと思ってしまうのだ。どちら側にも自分の居場所は無い。では何処なのだろうか……。いくら考えても答えが出ない。ヒントやその欠片とも出会えないという実感の日々は続いた。自分は生まれてから、幼かった頃からずっと鬱なのでは無いか、そのまま継続中なのではないかと思うに至った。


(うつうつ……してる。確かに)


「治ることのない病なのかもね……」


 狭い檻の中のように思える部屋の中。

 天井を見上げながら、そう呟いてみるのだった。

 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る