山の主
@ninomaehajime
山の主
長くその山は禁域とされてきた。主は山の全てを知り尽くしており、許可なく足を踏み入れた者を一呑みにしてしまうという。
麓の里の子がいなくなった。生来から聞かん気の強い子だった。拭えない不安を抱えながら、母親は夫とともに我が子を捜した。里の衆が加わっても、息子は発見できなかった。やがて山へ入ったという目撃証言を得て、捜索は打ち切られた。
「あの子は山の主に食われたに違いない」
夫は失意とともに言った。己がもっと強く言いつけを守らせていれば、と母親は悲嘆に暮れた。当時は息子がまだ生きているかもしれないとは考えなかった。山中に入った者は、死人と同義だった。
我が子が帰らなくなってから、数年が過ぎた。そのあいだ、しばしば息子の夢を見た。あの山を駆け回り、木の棒を振り回している姿だ。一度は諦めた子供のことが頭から離れない。もしかしたらあの子はまだ生きているのではないか。長いあいだ、後悔と未練を引きずった。
覇気をなくした夫は流行り病に罹り、先に逝ってしまった。とうとう独りになってしまった母親は、山に入る決意をした。この里において自殺行為に等しいことはわかっていた。わずかでもいい。我が子がいた痕跡が見つかれば、この身を山の主に食われても構わない。
死を覚悟して立ち入った山中は、存外に
あてなどなかった。ただ息子の名を叫んだ。例え生きていたとしても、もうこの山にはいないだろう。頭ではわかっていながら、呼ばずにはいられなかった。
その呼び声に応えたのは別の声だった。大きな
赤い口腔を覗かせて、かの猫はもう一声鳴く。母親は思わずたじろいだ。黒猫は不吉だ。
すると黒猫は樹上で背伸びをし、身軽に地上へ降り立った。そのまま木立へと駆けていく。少し離れた場所で立ち止まり、長い尻尾を揺らして鳴いた。
自分を誘っているのか。黒い猫が毛繕いを始め、その様子を逡巡しながら見ていた。畜生が何を企んでいるのだろう。
ふと突飛な考えが浮かんだ。まさか、息子の居所を知っているのか。
平素なら笑い飛ばすであろう発想も、切羽詰まった母親には真に迫っているように思えた。どうせ山に侵入した時点でこの命は捨てたも同然だ。ならば、妖しげな黒猫の誘いに乗るのも良いだろう。
腹を決めた彼女は、黒い猫の後を追った。果たして、かの猫は駈け出した。付かず離れずの距離を保ち、母親が来るのを待っている。一体、自分をどこへ連れていこうとしているのだろう。
不吉な黒猫に誘われて、辿り着いたのは
まるで別世界だ。彼女はしばらく立ち尽くし、霞んだ視界で谷底を見下ろしていた。自分をここに連れてきた黒猫は
にわかに草木がざわめいた。四方から蔦が伸び、枝葉と絡み合う。母親は後ずさった。
山の主だ。茨で形作られた虚ろな眼光に射竦まれながら、彼女は直感した。まさに森羅万象を体現した、禍々しくも神秘的な御姿であった。
山の主は棘の牙を剥き出しにし、彼女の眼前で
その喉の奥から幼い声が聞こえた。
「おっかあ」
聞き覚えのある声音に顔を上げた。いなくった我が子の声だった。
「言いつけを破って、ごめんなさい」
獣の口でそう言うと、異形の狼の姿が瓦解した。
主は、山の全てを知り尽くしている。目から大粒の涙がこぼれた。あの子は、やはりこの山で亡くなったのだ。
大声を上げて泣いた。悲しいことなのに、不思議と心の荷が下りた気がした。涙でぼやけた視界に、あの黒猫の姿を見た気がした。
顔を上げても、そこにはもう何もいなかった。
山の主 @ninomaehajime
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます