#終章




 ハサンの埋葬を終えると、リーシャは裏口から公爵家の屋敷に戻った。

 アリバイ工作をいろいろとしたので、公爵家の中でリーシャが一晩いなかったことに気づいている人は誰もいない。

 リーシャがいなかったことを知っているのは1匹だけだ。


「……ただいま、ハサン」


 リーシャが自室に入ると、猫のハサンは「僕を置いてどこに行ってたの」とばかりに少し怒った様子でリーシャに駆け寄った。

 抱き上げると、人間のハサンが小さかった時のことを思い出した。

 初めて抱いた時もそう思い、思わずハサンの名を呟いたら仔猫は返事をするように鳴いたのだ。それを祖父に見られ、猫の名前はハサンになった。


(……あと何回、こんなことを繰り返すんだろう)


 ハサンを抱いたまま、ずるずるとリーシャは座り込んだ。とても疲れていた。

 なのに考えずにいられない。

 アラムート城砦が陥落した日、ハサンを逃さず道連れにしていたらラインハルトが殺されかけることはなかった。

 生きて欲しいと願ったことが間違いだったんだろうか。もうそばにいられるわけでもないのに――。

 結果としてハサンはラインハルトを殺したい何者かに利用され、便利な駒として扱われた。

 しわがれた老人となったハサンの姿が苦しみに満ちた彼の人生を物語っていた。それをリーシャは善悪で判じたくなかった。

 ハサンはハサンなりに、必死に生きて成し遂げようとしたのだ。

 どうしてそれを軽々しく、善や悪だなんて言えるだろう。呪われたリーシャの人生こそが、すべて間違っているのに。


 屋敷がにわかに騒がしくなった。「困ります!」と叫ぶ公爵家の家令サーディンの声が聞こえる。

 いつもと違う様子に、リーシャの腕の中で猫のハサンが身を固くした。


「姫……!!」


 なんとなく予想していたが、追いすがる使用人たちを振り払って蹴破るように扉を開けたのはラインハルトだった。

 「変なの来た!!」とばかりにハサンは尻尾をピンとさせて緊張している。

 ラインハルトは怒り狂っていた。裏切り行為がバレたのかとリーシャは覚悟を決めた。こうなることも予想のうちだった。

 わかっていてリーシャはジョードたちを逃がすことを選んだのだ。


「どれだけ心配したと思ってるんだ!!」


 リーシャの肩を揺さぶってラインハルトは怒鳴りつけた。自分が怒鳴られたのかと、ハサンは毛を逆立てて「シャー」と威嚇している。

 リーシャは拍子抜けした。


(そっちか……)


 後ろではサーディンたち男性使用人が困惑したように立ち尽くしていた。


「お嬢様のお知り合いですか?」


 ラインハルトは返り血と泥で汚れて明らかに不審者の風貌だった。先触れも出さず、馬で乗り付けて来たんだろう。数ヶ月前――姉の婚約式の日――に公爵家を一度訪れているとはいえ、あまりに格好が違うし髪も染めているので、サーディンたちは皇子だと気づいていないようだ。


「名乗ってないんですか?」

「この格好でとももいないのに信じてもらえると思う? とにかく一目会いたいと物理で突破して『お嬢様』の部屋に行ったら姫の姉上が寝てて、悲鳴を上げられたよ。あとで謝っておいて」

(姉のストーカーだと思われたんですね……)


 サーディンたちが必死になって止めようとするわけだ。実は勘違いした姉のストーカーが屋敷に押しかけてくることは珍しくなかった。その中でもラインハルトは飛び抜けて体格がいいので、男性使用人たちでも止めきれなかったのだろう。

 リーシャは「友人です」とサーディンたちに説明した。


「お腹が空くと猛獣になる人なので、お茶と軽食をお願いします。量は多めで」

「……姫、俺は腹が減ってるから怒ってるんじゃないんだよ」


 ラインハルトは威厳と保とうとしたが、運ばれたお茶と軽食を平らげると怒りはだいぶ消えた。


「心配かけて申し訳ありませんでした。……ハサンに会いたかったんです」


 暗殺者がもういない確証をラインハルトたちは持っていなかったのだ。心配は当然のことだし、置き手紙を残して黙って行く行為は不誠実だとわかっていた。

 だがリーシャにはそうするしかなかったのだ。話せば止められるか、誰かに送らせると言われただろう。ジョードたちを逃がすには速やかに単身で戻る必要があった。


「お前か、諸悪の根源は」


 リーシャに抱かれた猫のハサンをラインハルトは両手を上げて威嚇した。ハサン違いで猫のハサンにはいい迷惑だった。


「姫をたぶらかす悪い奴め。ステーキにするぞ」

「ハサンをステーキにはさせません」

「俺だって姫に拾われたんだからな。先輩だからってでかい顔するなよ。俺のほうが強いんだぞ」

「猫に張り合わないでください……」


 ハサンはラインハルトを「嫌な奴」認定したようだった。「お前嫌い!」とばかりに唸るので、リーシャはハサンを放した。ハサンはラインハルトの手が届かない棚の上に飛び乗って、「帰れ!」とばかりに威嚇している。


「ふん、俺のほうが強いんだぞ。わかったか」

「ハサンをいじめないでください」


 猫には興味をなくしたのか、ラインハルトはじっとリーシャを見た。

 探るような目に、疑われているのがわかった。無理からぬことだった。


「……実は、近衛隊の所有する銃の一丁が行方不明なんだ。知らない、姫?」

「あー、似たようなのを拾いましたが、たぶん違う銃だと思います」


 持ってるが返す気はないと、控えめにリーシャは主張した。あれが一丁あると人殺しにとても便利なので返したくないのだ。


「俺が探してる銃かも。見せてくれない?」

「嫌です。もう拾ったから私のです」

「……銃が好きなの?」


 別に好きではなかった。だがリーシャの体格では暴力に不向きなので、不利を覆すには銃器が最も効率がいいのだ。


「最近は何かと物騒なので、身を守れる武器があったら安心なんです」

「それを言われると、ぐうの音も出ないな……」


 リーシャを危険にさらした自覚があるせいか――それだってリーシャが勝手に押しかけたのだが――ラインハルトはうめいて説得を諦めた。


「射撃の経験はどれくらい? どうやって保管するか知ってる?」

「祖父によく狩猟に連れて行かれました。弾を抜いて、鍵のかかる箪笥たんすで保管してます」

「祖父君が姫に銃を撃たせてたの!?」

「私のほうが祖父より腕がいいんです」

「そりゃあね……あの状況で冷静に発砲して当てられる奴は軍隊でも数人だよ。……どうして人質の女が敵の一味だってわかったの?」


 ジョードに聞いたからだ。だがそれは言えないので、リーシャはでっち上げた。


「70年前の短剣使いの中でもっとも恐れられたのは、白い悪霊と呼ばれる女の暗殺者だったんです。彼らが短剣使いの末裔なら、白い悪霊の後継者もいるかもしれないと思いました。それを伝え忘れたので心配で様子を見に行ったら、案の定、ライネさんが殺されそうだったので……」

「姫に心配してもらえるのは嬉しいけど、危ないよ。途中で暗殺者にばったり会ったらどうする気だったの」

「殿下に危害を加える前に、頑張って殺します」

「そこ頑張るとこじゃないよ!?」


 ラインハルトはソファから下りると、床に膝をついてリーシャの両手を握った。


「助けてもらったのにこんなことを言うのは矛盾してると思うかもしれないけど……姫は人殺しなんかしなくていいんだよ。そういう汚れ仕事は俺の役目なんだから」


 リーシャは目を瞬き、首をかしげた。


「軍人さんが敵を殺すのも、身を守るために人を殺すのも、汚れ仕事ではないと思います。ライネさんは汚れていません」


 ラインハルトは顔を歪めた。その苦しげな表情にリーシャは察した。


(それ以外で人を殺したか、死に追いやったことがあるのね……)


 意外とは思わなかった。ラインハルトは自身の魅力で人を思い通りにさせられる人だ。相手が同意の上だったかどうかはともかく、操るのは簡単だろう。


「……俺がしたことを姫が知ったら幻滅するよ」

「それはお互い様です」


 リーシャも前世ではひどいことをたくさんした。どんな手を使ってでも、呪いを解きたかったからだ。

 ラインハルトにも、そうした目的があるのだろう。


「……俺達は似たもの同士だね」


 リーシャの手を握ってラインハルトは微笑んだ。


「……ライネさん。極悪人同士、手を組みませんか?」

「うん?」


 隣に座り直したラインハルトを見上げて、リーシャは提案した。


「あなたのために働きます。暗殺でも密偵でも何でもします。その代わり、竜遺物がほしいんです」

「……竜遺物って帝位の象徴の剣? 皇帝になりたいの、姫?」

「象徴には興味がありません。剣本体が欲しいんです」

「竜好きを極めてるなぁ……」


 リーシャの提案にラインハルトは消極的だった。竜遺物を渡したくないのではなく、リーシャを駒として使うなんてありえないと思っているようだ。

 リーシャは説得を試みた。


「ライネさんが行けない場所に私なら入れます」

「……女風呂とか?」

「後宮です」


 ラインハルトの母親は後宮で殺された。犯人は見つかっていない。

 一度は皇子の身分を捨て、北の前哨基地でただの軍人レオ・ハインとなることができたのに、命を狙われる皇子として戻ったのは母親の仇を討つためだろう。

 だが成人したラインハルトはどんな理由をつけようと後宮に入ることはできない。それは皇帝に逆らう行為になる。


「姫を行かせられるような場所じゃない。あそこは毒蛇の巣だ。生まれたばかりの俺の兄弟も、女中も、遠い異国から嫁いできた姫君でさえも何人も死んでるんだ」


 ラインハルトは思いとどまらせようとしたが、リーシャは恐ろしいとは思わなかった。そういう場所こそ、惜しむ命のないリーシャが行くべきだ。


「自分で言うのもなんですが私は頭が回りますし、人殺しもできます。適任だと思います」

「そりゃ姫より賢い人はいないだろうけど……」


 苦い顔で前髪をかきあげ、仕方なさそうにラインハルトは白状した。


「……今までに3人、送り込んだ。軍人時代に何も知らない市井の女性と親しくなって、後宮に短期で働きに行くよう仕向けたんだ。……誰も戻って来なかったよ」


 だから皇子として戻らざるを得なかったのかとリーシャは納得した。

 人を送って後宮を探るのを諦め、皇子の立場を取り戻して調べようとしたのだろう。だが捜査は難航しているはずだ。後宮は皇帝の居住地であり、嗅ぎ回っていることがバレたらラインハルトでも身が危ない。

 彼の母親の死から14年が経った。証拠はもう何も残っていないかもしれない。犯人ももう死んでいるかもしれない。

 それでも諦めることはできないだろう。

 リーシャがラインハルトの手を握り返すと、彼はリーシャに微笑んだ。


「俺が皇帝になれたら竜遺物は姫にあげるよ。約束する」

「血みどろの道を行きますか」


 デートの日、ラインハルトはリーシャに尋ねた。

 大勢が死ぬ血みどろの道と、罪のない人が死ぬ犠牲の少ない道なら、どっちを選ぶかと。

 あの時から予感はしていた。血みどろの道は皇帝になる道で、罪のない人間が死ぬのは後宮に人を送り続けて探る道だ。


「……姫に何かあったら耐えられないからね」


 リーシャに頭をすりよせてラインハルトは言った。


「……ライネさん、本当は皇帝になんかなりたくないのでは?」

「そりゃあね。きさきと子供たちを殺し合わせて手に入る権力なんか、欲しくもなんともない。……皇帝なんかより、俺は年をとっても妻と仲のいい幸せな夫になりたかったよ」


 叶わない夢のように語るのが切なかった。

 ラインハルトは皇子という身分や将軍という地位、さらには母親ゆずりの美貌と美声と、立派な体格にまで恵まれているのに――彼は幸福を諦めている。


「なれますよ。あなたは欲しいものすべて手に入れることができます。私が手伝いますから」

「……じゃあ姫、大人になったら俺と家族になってくれる?」

「先のことはわからないので、まず大人のお嫁さん候補を探しましょう」

「そこで頷かないのが姫らしいね」


 ラインハルトは困ったように笑った。


(あなたと一緒に生きていくことは私にはできないんです……)


 リーシャの命はあと数年だ。それを隠して叶わない約束をしたくなかった。

 

(私があなたのために出来るのは、命を惜しまず戦うことだけ……)


 それでハサンのしたことの償いになるだろうか。

 弟のせいでラインハルトは死にかけた。そのことをリーシャは心から申し訳なく思っていた。


「ライネさんが嫌いなわけじゃないんですが……自分が長生きするとは思えないんです。大人になった自分を想像できないので、結婚の約束は空手形を出すようで気が咎めます」

「まだ若いもんね。俺も姫くらいの時は自分が大人になるとは信じられなかったよ」


 うまい具合にラインハルトは納得してくれたようだ。


「婚約した後に私が本当に早死したら、ライネさんは泣き暮らす気がしますし」

「婚約しなくても泣き暮らすよ」


 考えたくもないとばかりに、ラインハルトはリーシャの手をぎゅっと握った。


(だから私が死んだ後、あなたのそばにいてくれる人を見つけなきゃいけないんですよ……)


 死に方も気をつけなければならない。

 リーシャが竜遺物を求めるのは、竜さえ殺す武器なら、この呪いを終わらせて『本物の死』をくれるかもしれないからだ。


「姫は死なないよ。俺が死なせたりするもんか」

「……ならライネさんのことは私が守ってあげます」

「姫に銃を突きつけられたら、死神も逃げ出すね」


 声を上げてラインハルトは笑った。


「……姫が大人になる頃には、俺達は一緒にいるのが当たり前になってるよ」


 リーシャの髪を愛おしそうに撫でて、ラインハルトは初めて希望を語った。

 そんな日は来ないことをリーシャは知っていた。

 だから黙って、微笑んでいるしかなかった。

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転生令嬢は終わらせたい @dpen

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