記憶と迷宮

色街アゲハ

記憶と迷宮

 ずっと昔の事、僕がまだ碌に世の中の事を知らず、世界と自分とがぴったりと重なり合っていた頃、自分が目覚めるのと一緒に世界も目覚め、自分が眠るのと一緒に世界も眠りに就くのだ、と信じて疑わなかった頃。


 或る日の夕暮れ時、僕はある女の子と約束をした。もう、下校時刻を疾うに過ぎた、誰もいない夕暮れ時の運動場で、僕とその子は黒く長い影を伸ばした朝礼台の傍で、或る一つの約束をしたのだった。

 未だ男女の区別も曖昧で、互いにはっきり其れと意識する以前の、揺り籠の中に居たのだと思う。ほっそりとした手足。其の足は、片時も地面に触れる事無く、宙を軽やかに渡っていた。


 今でもこうしてその時の情景をはっきり思い浮かべる事が出来るのは、其の子が其処に居たからだろう。

 トタンの平屋根に半分沈みかけている、何処か作り物めいた、赤いスチール缶の夕陽。長く黒々と、何処か物言いたげな自分達の影。赤紫から青紫へと切れ目無く移って行く空に、唯一つ、ポツンと光る宵の明星。


 其れ等の情景は、僕の記憶の中で収束して行き、あの日のあの子の姿だけがその後に残る。


 又ふとした折に、心の内にあの子の姿が現われると、其処からもう遥か遠い物となってしまった筈のあの日の情景が一杯に広がって行き、閉じた瞼の裏を溢れんばかりに満たすのだった。まるで其れ等がたった今、其処に在るかの様に。


 其の中で、あの子はあの時の世界の中心に立っていた。其の姿は、僕の記憶の中で何処か妖精めいた、夕暮れの空の色に溶け込んだ、薄らと透けたものとして映っていた。

  

 空の中で一等光る宵の明星の煌めきが、あの子のあの時殆ど触れ合わんばかりに近付けて来た深く澄んだ瞳と重なり、その瞳をじっと僕の目に据えたまま、少し冷たくて柔らかな手で僕の手を握って、小さな、殆ど囁く様な声で約束の言葉を告げるのだった。また何時か何処かで、と。


 其の約束は今でも続いている。長く伸びた影の中にそっと忍ばせた、又何時か何処かで、と云う言葉。夕暮れ時の影の中に何時だってその言葉は甦り、記憶の中で鳴っていた鐘の音と共に聞こえて来るのだ。


 帰り道、家までの長い坂を下って、見上げた空に光る宵の明星と勇み足の月とが、何処までも自分を追い掛けるかの様に同じ処に留まっていた。

 今にして分かる。未だ世界に縛られず、足を半ば浮かせ世界中を飛び回っていた僕は、あの時、其の脚でその下の地球を転がしていたのだ、と。成程、だからこそ、あの時の星や月が何時までもその場を動かなかったのか、と。

 自分の下の地面だけでなく、その上に何処までも広がる空をも含めた全ての世界の中を、あの時確かに僕は生きていたのだ、と。


 今はそうではない。今や自分の世界はこの平たく広がった地面の上だけであり、その上を翼を失った獣宜しく、同じ処をグルグルと這い廻るのみである。中世の時代に逆戻り、と云う訳だ。

 その上、周囲に高く伸び上がった数多の建物が僕を取り囲み、其の中をさながら巨大な迷宮に迷い込んだあの牛頭の怪物と同じく、出口を探す事も諦めて彷徨い続けるしかない。


 しかし、自分は何の心配もしていない。何故なら、この迷宮の何処か、恐らくその中心となる所に、あの子の姿が、あの時と変わらぬ姿のままその身を丸め眠り続けている事だろうと、そう今この時であってもこの身に感じ続けているのだから。

 そして、その隣には同じく幼い頃から変わらぬ姿をした僕の姿も又。


 此の果ての無い迷宮の至る処で目にするありとあらゆる物、もし其れ等に何処か懐かしい既視感を覚える事が有るとすれば、それは、この世界の中心にあの子が居るから。

 何時か、あの時交わされた約束は果たされる時が来るのだろう。何時の日か迷宮の中心に辿り着き、その時こそ眠り続けて来た約束は封解かれ、この世界に溢れ広がって行く事だろう。

 例えそれを為すのがこの自分でなくとも。

 同じく果たされぬ約束をその身に抱えながら彷徨う誰かの手によって、或いはこの世界を歩き続ける為の確かな物を求めて、身を寄せ合って不安げに歩を進める二人の思い人の手に依って。

 

 そんな確信が有るのだ。


 だからこそ、僕は今この時であっても、安心してこの世界を彷徨う事が出来るのだ。この先に待ち受ける物、現われる物、それら全ての未来の中に、あの時の過去の約束の名残を見出す事が出来るであろうから。


 全ての未来があの過去の出来事から齎される、とそう確信しているのだから。




                                 終


 


 

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