真冬怪談

みっどないとだでぃ

#1000 『真冬怪談』

 まず、このお話しを語る前にお伝えしたい事がある。

 今から話すものは、厳密に言えば怪談ではない。もしも無理にカテゴリ分けをするとしたならば、それはおそらく“呪い”か“祟り”の類となる。当然、聞いた人もただでは済まない。確実に“呪われる”ものである。

 だが一応この話は高名な霊能者、そして某陰陽師の方からの許可を得て表へと出されたと言う経緯がある。だがそれは言わば“運転免許”を持った人が操る車のようなものであり、絶対に事故は起こさないと断言出来るものではないと言う事だけ念頭に置いておいていただきたい。

 そして仮にこの話を読んでいる最中に、気分が悪くなったとか、吐き気がする、鬱っぽくなったとか言う方がいたならば、もうそこで読む事は断念して欲しい。

 特に、黒い手がうねうねと伸びて来て自分を捕まえようとしているようなイメージを想像した方は、根本的に相性がよろしくないので、お控えていただきたい。


 このお話しの語り手は、当時東北のA県に住んでいたFさんと言う方。

 これは冗談ではなく、Fさんの身内や知人、計五人もの命が失われたと言う曰くの大きなものである。

 そしてその亡くなった人の性別は全て、“女性である”と言う事を付け加えてからお話ししたいと思う。

 余談ではあるが、今からこれを記す筆者自身、このお話しがきっかけで“怪談”と言うジャンルに興味を持った次第である。

 それではお読みいただきたい。筆者が“至高”と位置付けた恐怖体験談、“真冬怪談”。そして“みっどないとだでぃ”の記録すべき最終の千話目。

 かなり長いものとなるが、一夜にして最後までお読みいただけたら幸いである。



 #1000 【 真冬怪談 】 ― みっどないとだでぃ 最終話 ―


 東北の短い夏を終え、長い秋へと移り変わろうとしていた頃の事。

 当時、高校一年生であったFさんは、突然の引っ越しを余儀なくされた。理由は母の仕事の関係である。

 当時、Fさんの母はO市の飲み屋街でスナックを経営していた。――が、自宅から仕事場までは車で片道三十分程度。これが真冬ともなれば雪のせいで軽く一時間を超えたりするのだ。

「出来れば片道五分圏内がいい」との事で、強引にもFさんの母は勝手にO市内で家を借りてしまった。要するに引っ越しは既に決定済みなのである。

 だがFさんもその引っ越しにはまんざらでもなかった。なにしろ当時の自宅周辺は田畑しか存在しない過疎の村で、O市駅周辺の繁栄さとは比べものにならないからだ。

「新しいお家、見に行く?」と誘われ、Fさんは頷いた。

 駅前のロータリーを抜け、住宅街へと車を走らせる。そうしていくつかの角を曲がった辺りでFさんはふと気付く。――なんとも言えない違和感と、そして込み上げて来る居心地の悪さ。

 なんだこれ? なにがそう感じさせているんだ? 思った所で車が停まる。そしてFさんは瞬時に悟った。あぁ、違和感は目の前にあるこの家だと。

 母は家の庭先に車を乗り入れる。それはかなり大きな家で、庭にも数台は車を置いておけるだけの余裕があった。

 だがFさんはその家の大きさよりも、その家を包む妙な“壁”の方に関心を寄せていた。

 その“壁”自体は目に見えてはいない。だが確実に「そこにある」と断言出来るほど、Fさんには強く感じられていたらしい。

 壁はその家と敷地全てを飲み込むようにして、縦に長く存在していた。と言うよりも天から降りて来た細長い壁がその家の敷地を取り巻いているかのように、その家の一画全てがその壁の中に塗り込められているのだ。

「ここが、そう……?」と、車を降りながらFさんは聞いた。

「そうよ、凄いでしょう」と母は自慢気に言う。「敷金、礼金無しで、家賃五万円。安くない?」と母は笑うのだが、当時高校生だったFさんには家賃と言うものの相場が分からずただ頷くだけ。もしもそれなりに知識があったなら、いくら平均家賃の低い東北の賃貸物件だったとしても、安すぎるだろうとすぐに察した筈だった。

 家は、築年数五年だそうである。二階建ての白い家で、一階にはリビングとキッチン。そしてトイレと浴室、洗面所。二階には物置部屋を含めて三室。なかなかの広さである。

 玄関は東北ならではの横にスライドするタイプの引き戸。母は全く何の抵抗もなく玄関を開けたらしいのだが、Fさんには開けた途端に内側から流れ出て来る重い空気を感じ、中に入る事が躊躇われたと言う。

 さてそのFさん。昔からそれなりに怪異や不可思議な現象に出会う事が多かったのだが、ここまで強烈に“怖い”と感じるのは初めてだったらしく、同時に“手に負えない”と思えたのもこれが最初であった。

 家は、何者かの思念で溢れかえっているようだった。

 声にならない声。うるさいぐらいに無音の悲鳴。楽しい、嬉しい以外の全ての感情と、先住権を訴えるような圧倒的拒否感。溜め息と共に流れ出る体温と、恨めしいと言う感情が匂いに変換されたかのような空気。そんなものが主張し合い、混ざり合い、その家を形成しているようにさえ感じた。

 一階のリビングは相当に広い場所ではあったが、目に見える広さに比べてとても狭く感じたと言う。それはさながら駅構内の雑踏の中で、人混みを縫って歩いているかのような感覚。とにかくその規模には見合わない程に、居心地が悪かったのだ。

 正直、これからここに住むのかと思えば気が重かった。しかしFさんのその年齢で、しかも高校生と言う身分のまま一人暮らしをするにはなかなか障害も多い。

 一応、「俺だけ元の家に住むのは無理?」と母に聞けば、既にそっちの家は売却済みなのだと言う。

 母曰く、この家の二階の和室がとても素晴らしく、内見の際にその部屋を見てこの家に決めた程だったらしい。

 気が重かったが母の後ろに付いて二階へと上がる。上がった先に一つドアがあり、そこは物置部屋だと言うのだが、見れば充分に普通の部屋として使えそうな感じであった。

 次に洋間があった。フローリング床の広い部屋だ。母はそこをFさんの部屋にしても良いと言う。

 そしてその二階の廊下の突き当たりに、母が気に入ったと言う和室があった。

 ドアは襖戸だった。母がその戸の前に立った途端、Fさんの全身に有り得ないぐらいの戦慄が走った。

 強烈に、“そこを開けては駄目”と言う本能。咄嗟にFさんは、「待って!」と母を止める。

 その時の部屋の印象を、Fさんはこう語る。なんて迂闊だったのだろうと。

 外からこの家を見た瞬間に感じた畏怖と違和感はここだと。全てはこの部屋の中から流れ出ているものだと。そして、どうしてこの場に来るまでその事に気付けなかったのかと言う無念さ。どうしてもこの部屋の戸だけは開けてはならないと思い、Fさんは必死に母を止めたのだ。

「なんで? 見ないの?」聞かれてFさんは頷く。「今はいいから」と。

 それは憎悪だと思った。部屋から漏れ出て来る感情は、狂おしいほどに人を殺めたいと願うような純粋な憎悪。Fさんは一瞬で、「ここには住めない」とそう感じたらしい。


 だが無情にも翌日から荷物の片付けと運搬が始まった。

 不要な物から先に段ボールへと詰め込まれ、母がスナックに出勤する際に少しずつ車で運んで行くと言う計画だ。

 特に母の布団は真っ先に引っ越し荷物の中へと入り、翌日から母は例の家で寝泊まりをし、Fさんの食事を作る為だけに帰って来ると言う生活に切り替わった。

 Fさんは嫌々ながらも荷物をしまって行くのだが、やはりそれもいつかは終わりが来てしまう。最終の荷造りが終わると同時に、東京に住む父が箪笥やらベッドやらと大きな荷物を運ぶ為にトラックで帰省してくれる事となった。

 そして荷物は一気に片付いた。家に残る荷物は全て不要品で、後は業者が引き取ってくれる手筈となっていた。

「新しい家はどんな感じだ?」と父が聞く。Fさんはかなり迷いはしたが、「あそこは“何か”がいる」と、素直にそう話した。

 当然、そう言う話の類は全く信じない父の事だ。Fさんの話を大笑いし、「お前はいつまで経っても臆病だな」と皮肉った――が。

 Fさんの案内で家が近付くにつれ、父の表情が険しくなって行く。やがて家が目と鼻の先まで来ると、「なんか天候が怪しくなって来たな」と父は言い、「荷物下ろすまで降られなきゃいいけど」と心配を始めた。

 それを聞いてFさんは、やはり父も何かを感じているなと悟る。なにしろその時の天気は雲一つ無い晴天で、雨の降りようなど全く無い状況だったのだ。

「ここだよ」と、Fさんは例の家を指差す。ごくりと父の喉が鳴る。

 天気を悪く感じさせているのは、まさしくその家を取り囲むあの“壁”の存在だった。特に陽の光を遮っている訳でも、壁自体に色が付いている訳でもないと言うのに、何故かその家の一画だけがどんよりと暗く翳っているのである。

 庭先に母の車は無かった。どうやらどこかに出掛けているらしい。

 父は家に並行するようにしてトラックを停める。もちろんその大きさの車ならば余裕で停められる程度の広い庭なのだ。

 庭には背の高い大きな木が一本立っていた。二人はその木の下に荷物を下ろし、家の中へと運び込む事にした。

 ある程度目処が立った辺りで、「中を見る?」と、Fさんが父に聞いた。すると父は若干嫌がる素振りを見せながらも、「見てみるか」と玄関に向かう。

 入ってすぐに父は、天井のとある箇所を睨んだ。Fさん曰く、二階の和室がある方向だったと言う。やはり父も何か感じているなと察し、一階から順に家の中を案内した。

 二階へと上がると、思った通りに父もまた廊下の奥の部屋に反応を示した。

「なんだあの部屋は?」とは言わなかったが、その表情はまさしくその部屋への拒否反応が出ていたらしい。

 Fさんは言葉少なく、「分かった?」とだけ聞いた。そして父は黙って頷く。

「開けてみる?」と聞くと、父は少しだけ迷った挙げ句、「うん」と頷いた。

 だがそれは自身で開けると言う意味ではなかったらしく、部屋の戸の正面に立ってFさんが開けてくれるのを待っているのだと言う。

 仕方無くFさんは、「そこから逃げるなよ」と父に厳しく言い、そして部屋の襖戸へと手を掛け、一気に引いた。

 ――瞬間、家に蔓延していたあの嫌な気の全てが消え去った。あれほど五感に訴えて来たあの負の感情の全てが、その一瞬で無くなってしまったのだ。

 部屋はなんの変哲も無い、ただの畳敷きの部屋であった。中央に母が使っているのであろう布団が敷きっぱなしになっており、畳は先住者が何かの家具を置いていたのだろう、真新しい緑色の部分が所々に残っているだけの、普通の部屋であったのだ。

 なんだこれ――と、Fさんは拍子抜けした。あれだけこの家を怖がっていたのは何だったのか。今ではもう何も感じられない、ただの真新しい綺麗な新居でしかなく、荷物は滞り無く全て家の中へと片付いたのだ。


 Fさんが新しい家へと落ち着いて、約一ヶ月が過ぎた。

 想像していた通り、Fさんの家での生活は一人暮らしそのものだった。

 母は普段からあまり家に居着かない。敢えて言いはしないのだが、母には数人の不倫相手がいるらしく、大体はそのどれかの家で寝泊まりをしているのである。

 そして夕方に家へと帰り、大量の晩飯を作って夜の仕事へと出掛ける。そんな毎日。つまり夜ともなれば家にはFさん一人きりで、ある意味好きな事をやり放題な状況ではあったのだ。

 もちろん最初の頃は天国そのものだった。

 それまでは田畑しかない農村地帯で、娯楽と言えばテレビかラジオのみ。それが急に拓けた繁華街まで歩いて出られるようになり、その年頃の望んだ遊びは大体叶えられる環境下にあったからである。

 しかし、少しだけ気になる部分はあった。

 家の近所の床屋やクリーニング店などで立ち話をしたりすると、大抵聞かれるのが、「あまり見掛けないけど、この近所の人?」と言う質問。Fさんはその質問に比較的分かりやすい返答をすると、必ず口を噤むと言う事。

「あ、あぁ――あの家ね」

 そんな感じで立ち話はそこですぐに終わってしまう。意味は全く分からない。

 家の庭のガレージにいても、そこを通り掛かる人は皆、横目でFさんを見て通り過ぎるのが分かった。しかもやけに早足でそこを通り過ぎて行くのである。

 しかしその理由は誰も教えてはくれない。だがしかし、家に蔓延る異変は、Fさんの知らない間に確実に進行していた。

 最初は“虫”だった。特に甲虫の類が目立ったように感じる。突然家の窓にコツンとぶつかり、そして死んで落ちて行くだけ。

 家にいると絶えずその音がしていた。コツン、ぽとり。コツン、ぽとり――と、あまりにも頻繁にその音がするので外に出てみると、窓の外には大量の虫が落ちていたりするのである。

 その次は、“鳥”であった。ドンと音がするのは屋根に落ちた鳥。そしてバン、バタバタバタ――と続くのは、庭先に落ちた鳥。極めつけは窓にぶつかって来る鳥だ。

 バチン! と音がして、窓の外に何かが落ちる。見に行けばそれは鳩なり鴉なりの何らかの鳥で、何故かその家の周辺に落ちて来ては死ぬのである。

 果たしてその近隣もそうなのかと思えば、どうやらやはりそれはFさんの住む家の敷地だけで、他所で鳥が落ちた形跡はどこにも無い。なんとなくだがFさんには、例の壁に当たって落ちて来ているのではと言う想像が働いたらしい。

 次に起きたのは、“腐敗”だ。その家の中にある食材は、驚くべき早さで何もかもが腐るのだ。

 例えば前の日に作った母の料理。それがもう翌日には食えないものに変わっている。

 料理に限らず冷蔵庫の中にあるものは何でも良く腐った。夜食にと思って買って来たコロッケは夜にはもう饐えた匂いを放ち、買ったばかりの肉や魚はあっと言う間に色が変わる。特に葉物の野菜はそれが顕著で、すぐに冷蔵庫に入れても僅か数時間後にはしなびて潰れているのである。

 だがそれ以上に良く腐るのは、不思議な事に酒と塩と醤油だった。

 まず、酒である。もちろんこの酒とは、日本酒を指している。当時のFさんはもちろんの事飲酒はしていないのだが、家に置いてある開封済みの酒はすぐに酢となって飲めないものになったらしい。

 次が塩だ。台所に置いてある塩の調味料入れは、すぐに茶色に変色して嫌な匂いを発したと言う。しかも中身は水でもこぼしたかのように湿気っており、底の方にはその茶色の液体が溜まっていた。

 仕方無くシンクの下の収納スペースにおいてある未開封の袋を取り出せば、何故かその袋もまた同じ液体で満たされており、じゃりじゃりの湿った茶色い塩に変わっている。

 そして醤油である。どう言う訳か、開けて二日もすればその醤油差しの中身の表面には、白い粉が吹いている。

 実はこれ、その地方特有の迷信みたいなもののようであるが、醤油の表面に浮く白い粉はその地方の言葉で“きらら”と呼ばれていて、死人が出た家、もしくはこれから誰かが亡くなるだろう家の醤油にそれが浮くと信じられていた。

 そしてそれが良く浮くのである。しかも開けた途端の醤油にまでそれが浮かぶのだから、当時のFさんの家では個包装の小さな醤油パックしか使えなかったらしい。

 やがてその地方は冬となり、とうとう空には雪が舞い始めた。特にその辺りはA県の中でも豪雪地帯と呼ばれる場所で、一度根雪ともなればもう翌年の遅い春まで積もる雪が溶ける事は無い。

 Fさんの朝は早い。遅刻しないように学校へと行くには早朝六時台のバスに乗らねば間に合わず、朝ご飯は常にまだ朝日も昇らない時間帯だった。

 その“怪異”は、珍しく早朝から母がいる時に起きた。

 テレビを眺めながらFさんが朝食をとっていると、突然玄関のドアが開いた。

 カラカラカラカラ――トン――

 引き戸サッシ扉の、いつも聞く耳に馴染んだ音だった。そしてそれを聞いて、Fさんとその母は同時に顔を合わせた。

「帰って来た時、玄関の鍵掛け忘れた?」とFさん。

「そんな訳ないじゃない。ちゃんと掛けたから」と母。

 だが問題はそこではない。まだ空が夜のままの暗い時間帯に、誰がこの家を訪ねて来たかと言う事の方である。

「新聞屋さんかな?」

「そうかも知れない」

 新聞は取ってはいないのだが、どこか近隣の家と勘違いして届けたのだろうと思い、母がそれを受け取りに玄関へと向かう――が。

「開いてなかった」と、母は引き攣った表情で戻って来る。

「開いてなかったって、玄関の事?」Fさんが聞けば、母は「そう」と言う。

「じゃあ、元々開いていたのを誰かが閉めたって話?」今度は母は「違う」と言う。

 どうにも話が飲み込めず、Fさんは玄関へと向かう。そして気が付く。確かにおかしいのだ。

 玄関はしっかりと施錠されていた。しかもその鍵は二重のもので、ドアの上下に一つずつ。それも下の方の鍵はとても単純な閂(かんぬき)型で、要するに家の内側からしか解錠出来ないタイプのものだった。要するに、その閂が閉められている以上、外側からはドアを壊さない限り絶対に開きはしないのだ。

 しかも玄関は綺麗なまま。もしも外からの侵入者がドアを開けて中に踏み込んだとしたならば、今まさに外で降っている雪が玄関の内部まで持ち込まれ、土間の部分が汚れるのである。つまりは、玄関は開いていなかったのだ。

「でも開く音したよね?」

「確かに聞いた」

 結局その時は、気のせいか、隣の家の玄関の音だったのだろうと言う事で決着が付いた。


 それから、開く訳のない玄関が開くと言う怪異は、毎日のように起こった。

 まず前提として、その家の中でサッシの引き戸はその玄関にしかないと言う事。そして近隣の家はそれなりの距離があり、リビングから間近に聞こえる程度の音が、隣からここまで届く訳がないと言う事が上げられた。

 しかも季節は冬で、辺りはすっかり雪に埋もれてしまっているのだ。当然音は吸収され、隣近所どころか家の前を歩いている人の足音すらも届かないぐらいの静寂の季節なのである。

 だが、玄関は何の遠慮も無しに開いた。

 カラカラカラカラ――トン――

 それは日に数回、そこに誰がいようが、どんな時間だろうが構う事無く玄関が開いた音だけが聞こえて来るようになった。

 これが日中であったり、母がいる時ならばまだ我慢は出来た。だがそのほとんどはFさん一人きりの時ばかりであり、それが真夜中に聞こえでもした場合、翌朝までトイレにも行けず部屋で震えていたりしたのだ。

 そしてどうやらそれは、母が一人で家にいる時にも起こっていたらしい。Fさんが家に帰ると、「今日は二回開いた」とか、「どこが原因で鳴っているのか分からない」とこぼすようになった。

 さて、その家で一人きりのFさん。自室である洋間は、実は一階の玄関の真上に位置しており、夜中に玄関の音がすればどれだけ部屋で騒がしく曲を鳴らしていても必ずその耳に音は届いたらしい。

 そしてFさんはそれが嫌で、寝る場所だけは部屋を変えた。そう、階段を上がってすぐの所にある物置部屋だ。Fさんは懸命に中の荷物を整理し、無理矢理にベッドを詰め込みそこで寝る事にしたのだ。

 それでもやはり玄関の音は聞こえるもので、とうとうその頃には睡眠障害に近い症状までもが現われた。

 ある晩の事、うつらうつらとベッドの中で微睡んでいると、いつものように玄関のドアが開く音がする。

 Fさんは努めて鈍感に、「聞こえない聞こえない」と脳内で呟き無理にでも寝ようと頑張っていると、トン……トン……トン……と、一階の廊下を誰かが歩く音が聞こえて来た。

 瞬間、身体中の血液が沸き立った。今回は怪異ではなく泥棒だと、瞬時にそう察したのだ。

 枕元の木刀を取り上げる。上着を羽織り、そっと部屋のドアを開ける。

 階段を覗き込む――が、階下は暗い。人の気配も無い。だがこのまま再び布団へと戻れる訳も無く、Fさんは足音を忍ばせて階段を一歩一歩と下りて行く。

 下りた先はキッチンだ。普段からそこのドアは開けっぱなしなので中は見える筈なのだが、当然全て消灯しているので何も見えない。

 おかしいな、誰もいないのか。そう思った矢先、キッチンの中でパッと灯りが点いた。

 だがそれはキッチン内部の照明ではなく、どこか薄暗い黄色い灯りで、それが暗闇の中で四角の小さな灯りとなって見えたのだ。

 なんだあれ? 疑問に思ったのは一瞬だった。Fさんはすぐに、あれは冷蔵庫のドアを開けた時の内部の灯りだと気が付いた。

 だが次に来るのは、どうしてその冷蔵庫が開いたのかと言う事だ。Fさんはそれを眺めながら呆然としていると、今度は冷蔵庫のドアがFさんの目の前でゆっくりと閉まって行く。

 その瞬間、Fさんは見てしまった。その冷蔵庫の内側の光に当てられて、閉まって行くドアの取っ手を握っている“人の手”を。

「おう、おう、おぁ……あああぁぁぁぁぁ……」

 妙な声が聞こえた。それが自分自身の声だったとは、Fさんはその時点では気付く余裕も無かった。

 這うようにして玄関へと向かうと、そこで長靴を履いて外へと飛び出る。

 極寒の雪の中、Fさんが向かったのは母の経営するスナックだった。寝間着のまま飛び込んだ店の中、母は何かを察したらしい。店の外にある休憩所のドアの鍵を手渡し、そこで過ごしなさいと言ってくれたのだ。


 さて、それからと言うもの。冷蔵庫の手の存在は置いておいて、勝手に開く玄関ドアの音に対処する為に、Fさんは様々な事を実践してみた。

 盛り塩、清めの酒、お札、読経――だがそのどれもが全く効力も無く、相変わらず玄関のドアは開き続けた。

 やがて正月が来て、単身赴任の父が帰省して来た。そしてその父もまた家で一人きりの時にその現象に遭遇したらしく、Fさんが帰宅すると共に、「玄関が閉まっているのに誰かが来た」と慌てているのである。

 しかし、その家で起きる怪異のほとんどはその玄関の音ばかり。そうなると人も慣れて行くもので、「音だけならしょうがない」と、次第にそれが当たり前となってしまうのだ。

 正月明け、父が東京へと戻る。再びFさんは母と二人きりの生活となる。

 とある日の事、珍しく母がFさんの部屋に来て、「面白い番組やってるから見に来ない?」と聞いて来た。

 正直、Fさんは嫌だった。母に呼ばれていると言う事はあの和室に来いと言う事で、その家に引っ越してきたあの日以来、敬遠して一度も足を踏み入れていない場所だからである。

 だが何故か母は熱心に「一緒にテレビ観よう」と誘う。仕方無しにFさんは、「ちょっとだけなら」とその部屋に向かったのだ。

 母の部屋には炬燵があった。その家の中で炬燵があるのは母の部屋だけであり、Fさん的にはそれが唯一の楽しみでもあった。

 二人で炬燵にあたり、蜜柑の皮を剥きながらテレビを観る――が、Fさんはその番組の何が面白いのかが全く分からず、次第にずるずるとだらしなく寝そべって行き、終いには母の枕を借りて完全に横になってしまった。

 内心、この状況はまずいとFさんは感じていた。だが泥のように襲って来る強烈な眠気には逆らえず、徐々に瞼が落ちて行く。

 寝ちゃ駄目だ。ここで寝ちゃ駄目だと言い聞かせてみても身体は言う事を聞かず、Fさんは右の耳を下にするような格好で、不覚にも眠りに落ちてしまった。

 そしてそれを見て母が気を利かせたのか、ふいにテレビの音が途切れ、部屋の照明が消された感覚があった。

 すぅと、部屋の襖戸が開いた音がした。そして母は部屋を出て行ってしまったのだろう、トンと襖が閉まる音がして、それっきり部屋の中からは母の気配が消えてしまった。

 Fさんは内心、とても焦っていた。今までただの一度も来た事が無かった部屋に来て、しかも無防備に炬燵で眠りこけているのである。正直そんな状況下に身を置いた自分自身に腹を立てる程だった。だがそれも全て半覚醒状態での事、身体は完全に眠りに落ちている状態で、意識だけがかろうじて微かに動いているだけ。そんな場面でどうこうしようと出来る筈が無いのだ。

 静かな午後だった。聞こえるのは時折外を走る車のチェーンの音。そしてFさん自身が立てている寝息の音ばかり。

 すぅ―― はぁ―― すぅ―― はぁ――

 眠気はもはや完全にFさんを支配しており、Fさん自身も、「大丈夫だな。もうこのまま寝てしまおう」と思い始めていた頃だった。

 最後の――そう彼の持つ意識の最後の最後で、微かな疑問が脳裏を掠めた。

 それこそ気のせいだろうと思える些細な程度の事なのだが、なんとなく自身の吐く息が、“二人分”になって聞こえているような気がしたのだ。

 すぅすぅ―― はぁはぁ―― すぅすぅ―― はぁはぁ――

 いや気のせい気のせい。もういい、もう母が戻って来るまでこのまま寝よう。だが最後の最後まであらがうその意識が、その疑問を解消しようとすべく、してはいけない行動に出た。そう――Fさんは自らの意思で、自身の呼吸を一瞬だけ止めたのである。


 すぅぅぅぅぅ―― はぁぁぁぁぁ――――


 呼吸音は、全く止まっていなかった。どころかそれは、自身の口からではなく横になった後頭部の辺りから聞こえて来たのだ。

 Fさんの目が一瞬にして見開き、爆発的に身を起こしたかと思うとそのまま炬燵を跳ね上げ、部屋の襖戸を蹴り壊して廊下へと転び出た。

「母さん!」叫んで階下へと下りたが、母はもう既にどこかへと出掛けて行ってしまったらしい。そこには誰の姿もありはしなかった。

 Fさんはまたしても着の身着のまま、上着だけを羽織って外へと飛び出た。スナックが開くのはまだまだ先なので、Fさんは仕方無く近所の本屋へと向かい、夜が来るまでその店内で過ごしたと言う。


 結局玄関のドアが開くと言う怪異は収まるどころか徐々に回数を増して行き、怪異が起こり始めた辺りでは日に一度か二度程度だったものが、その頃には日に三十回、四十回と、休まる事なく開くようになってしまっていた。

 二月に入り、ずっと入院中だった祖母が退院を果たし、その問題の新居へとやって来る事になった。

 祖母は前よりとても足が悪く、歩くにも困難だった為、二階の洋間を使う予定だったものが階段を使わせるのは危険と判断し、リビングにベッドを置いてそこで生活する事となった。――が、祖母はその家を見るなり「あぶねぇ家だわ」と呟き、玄関をくぐるなり父と同じように天井の一角を見つめて固まった。

「誰かいんなぁ」と祖母は言う。母は、「おらんて」と返すが、「いんにゃ、おるで」と祖母は譲らない。

 だがその祖母の帰宅がきっかけで、Fさんは安心して家にいる事が出来るようになった。

 それまでは常に一人きりであったのが、足腰が不自由でも“もう一人いる”と言う心強さがFさんを落ち着かせてくれたのだ。

 ある日、Fさんが外に遊びに出掛け、家へと帰った直後の事。階下で祖母の呼ぶ声がする。

「なんかあったか?」とFさんが降りて行けば、何故か祖母はお菓子とジュースを二人分揃え、「部屋に持って行け」と言うのである。

 Fさんはそれをトレイごと受け取り、「何で二人分よ」と笑えば、祖母曰く「友達の分もだべ」と言う。

「友達? いや、誰も来てないけど」と返せば、祖母曰く、「お前が帰って来たすぐ後に、二階に昇って行ったべ」との事。

「誰がよ?」と、少々語気を荒げてFさんが聞けば、それは「スカートを履いた女の人だった」らしい。

 どうして祖母にそんな事が分かるのかと言えば、実際に祖母のいる場所からはそれが見えるのだ。

 まずリビングと廊下を隔てている扉は、上半分が障子で下半分が曇りガラスのものであると言う事。それが祖母の寝ているベッドからは直線でドアと廊下、そして玄関が見えるような位置になっているのである。

 そしてそのドアはキッチンの方にも同様のものがあり、そこからだと階段が見えるようになっている。つまりは祖母はベッドに寝ているだけで、玄関と階段の上り下りする“人の下半身”が見えてしまうのだ。

 そして祖母は足腰は弱っているものの、決して痴呆が始まっている訳ではない。したがって祖母が「見た」と言い張るものは、本当に見た可能性が高いのだ。

 しかしながらFさんはそれを鵜呑みにする訳にも行かず、「誰も来てないから」と言い張って二階へと戻った。要するに、単純に祖母の言葉が怖かったのだ。

 それ以降の事だ。祖母は時折、二階の和室の方向を仰いで、「誰かいる」と呟く事が多くなった。

「いや、誰もいないよ」とFさんは言うが、祖母はそんな言葉は聞こえもしないのか、「誰かいる……誰かいる……」と、うわごとのように呟くのだ。

 それは母もFさんも家を留守にして、祖母を一人きりにさせておいた時が一番ひどいらしく、帰って来ると祖母は天井に向かって、「誰かいんだかぁ?」と叫んでいたりするのだ。

 祖母曰く、二階から声がするのだと言う。

 それはいつもぶつぶつと念仏か何かでも唱えているかのような低い小声で、それがとても耳に触るらしい。

 時には明瞭に誰かとしゃべっているかのような声となり、更には笑い声までする事があったそうだ。

「お前、二階に女隠してんのか?」と、一度祖母にそう怒鳴られた。

 Fさんは「いないよ」と言うが全く信じてもらえない。だがその発言を聞く限り、祖母が聞いている声が女のものだと言う事が分かった。

 そしてとうとう、その事件は起きた。

 Fさんが家に帰って来ると、家の中のどこかから奇妙なうめき声がする。

「誰?」と聞いても返事は来ない。ただひたすらどこかで唸る声が聞こえるだけだ。

 リビングを覗く。いつもそこにいる筈の祖母の姿が無い。一体どこに? 思って廊下へと出ると、その暗い廊下の中、階段の一番下辺りでうずくまり丸くなっている何者かの姿があった。

 おそるおそる近付いて行けばそれは祖母で、その祖母が発しているうなり声だと言う事が分かった。

 Fさんは階段を見上げる。咄嗟にここから転げ落ちたのだと察する。

 すぐに救急車を呼ぶ。祖母はストレッチャーに乗せられて運ばれて行ったが、どうやら全身を強く打ち、骨も数カ所ほど折っているらしいと聞かされた。

 祖母は丸一日もの間意識が戻らなかった。そしてようやく目が覚めれば、看護師さん数人掛かりでベッドに縛り付けなければならないほどに取り乱し、半狂乱となって暴れ叫んだと言う。

 最初に母が病院へと向かった――が、祖母は母の顔を見るなり悲鳴を上げ、「出て行け!」と喚く。そして少し落ち着いたと思えば、今度はFさんの名前を呼び、「連れて来い」と言うらしいのだ。

 Fさんが恐る恐る病室を覗けば、祖母はベッドに括り付けられた状態で、「おう、Fか」と酷く嗄れた声で言う。

 まずFさんは、その祖母が今、とても異常な事態にある事だけは理解出来た。物心付いた辺りからずっと一緒に暮らして来た人だからこそ分かる、異常さがあったのだ。

 祖母の話はとりとめが無かった。かすれた声で、しかも片言で。同じ事を何度も何度も繰り返しては、時折ヒステリックに叫び、「助けて」と懇願する。だがその祖母が語る話の内容を根気良く懸命に拾って繋ぎ合わせて行けば、あの家で何が起こったのかを知る事が出来た。

 これはFさんが、その祖母から聞き出した話の内容である。


 ――オレ(その地方の女性の一人称)がいつものように居間で寝ていると、またしても二階の方から女の声がする。

 またかと思っていると、何故かその日の女の声はやけに鮮明で、喋っている内容がそこそこには理解が出来た。だがその話自体が実に意味不明で、何について話しているのか、何がそんなに可笑しいのか、女は良く喋り良く笑った。

「誰だおめぇ」とオレが叫ぶと、女は反応した。

 その内容こそは良く聞き取れなかったのだが、確実にオレの言葉に反応して馬鹿にしている。その辺だけは理解出来た。

 さすがにオレも腹が立った。いくら孫の女でも、いつまでもそんな舐めた真似してんじゃねぇと布団から出て、猛然と階段の方へと向かって行った。

「降りてこう!」

 階段の上の方へと向かって叫ぶが応えは無い。代わりにどこかくすぐったくなるような微かな笑いだけが耳に届く。

 オレはカッと来て、居間へと戻ってステッキを拾い上げる。いつも歩く時に使っている、補助用のステッキだ。正直これでぶん殴ってやろうかとも考えたのだ。

 階段は両手両足をついて這って登った。息を切らせながら登って行くと、途中で階段は左に直角に曲がる。そうしてようやく登り切ると、そこは初めて見る新居の二階。部屋へと続く扉は三つあったが、どの部屋に例の女がいるかはすぐに分かった。

 ――と言うか、そこで全てが分かった。その部屋の襖を見た瞬間、そこに女がいる事と、そこがS子(Fさんのお母さんの名前)の部屋だと言う事。そしてもうS子はその部屋に喰われていると言う事と、自分がここまで呼ばれたのは”罠”であったと言う事だ。

 到底勝ち目は無いなと察した。そしてこの家に棲まうモノがその女一人ではないと言う事も。

 すぐに階段を降り始めた。今度は一段ずつ尻を突き、両足を使ってずり落ちて行くような格好での降り方だ。

 数段降りて直角に曲がる。下までは距離にして僅か十数段。大丈夫だ――と思った所で顔に何かがぶわーっと掛かった。

 何だこれと疑問に思ったのは僅か一瞬だった。すぐにそれが、“長い髪の毛”だと気付くのにはさほど時間は要らなかった。

 だが何故その髪の毛がオレの頭上に? 思い、顔を上げた。

 目の前に顔があった。おそらくは二階廊下の手摺りの間から顔を出しているのだろう、降りようと階段に腰掛けている自分の真上にそれがあったと言う訳だ。

 距離にして数センチ。表情はその垂れ下がる髪の毛で隠され、暗くて良く分からないのだが、それがS子の顔だと言う事だけはすぐに分かった。

 オレはそこで悲鳴を上げた気がする。――が、目を覚ませばこの病院のベッドの上にいた。


 そこまでが祖母の語った全容だった。

 Fさんはその階段の下で祖母がうずくまっていた事、そして全身数カ所の骨折の理由がようやくはっきりと理解出来た。

 そして祖母は、「S子はもう無理だ。お前だけでもいいからすぐに逃げろ」とそう言った。

 家に帰り母を探す。が、どこにもいない。怖かったが一応は、例の和室の襖も開けて中を確かめた。もちろん誰の姿も無かった。

 それから約四日ほど、母は行方をくらませた。スナックの方は従業員が数名いるのでなんとか開ける事は出来ているらしいのだが、母がいない為に祖母の入院の件を相談する事で出来ないのである。

 五日後に母が家に帰って来た。何故か妙に機嫌が良く、顔がやけににやけている。

 Fさんは母の顔を見るなり祖母をどうするつもりか聞いてみた。すると母曰く、「弟の家で預かってくれるから」と言う。そして実際、祖母はそれ以降ただの一度も家には戻らず、病院から直接Fさんの叔父の家へと運ばれた。

 余談だが、祖母は叔父の家をとても怖がった。何が怖いのかと問えば、単に階段のある場所を怖がっていたらしい。

「何か降りて来んつぉ」と怖がり続け、それに辟易した叔父の一家は他の兄弟達に頼んで預かってもらった。――が、やはりどこの家に行っても階段を怖がる祖母は、結局階段の存在しない家、一番下の弟夫婦が住むマンションへと越して行った。

 祖母はその家だけは怖がらず、ようやく安心したようにして、それからすぐに逝った。

 家の、最初の犠牲者は祖母であった。


 もうその頃になると、Fさんの自宅では遠慮の無い怪異ばかりで満ち溢れていた。

 玄関のドアが開く音は日常茶飯事となり、それ以外にも人の足音や咳払い、ひそひそと何かを呟くような気配などが絶えず感じられるようになった。

 それはまるでFさんが初めてこの家に来た時に感じた、“何者かの思念で溢れかえっているよう”と言う表現が、まさに具現化されたかのようなものだった。

 家中に貼られたお札はすぐに茶色に変色するか、風雨にでも晒されたかのようにくしゃくしゃに丸まった。

 盛られた塩はすぐに爆ぜて飛び散り、開封された清酒の類は栓をしていても中身が蒸発してしまう。

 その異常さを常に肌で感じているFさんは、日中は家で仮眠をし、夜ともなれば母のスナックの休憩室へと向かってそこで寝泊まりをするようになっていた。

「もうこの家出たい」

 Fさんが久し振りに帰って来た母に向かってそう言えば、さすがの母も困った顔をして「そうだねぇ」と頷く。だがやはり家に未練があるのだろう、「もうちょっと我慢出来ない?」と聞くのである。

「母さんは滅多に家にいないから、今がどんな状況か分かってないんだろう」

 堪らずFさんがそう言うと、母は何故かきょとんとした顔で、「いつもいるじゃない」と返す。

「いや、いないだろ。いつもいつもどこほっつき歩いてんだか知らないけど、こうして帰って来る事の方が珍しいじゃないか」

「何言ってんの、ちゃんと毎日帰って来て、ずっとここにいるでしょう」

 全く話が噛み合わない。だが、「あんたこそちゃんと学校行きなさいよね」と、諭して来る。帰って来ない割には、Fさんがずっと学校をさぼって休んでいる事を知っているのだ。

「とにかくこの家は出たい」

 尚も強く言うFさん。すると母は妥協案として、お祓いをしてもらおうと言い出した。

 まぁ、それでもしもこの怪異が消えるのであればとFさんも頷きはしたが、到底そんなもので祓えるものかと言う気持ちは確かにあったらしい。

 さてその翌日には玄関先に神棚が取り付き、榊や御神酒も供えられた。やがて神主さんが車で到着し、衣装そのままの姿で降りて来た。Fさんはそれを眺めながら、これは何となく期待が持てそうだなと思った矢先だった――

「こりゃあかん」

 とは、その神主さんの言い分だった。

「あかんって、何がですか?」

「これは無理や。どう見ても私には祓えん」言いながら再び車に乗り込む神主さん。

「祓えんってどう言う事ですか?」

「祓えんもんは祓えんのんや。もうちょい他当たって」

 そう言って神主さんは勢い良く車をバックさせ、帰って行ってしまった。

 当然、祈祷の入らない神棚は何の効力も発揮せず、怪異はまるで止む気配が無かった。

 さてそれから数日後、今度は家に仏壇がやって来た。そしてそれは祖母が寝ていた場所に設えられた。

「今度こそ大丈夫」と、母は言う。何でもその前の日、近くの寺へと相談に行ったらしい。そしてそこの住職さん曰く、「ご先祖様をないがしろにしているでしょう」と言うのだ。

 確かにそうだった。引っ越して以来、持って来た位牌や遺影の類は全て段ボールの中に入れっぱなしでただの一度も出してはいなかったからである。

「その荷物、どこにあったと思う?」

 聞かれてFさんは、もしかしてと思う部分があった。そう、その荷物は母の部屋の押し入れにあったのだ。

「それで全て辻褄が合うでしょう? 住職さん曰く、ご先祖様が怒って、ここから出せと言っていたみたいなのね」

 なるほど、確かにその怪異の源となる場所は母の部屋である和室からだ。そう聞けば納得出来るものはあった。

 仏壇に先祖の位牌が並べられ、その上部には遺影を飾る。準備が出来上がった頃に住職さんが到着し、そして今度そこ無事に経をあげてもらい、慰霊は済んだ。

「くれぐれもご先祖様だけはないがしろにしないよう」

 言って住職さんは玄関先で手を合せ、そして帰って行った。

「これで済んだのかな」とFさんが聞けば、「もう大丈夫でしょう」と母は笑う。

 確かにもう何も起きないような気がするなとFさんがそう思った所で、玄関が開いた。

 カラカラカラカラ――トン――

 あら、住職さん忘れ物でもしたのかなと居間の戸を開けると、玄関の扉は閉じ、しっかりと施錠されていた。


 それからはますます、母は家に帰らなくなってしまった。

 その頃、Fさんは素行の不良や友人間のトラブルなどでほとんど学校にも行っておらず、時折来る担任からの電話の中では、自主退学の話も持ち上がっていた。

 母の経営するスナックからは再三、「ママはどこ行っちゃってるのよ?」と、従業員達から連絡が来る。どうやら賃金未払いが生じていたらしい、「全員もう辞めるからねって、伝えておいて」と怒鳴られて電話を切られる。やがて店を貸している大家さんも痺れを切らしたか、「今月中に出て行ってくれ」と言い出した。そしてとうとうFさんは、夜に寝泊まりするスナックの休憩室を使えなくなってしまったのだ。

 かと言って、その家に一人きりでいる事だけは極力避けたい。特に夜は、眠る事も叶わないぐらいなのだ。そうなるともはや野宿以外の選択は無くなってしまう。

 するとそんな困り果てているFさんの元に、一本の電話が掛かって来た。それは中学と高校が一緒だった同級生のT君で、彼もまた家庭の事情で素行のよろしくない生活をしていた。そのT君が、「お前今、O市に住んでるんだって?」と聞いて来る。

 なんでもそのT君、最近暴走族に入ったそうで、走る場所が大体O市付近。そして集会が終わるのがほぼ明け方で、そこから自宅へと帰るのが遠過ぎて困っていたらしく、「仮眠程度でいいから泊まらせてくれよ」と来たのである。

 それはとても好都合過ぎた。Fさんはすぐさま、仮眠どころじゃなくていいからいつでも泊まりに来いと返した。するとT君、俺ももう家にはいたくないからそこ住んでもいいかと聞いて来る。当然Fさんは、「全然構わない」と返事した。

 T君はもうその晩から来る事となった。到着時刻は夕方との事だったが、いくら待ってもなかなか来ない。もちろん当時はスマートフォンどころか携帯電話さえも存在していなかった時代だ。連絡手段は公衆電話にしかなく、向こうから掛けて来ない限りどうしようも無いのだ。

「早い来いよ」とFさんは痺れを切らしていたのだが、ようやくT君らしきバイクのエンジン音が庭先に聞こえて来たのは、既に深夜に近い時刻であった。

 階下まで降り玄関を開ける。見ればバイクは二台停まっていて、それはT君と、高校の同級生のK君の姿。彼らはどこで買って来たのかバイクのハンドルにビニール袋を提げ、その中には大量のビールとつまみが入っていた。

「遅かったじゃん」とFさんが言うと、T君は申し訳なさそうに、「隣の県まで行かないと、店が開いてなかった」と言う。

 さぁ、それじゃあ酒盛りするかとT君は家の玄関の方に向かうが、何故かK君はヘルメットを脱いだままバイクから降りようとはしない。

「どうした?」とT君が聞けば、K君は呆けた顔をしながら「どこから?」と聞く。

「どこからって、玄関からだろ?」と言うと、「どこが玄関だよ」と来る。

「玄関はここ」とFさんが言うと、K君はまたぼーっとした顔で、「あぁ、そこが玄関か」と返答しながら、「俺は帰るわ」と言うのである。

「どうして?」

「どうしてって……だって、そこからじゃあ入れそうにないし」

 言ってK君はヘルメットをかぶると、「じゃあ」と言ってエンジンを掛ける。それをすかさずT君が止めに行き、「なんでだよ?」と聞く。

「いや、これは入れねぇって。例え入ったとしても、なんか生きて出て来れないような気がする」とK君は言う。

 困ったT君。交互にFさんとK君の顔を見比べながら、「じゃあ俺も帰るわ」と言って、バイクに乗ってしまった。

 そうして走り去って行く二台のバイク。それを見送りながら、Fさんはどうやってその夜を過ごそうかと悩んだ。

 ――さて、ここで話は少し逸れる。これはこの日から数えてずっと先の事なのだが、FさんはT君と連絡を取り、なんであの晩、二人は家に寄らずに帰ってしまったのかを聞いた。するとそこには、Fさんですら予想も出来なかった返答があった。

 これは全てK君視点である。K君はまず最初に、「斑(まだら)な家だな」と思ったらしい。

 白地に黒。しかもその黒は要所要所で固まっていて、さながらパンダの模様にすら見えたと言う。

 バイクを降りたT君が、Fさんと何やら話しをしており、さぁ酒盛りするかとやけに黒い模様に向かって歩いて行く。すると二人はK君の方へと向き、「どうした?」と聞いて来る。

 そしていくつか言葉のやり取りをして、「玄関はここ」と、Fさんがそのやけに黒い模様を指差した時にようやく全てを理解した。

 模様が、動いた。それは決して家の壁に描かれた模様なんかではなかった。

 それは単なる黒い物体の集合体で、寄り集まって形成されたその塊は、全てが真っ黒な“人”だった。

 焼けただれているのか、それとも最初から黒いのか。手足はやけに長く、服も毛髪も無いその“人の姿達”は、Fさんが「玄関はここ」と指差した方向に、うじゃうじゃと集まって一つの塊を作っていたのだ。

 見ればその塊は家の外壁のあちこちにあり、おそらくはその全てが窓の部分なのだろうとK君は察した。要するに、白地に黒の斑(まだら)模様なのである。閉め切った窓や玄関に貼り付くようにして、その黒い人の姿の塊が、家を塞いでいるのである。

「なんか入ったら生きて出て来れなさそう」

 そう言って帰って行ってしまったK君は、後にも先にも、“人ではないモノ”を見たのは、それ一回きりだったそうである。


 さて、T君をあてに出来なくなってしまったFさん。実はもうその頃には高校を中退しており、仕事を探している最中であった。

 なにしろ母は帰って来ない。金も置いて行かない。従って学費を払うどころか食費も無ければ学校に向かう為の交通費すら無い。追い詰められた生活となっていたのだ。

 出来れば住み込みの仕事がいい。だがなかなかそう言う都合の良いものなど無い。困っているFさんの元に、今度はまた高校時代の同級生であったW君から連絡が来た。

 そのW君、Fさんよりも先に高校を中退しており、彼もまた複雑な家庭の事情で自ら生活費を稼がないと暮らして行けない身の上だったのだ。

「よう、F」と電話を寄越したW君、どうやら仕事場はO市にあるスーパーマーケットで、倉庫の仕事をしているらしい。

「家から仕事場までスクーターで通ってるんだけど、遠すぎて困ってる」と言うW君の言葉に、Fさんはまたしても、「じゃあもう、ウチから通えばいいじゃん」と返答した。

 するとW君、それは助かる。そんなら家賃の半分払うと申し出る。ついでにそのスーパーの人達に、周辺で仕事の募集はないか聞いてくれると言うではないか。

 もう何もかも好都合。なら早速来いよ――と言い掛けて、Fさんは「一応話しておく」と、家で起こる怪異について語り出した。するとW君、嫌がるどころか声を弾ませ、「すげぇ、俺もそう言う体験してみたい」と言う。ついでに「写真撮らせてくれ」とまで。

 結局、W君はその日の内に家に来た。そして物珍しげに家中を隅々まで探索し、例の母の部屋にまで踏み込んで、愛用のフィルムカメラで写真を撮りまくった。

「悪趣味だな」とFさんは苦笑いしたが、W君は「何か写ったらすげぇな」と言って興奮している。

 やがていつも通りに玄関の開く音がした。するとW君は怖がるどころか、「マジじゃん」と言って喜ぶのである。

 こうなると、例え遠慮無しの無神経でも、こんな状況下では頼もしい。W君はその家の部屋数すらも気に入って、「一部屋もらえるなら、向こうのボロアパート返してこっち住むわ」と言う。当然Fさんは「いいよ」と即答した。

 そしてW君は、「お前も写してやるよ」とFさんにカメラを向ける。Fさんはその行為に少々抵抗があったのだが、「記念だから」と言って強引に写そうとするW君に負け、仕方無く無理に引き攣った笑顔で写真に写った。それは二階の自室である洋間。しかも玄関の真上に位置する窓の前での事だった。

 シャッターが降りる瞬間、Fさんはなんとなく嫌な予感がしたと言う。

 それこそ“なんとなく”なのだが、自分が写るその写真には、何か取り返しのつかない“モノ”が写り込んでしまっているのではないかと言うそんな予感。そしてその予感は、しばらくの後、当たってしまっていた事を知る。

 その晩、Fさんは久し振りに安心してゆっくり眠る事が出来たと言う。

 怪異自体はいつもの事だが、傍に誰かがいると言う安心感。しかもその相手は怪異を怖がるどころか逆に楽しんでさえいるぐらいの存在なのだ。もはや安心どころか、少々自分自身が臆病過ぎたのではとさえ考えるようになったらしい。

 さてその翌日、W君は「職場が近いと家出るのも楽だな」と笑い、時間ギリギリに家を出た。そしてFさんがW君を見たのは、それが最後であった。

 ――結局、W君は夜になっても帰って来なかった。どころか翌日も、その翌日も戻って来ない。気になったFさんはW君の職場に電話を掛け、出勤しているかどうかを訊ねると、「こっちが聞きたいよ。もう二日間も無断欠勤してんだから」と言われた。

 そしてここからはまたしばらくの後に聞いた後日談の内容である。

 ――何人かの友人の連絡を経て、ようやくW君の行方が知れた。なんと彼はN県にいると言うのだ。

 W君の家の事情もまた結構複雑で、両親とは死別した訳ではないのだが、どちらも彼と一緒に暮らしてはいない。何でも聞いた話によると、父親が作ってしまった膨大な借金の返済の為、両親とも別の場所で昼夜働いていると言う。だからこそその話を聞いた時、W君は両親のどちらかと一緒に暮らし始めたのかと思ったのだ。

 だが内容は違った。W君は遠縁に当たる親戚筋を辿ってそこで居候をしているらしい。

 Fさんはなんとかそこの家の連絡先を聞き出し、W君に電話を掛けた。――が、出ない。その家の奥さんか誰かだろう女性の人が出て、W君は今不在にしていると言われるのである。

 それでも二度、三度と電話をするFさん。なにしろFさんの家にはまだW君の荷物があり、それを返せないままでいるのだから仕方無い。日をあらためながらFさんは何度も連絡を試みた。

 そうして五回目の電話でようやく本人と繋がる。あれほど元気で声の大きかったW君は、驚くほどに引っ込み思案な返事しかしなくなり、なんとか電話を早く切り上げようとしているように感じられた。

「荷物はもういいから捨ててくれ」とW君は言う。Fさんは捨てろと言うなら捨てるが、せめて何があったのか教えてくれと食い下がった。

 そしてようやく渋々と話し出すW君。そしてその話の内容は、Fさんにとっても衝撃的なものだった。

 W君はその日、出勤するついでに昨日撮り溜めたカメラのフィルムを現像に出した。

 そこの写真屋さんはスピード現像が売りの店で、朝出せば昼には終わっていると言う早さなのである。

 当然、W君は昼休みの間にそれを取りに行った。もしも何か変なものが写っていたら大手柄だとか思いながらの引き取りだったらしい。――だが、受け付けでW君は忠告を受けた。現像をするにはしたが、これを見る事は勧められないと言う。出来る事ならここで全て破棄して欲しいとまで。

 一瞬、本当に変なものが写ってしまったのだろうかと言う考えが頭をよぎった。だが実際の内容はW君の思う想像以上のもので、写真屋さんの忠告を全て無視してその写真を全て引き取った。

 午後はもう仕事どころでは無かったらしい。結局W君はとても仕事を続行出来る体調ではなくなっており、誰にも何も告げずそっと自分の家へと帰って行ってしまった。

 もちろんそれは引き取った写真の内容によるものだ。そう、W君はその昼休みの間に写真の全てに目を通してしまったのだ。

「何か写ってたのか?」と聞くFさんの言葉にW君はしばらく黙ったままで、やがてぼそりと、「撮った全ての写真に、奇妙なものが写ってた」と言うのである。

「写ってたって、どんな?」

「……言えない」

 何度かそんなやりとりをした後、W君は「一枚だけなら」と前置きし、Fさんを窓辺に立たせて撮った写真の内容を語って聞かせてくれた。

「間違い無く、あの時、あの場所には俺とFしかいなかった」と、当たり前の事を言いながら、「窓の外に人の影が写った」とW君は言う。

 それはFさんの背後にある、窓の外の事。Fさんより若干高い位置にその人影はあった。

 左手をべったりと窓に付け、右手は今にもその窓ガラスを叩こうとでもしているかのように振り上げられている。

 ちなみにその窓は細かい凹凸のある磨り硝子となっている。要するに光は通すが外の光景はあまり鮮明ではないのだ。だがそれでも、そこに立っている人の姿はそれなりに判別が出来た。――女性であった。

 髪の長い女性が左手を窓に付け、今にもそこを叩こうとでもしているかのように右手を挙げている。そしてその表情は“驚き”の表情で、目を見開き口を開け、カメラの方を睨んでいた。そして――その全容は、“真っ黒”だったと言う。

「F、もうそこにはいるな。一秒でも早くそこから出てくれ」

 この一言がFさんの決心を固めた。そしてW君は、「葬儀の準備があるから」と言って電話を切り上げようとした。

「誰か亡くなったのか?」と聞けば、お世話になっている家の奥さんが急死したとの事。おそらくはいつも電話に出てくれていたあの女性だったのだろうとFさんは察した。

 そして通話は終わったが、結局それがW君との最後のやりとりとなった。その後は電話自体が通じなくなっており、それっきりW君の行方は知れない。

 Fさんはすぐに行動に移した。もうこの家にはいられないと本気でそう感じたのだ。

 そして最終の手段に出る。父親だ。まずは父に頼って他に住める場所は無いかと聞いてみるつもりだったのだ。

 ちなみにその父とは、訳あってもう他人なのである。従ってそう簡単に頼っても良い筈は無く、それまでずっと相談せずにいたのだ。

 Fさんが電話をすると、父はその理由も内容もすぐに理解してくれた。実際に父もその家に来て、いくつかの怪異は体験しているからだ。

「分かった。家はすぐに探す。二人共こっちに来て三人で住もう」と父は言ってくれた。あぁ、ようやく助かると思ったその瞬間だった。

「でも、いいのか? 彼女とはもうそうそう逢えなくなるぞ」

 うん? 意味が分からない。「彼女なんかいないぞ」と答えると、父は一瞬だけ言葉に迷い、「じゃあさっきからお前の隣でずっと相槌打ってるのは誰だ」と聞く。

 瞬時に、身体中の全ての毛穴がぶわっと広がった感覚があった。Fさんはその言葉に対し何も答える事が出来ず、同時に父もその意味が分かった様子だった。

「すぐに準備する」と言って父は電話を切った。

 その晩からFさんの野宿生活が始まった。庭にある木の根元に家から運び出した箪笥や襖などで囲いを設け、外から見えないように簡易の住居スペースを作り上げた。

 そこに布団を敷き、夜はそこで寝た。食事やトイレ、風呂などは、昼の内に全て済ませておき、夕方にはもう外での生活となった。

 それで少しは安心感を得る事が出来たのだが、横になったまま木の枝を眺めつつ、何とも言えない不安な気分に駆られる。

 そして父は一週間後に、トラックに乗ってやって来た。そのタイミングで、今まで音沙汰の無かった母までもが戻って来たのだ。

 父に聞こえないよう、「どこ行ってた」と聞くのだが、いつも通りに母は、「ずっと家にいたじゃない」としか言わない。

 仕方無くFさんとお父さんは順次荷物をトラックへと積み込み始めるのだが、それを母が凄い剣幕で止めに掛かる。「一体何してんの?」と。

 まずはここからかと、Fさんは母を説得に掛かった。これはもう人が住めるような家ではないし、何かどこかおかしいと言う類のものではない。信じられないがこれはまさしく“化け物屋敷”だと。

 二人で説得し、ようやく母も渋々と頭を縦に振った。荷物は次々に梱包されて荷台へと積み込まれて行く。そしてFさんは二階の自室へと上がり、これでようやくこことも離れられると思いながら荷物を整理していたその時だった。

「バン!」と、激しい音がした。しかもそれはその部屋の中での事だった。

 見回すが音を立てた原因は見当たらない。またしても窓に鳥がぶつかったのかと思ったのだが、実はそうでもなかった。

 またしても「バン!」と打ち鳴らされる。今度こそ、“やはり窓だ”と確信する。

 手を止めて窓を凝視するFさん。さすがにもう次は鳴らないだろうと思ったその瞬間、もう一度「バン!」と窓が鳴った。

 その場で荷物を取り落とし、尻もちをつくFさん。――見てしまったのだ。その窓を叩いた“原因”を。

 それは“手”だった。しかも焦げてしまっているかのような真っ黒な手のひら。それが忽然と磨り硝子越しに窓の外へと現われたかと思うと、硝子を破らんばかりの勢いで窓を打ち付けたのだ。

 ――見間違いか? 無理にそう思おうとしたが、それがまるで合図であったかのように部屋中の窓が鳴り響いた。

 バン! バン! バン! ――バババババ、バンッ!

 それはさながら突然降り始めた豪雨のような印象だった。そしてそれが皮切りとなって、次こそ家中の全ての窓と言う窓が鳴り出した。

 ババババババババ、バンッ! バン、バン、ババババババババババ――

 部屋から文字通り転げ出る。二階の廊下の窓は全て、良くそれで割れないなと思えるぐらいに内側へと向かって歪んで反り返り、激しく波打ってたわんでいる。

 微かだが、手のひらが見えた。それはもう無数の腕と掌で、それが狂ったかのようにして窓を打ち付けているのだ。

「きゃあああぁぁぁぁぁーーっ!!!!!」

 階下から母の悲鳴が聞こえた。同時に何かが落ちて割れる音。Fさんは上手く歩けず滑り降りるようにして階段を下りた。

 キッチンへと向かえばそこに母はいた。一体何をしているのか、懸命に食器棚を押さえているのだ。

「何やってんだよ!」とFさんが母の手を取って棚から引き剥がせば、どう言う訳かその食器棚はぐらりと揺れてこちらに向かってゆっくりと倒れ込んで来る。慌ててFさんがそれを押さえると、またしてもぐらりと元に戻るが、手を離せばすぐに倒れ込んで来る。

「こんなのほっとけ」と母を連れてリビングに向かえば、そこに父が座り込んでいるのが見えた。

 どうした――と、言う前に気が付いた。父の視線はその先にある仏壇に向かっており、一体何があったのかその仏壇の側面の板は、まるで斧か鉞で叩き割ったかのようにバックリと縦に裂けているのだ。

 腰を抜かしている父を助け、Fさんは両親と一緒に家の外へと飛び出した。それと同時に家中の打撃音が全て止んだ。

 だが、Fさん達はしばらくの間は家に戻る事が出来ず、庭先に停めてあるトラックに乗り込み様子を窺っていた。そうしてたっぷり二時間は待っただろうか。これ以上待つとまた日が落ちて一夜をまたぐ事となってしまう。

「もう一気に片付けよう」

 そう言ってFさんとお父さんはトラックを降りた。但し今度は別々ではなく、全員で一緒に動こうと言う事になった。

 必死になって玄関先に荷物を集め、そして一気に積んで行く。そんな事をしている内に、いつの間にか母の姿が消えている事に気が付いた。

 どうしようか? とりあえず放っとけ。積み終わったら探そう。そんなやり取りがあった後、Fさん達は残りの荷物を全て片付け終えた。

 やがて夜が来た。だがやはり母はどこかへと消えたまま帰って来ない。Fさんとお父さんは夜の九時までそこで待ち、仕方無く玄関先に貼り紙をした。駅前のビジネスホテルに宿を取ったので、戻り次第そちらに連絡をくれと言った内容のものだった。

 母の事は心配であったが、久し振りに何の脅威も無い夜に、Fさんはぐっすりと眠った。

 だが、早朝の四時の電話にその安眠は破られた。出るとそれはフロントからで、電話を取り次いでいるのでそちらに繋ぎますとの事。

 母だろうとは思っていた。だが繋がった先の声は低い男性の声であり、驚いた事にそれは地元の警察の人だった。

「××町××と言う住所は、お宅の住所で間違いありませんね?」開口一番そう尋ねられた。

 間違い無いですとFさんが答えると、その警察官は「お宅の庭先にてご遺体が発見されました」と言われた。

 瞬時に「母だ」とFさんは悟ったらしい。そしてその警察官は「庭の貼り紙を見て連絡しました」と告げ、遺体の確認をお願いしますと電話を切った。

 隣室の父にその事を告げると、父もまたすぐに母の事だと察した様子で、「すぐに出よう」と支度を始めた。

 家に着くと、もうすでにその家の周りには野次馬の姿で賑わっていた。

 見て一瞬で分かった。庭先の木の枝には途中で切られたロープが一本ぶら下がっており、死因はそれだろうと。

 母は青いビニールシートに包まれて木の根元に横たわっていた。皮肉な事に、それは昨日までFさんが寝転がっていた場所と全く同じ一画だった。

 遺体は家の中へと運び込まれ、またしてもその家へと逆戻りする羽目になってしまう。

 さすがに遺体までをもトラックの荷台に載せて引っ越しをする訳にも行かず、葬儀が終わるまでは家に滞在する事となった。

 余談だが、その日を限りに家の怪異はぴたりと収まった。それこそ玄関が開くと言う例の現象すらただの一度も起きなかったのである。

 運良く遺体はすぐに火葬され、埋葬許可もすぐに下りた。後はただ遺骨を墓へと移すだけ。そのタイミングで五十代ぐらいの見知らぬ男性が家へと訪ねて来た。

「隣の家の者です」と告げたその男性は、隣人ながらもFさんはただの一度も顔を見た事が無かった。

 男性は「奥さんに手を合せたい」と言うので、骨壺だけを置いた自宅飾りの祭壇へと通す。するとその男性、懸命に手を合せながら「申し訳なかった、申し訳なかった」と、母の骨壺に向かって謝るのである。

 理由は、その後から聞く事が出来た。そしてその内容は、Fさんとその父を激しく打ちのめすようなものだった。

「実はこの家の前の木にぶら下がった人を見付けたのは、これで四人目なんです」

 どうやらその男性が母の遺体の第一発見者だったらしい。なんでもその男性は夕方から夜の三時までが仕事の勤務時間で、そして帰って来るや否や犬の散歩に出掛けるのが日課らしく、その都合で第一発見者になってしまう確率が多いのだそうだ。

「早く忠告すべきだとは思っていたんです」

 男性曰く、この家に住む女性はほぼ全員、短い期間で不審死か自死をすると言う。それに気付いた男性は今までに何度かこの家の住人にその事を話したそうなのだが、大体は取り合ってくれないか怒られるかしか無く、自分の家の事ではないのだから放っておきなさいと妻に言われ、今回もそうしたらしい。

「家の庭の木で首を吊った四人って、全員この家の女性だったんですか?」

 男性は無言で頷く。ただ見付けたのがその四人と言うだけで、実際にこの家で亡くなった人はもっと多いと語る。

 Fさんはすぐに不動産会社の担当を呼び付ける。その当時はまだ“事故物件”と言う名称が存在しなかった時代で、そう言う家を貸したり売ったりする事に告知は必要では無かったのだ。

 だがそれでも、母と祖母がこの家に関わって命を落としているのだ。せめて一言ぐらいあってもいいじゃないかと問い詰めるつもりだったのだが、やって来た担当者はあっけない程に簡単に、「事前にお話しはしております」と言う。

 嘘吐け、ならどうして母はこの家を借りたんだと問うと、担当者は一通の書類を取り出し、その証拠を提示した。それはこの家で何が起きたのかを説明された上で、それで納得して契約しますと言う承諾書であった。

 手書きの署名の筆跡を見る。それはFさんにもお父さんにも見覚えのある、とても独特な癖のある母の字だった。

 どうやら母は、この家の前を通り掛かった際に、庭先に立てられた“貸し家”と言う看板を見付けて連絡を取って来たらしい。だが担当者は「お勧め出来ない」とそれを突っぱね、他の家を熱心に勧めたのだが、母は頑なに、「一度中を見せて欲しい」と言い通す。結局母に押し切られた形となった担当者は、仕方無く母に内見をさせたのだが、とある部屋を見た途端、「ここ借ります」とそう言った。それは――そう、二階の奥にある例の和室の事である。

「どうしてこんな家、貸し家なんかで出してるんだ!」と父は怒鳴り声を上げる。だが担当者は、「私共はここを管理しているだけで、貸し家にしているのは大家の判断です」との事。なら大家と話したいと言えば、とても会話が出来る状態ではないと断られる。なんでもその大家、以前にここを買い取って住んでいた人らしいのだが、妻と子をここで亡くして以来、貸し家として管理してくれと全てを一任してどこかへと移り住んでしまったのだと言う。

 結局、母のサインが入っている承諾書がある以上、不動産会社に責任を問う訳にも行かず、Fさん達は引き下がった。

 母の遺骨は以前にあった家の近くの墓地へと埋められ、そしてFさんは父と一緒に東京へと向かった。Fさん、十六歳の時の事であった。

 そしてその家がどうなったのかは、まるで知らないと言う。


 それから約十五年もの時間が流れた。Fさんは結婚をして子供も出来た。

 その後、東京の外れである某市で住居を構え、比較的近場の会社へと就職した。

 ある時、会社の先輩に連れられて地元の駅前にある老舗の焼き鳥屋さんの暖簾をくぐった。途端、そこの女将さんであろう年配の女性が、いきなり掌で自らの右目を隠したかと思うと、「とんでもない子が来たねぇ」と、Fさんを睨んだ。

 最初、Fさんは自分が言われているものだとは思っていなかった。だがその女将はFさんに向かってゆっくりと微笑みながら、「大丈夫だから座って」とカウンターのテーブルを指差す。但し隠した右目からは絶対に手を離そうとはしていない。

 当然、会社の先輩達はその女将の行動に腹を立てて文句を言う。だが女将は意にも介さず、「あんた昔、母親が酷い死に方したね?」と聞いて来る。

 咄嗟にFさんは察した。この人は自分の母が自殺した事が見えているのだと。

「えぇ、首を吊って亡くなりました」

 その瞬間、Fさんは今まで誰にも話さなかったその事実を全く抵抗無く話してしまった。

 当然Fさんの会社の先輩達は今度こそ本気で怒り出す。F、そんな事馬鹿正直に話す事は無いぞと。だがFさんにはその女将の話の方に興味があった。例え会社で先輩達と仲違いしても、その話を聞いてみたかったのだ。

 結局女将は、「あんたら危険だから」と言って先輩達を追い返し、そして店の暖簾をしまうと、今度は店の従業員達に向かって「もう帰り」と告げるのだ。その間も全て右目は隠されたままだった。

 店はどうするのと若い女性店員二人が詰め寄るが、「今日はもういいから」と女将は話を聞かない。どころか、「あんた達には聞かせられない話だからね」と言って、後片付けすらもさせないまま追い返してしまったのである。

 その後、女将は店の奥から眼帯を持って来て自らの右目に巻く。そして瓶のビールをテーブルの上に置き、小皿に取った塩を指先で舐め取りながら、「さぁ聞こうか」と言うのである。

 まず最初に女将は、Fさんの周囲の女性が合計五人、亡くなっている事を言い当てた。

 一人目が祖母。そして母。残りの三人は二十代の若い女性であると言う。そしてそれはFさんにも心当たりがあった。

 実はFさん、今の奥さんと結婚する前に付き合っていた女性が次々と不審死か自死を遂げていると言う過去があった。Fさんは恐る恐る、「もしかして全員、何か繋がりが?」と聞けば、女将は「もちろん」と頷く。

 Fさんが約八ヶ月程住んだ例の家での出来事を女将に話せば、女将は「なるほど」と頷き、その家の驚異は今も尚、Fさんにしがみついていると言うのだ。

「冗談でしょう?」とFさんが言うと、「冗談なものか」と女将は店の玄関の下側を指差し、「ずっと伸びて来ているじゃないか」と言う。

「何が?」と聞けば、女将は「腕だね」と告げ、「しかも真っ黒に煤けた腕だ」と続ける。

女将にはそれが見えているらしい。その一本の黒い腕がずっと外から店の中まで伸びて来て、Fさんの服の裾を掴んでいるのだ。

「どこから伸びて来ている腕なんですか」とFさんが尚も聞けば、「おそらくはそのA県の家からずっと伸びて来ているんでしょう」と、女将は素っ気ない口調でそう答える。

「まさか……」とFさんが笑えば、「こう言うのに距離は関係無いよ」と、女将もまた笑った。

 正直、どれもこれも荒唐無稽な話だ。だが聞けば聞くほどFさん自身が体験して来た話を裏付けるようなものばかりだし、腑に落ちてしまうのだ。

「あんたはどの女性とも深くお付き合いをしてはいけないよ。そうすると必ず“連れて行かれる”から」

 Fさんはそれまでに付き合って来た女性達の亡くなり方を思い出し、激しく後悔をした。あれは全て自分の不注意による事故だったのかと。同時に今現在、自身には妻と子がいる事を思い出す。しかも子供は娘である。

「どうしたら良いのでしょう?」と問えば、女将はしばらくFさんの顔を眺めた後、「その二人は大丈夫そうだね」と言うではないか。

「どうして?」

「奥さんの“守られ方”が強いからね。きっと娘さんもまた特別な守護が付いていると思うよ」

 良くは分からないが、どうやらその二人は問題無いと言う。確かにFさんの奥さんとは交際期間も経て延べ五年ほどの付き合いで、そこからおかしな事は全く起きていない。

「では僕は、今後どうしたら?」と、Fさんは人との付き合い方や接し方について聞いてみたが、女将曰く「普通でいい」と言う。ただ、その人に対して身内並みの気の許し方をした場合、今までと同じように“連れて行かれる”かも知れないと言うのだ。

 お祓いを受けた方がいいのかと言う問いには、「無駄だと思う」と返って来た。

「祓えたとして一体か二体が限度だろう。これはもう複雑な形態だからねぇ。到底、祓いきれるものではないと思うし。それに相当知恵もあるみたいだから、余計な事はしない方がいい」

 結局Fさんは、「その出来事については今後一切、他人に漏らしてはいけないよ」ときつく言われ、帰された。

 そしてFさんは頑なにその教えを守った。そう、とある事が起きるまでは。


 更にそこから十一年の時間が流れた。Fさんはあれから別の会社へと移り、大型加工機械のオペレーターの仕事をしていた。

 それはある夏の日の午後の事。昼食後、人が集まってくだらない会話に興じていた際、どう言う流れか“怖い話”を語る会となってしまった。

 一人が一話ずつ怖い話を披露して行く。その中で当然、順番はFさんに回って来た。

 Fさんは以前に知り合いから聞いた体験談を話し出す。とある学生が通学途中に通り掛かる廃工場の二階の窓に、人の姿が映ると言うそんなお話しだ。

 Fさんの話はウケた。面白いからもっと語れと皆が言う。続いて真夜中に寝室で起きた怪異を語り、誰もいない筈の部屋で紅茶の香りがする話を語り。そうこうする内にいつしか昼休みはFさんの怪談を語る会のような雰囲気となってしまっていた。

 だが、やがてそのネタも尽きて来る。そろそろストック無いよと言った辺りでふと思い出す。他人から聞いた話ではない、自身が体験した“怖い話”だ。

 いや駄目だこれは語れない。思うが、あれだけおかしな体験をして来てしまったFさんである。どこか、「人に語って楽になってしまいたい」とか、「話してしまって、嘘だろうと笑い飛ばされたい」などと思う気持ちも無くはない。そうしてその話は語らず家路へと着けば、突然にとある知人から連絡が来た。十年程前から付き合いのある、陰陽師の友人である。

 その友人、「何かあったね?」と開口一番そう聞いた。そしてFさんは素直にその事を告げると、「ちょっと会おうか」と言う話になった。

 そしてとあるファミレスに落ち着き、事の全てを友人に語れば、その友人曰く、「全て納得が行った」との事。何でもその友人、「“面白いもの”をくっつけてるので、ずっと気になっていた」と笑うのだ。

 どうやら“それ”は、その友人にも視えているらしい。そう感じたFさんは以前に注意を受けた焼き鳥屋の女将の話をしてみた。すると友人曰く、「ほぼ、その人の言う通りだね」と頷きつつ、「だがもうその話は語っても構わないんじゃないかな」と続けるのだ。

「どうして?」とFさんが聞けば、「それはその女将に聞けばいい」として、そこから先は取り合ってくれなかったのだ。

 そしてその後日。Fさんは十一年もの間、一度も立ち寄らなかったその店へと向かった。

 女将はいた。そして女将はFさんの顔を見るなり、右目を隠す事無く「あら久し振り」と声を掛けてくれたのだ。

 どうやら本当に、女将はFさんの事を覚えていたらしい。女将は終始笑顔で、「元気で良かった」とFさんにそう話し掛けた。

 Fさんはおずおずと「例の出来事についてですが」と切り出し、「そろそろ人に話しても良いか」と尋ねた所、女将は少しだけ顔を曇らせた後、「いいんじゃない」と頷いた。だがそれは、「但し――」と言う前置きのある条件付きだったのだが。

 条件とは、最初に必ず「もしもこれを聞いて不調を感じたならば、すぐに聴く事を断念して欲しい」と注意しておく事。そしてその話は“怪談”や、“怖い話”に分類されるものではないと言う事を知らせておく事。そして最後に――

「これはあんた自身の話として語っては駄目よ」

 どうしてとFさんが聞けば、元々がとても危ない出来事の為、他人に語るにはワンクッションを挟む方がいいのだと言う。

 続いて、以前は絶対に人に語っては駄目と言っていたものを、どうして今は良しとするのかについて尋ねた所、女将は「もうそれ、あんたに憑いてないよ」と言うではないか。

 どうして? 何故? 聞いても女将もまた「分からない」と言う。だがもう憑いてはいないものの、なんとなくまだ“匂い”は感じられると言う。したがって、念の為に“他人の話として語れ”と、女将は忠告したらしい。もしも自身の話として語ったならば、また“それ”を呼び寄せる事になるかも知れないからと。

 そしてそれから数週間後、Fさんは近くにあるバーを借り切って、そこに人を呼び込み怪談会をひらいた。語ったのはもちろんその話、“真冬怪談”である。

 結局そのお話しは、都合三回、人前で語られた。もちろんその話によって何かが起きたと言う事実は全く無かった。


 それから更に数ヶ月後の事。

 ふと、ある事を思い出したFさん。思う部分あってGoogleのストリートビューを開いた。

 今まで一度もそんな事はして来なかったのだが、今現在、A県の例の家はどうなっているのかが急に気になったのだ。

 おそるおそる、記憶を頼りに例の家を探すFさん。あぁ、ここの街道沿いだと見当を付けてそこの映像をモニターに写し出せば……。

 家は、無かった。どう言う訳かもうその場所は更地になっており、例の家は跡形も無くなってしまっていたのだ。

 瞬時に悟った。どうしてこのタイミングで、友人も、そして焼き鳥屋の女将も、「他人に話して良い」と言ったのか。

 要するにもう、驚異たる原因は消え去ってしまったので、“語っても良い”となった訳である。

 Fさんは安堵した。今までずっと心の奥底で横たわっていた懸念が、ようやくその瞬間、絶たれた気がしたのだ。

 その夜の内に、Fさんは陰陽師の友人に連絡をした。そしてその一件を話せば、「なるほどね」と彼もまた頷いたのが分かった。

「僕もその場所を見たいから、座標を送ってくれ」と友人は言う。Fさんはすぐにその通りにしたのだが、しばらく無言でその場所を眺めていたのだろう友人は、「君の住んでいた家は、そんなに大豪邸だったのか?」と聞く。

 意味が分からない。どう言う事だと聞き返せば、「更地の部分がやけに広大過ぎないか」との事。そしてFさんがそれを見返せば――

「確かに広過ぎる」

 その更地は、今はどうやらどこかの会社の駐車場にでもなっているのか。相当数が停められるであろう敷地の全てに玉砂利が敷かれており、僅か数台の車が所在なげに駐車されている。

 記憶を遡る。僅か数ヶ月だが、そこに住んだ家の間取りを思い出す。

 確かにそれなりに広い家ではあったが、ここまで広いものではなかった。だがこの空き地を見る限り、それはその一軒の家が収まる分の広さではない。これは――そう、これは――

「例の家が存在していた、一区画全てが無い」と、Fさんはそう告げた。

 確かあの家は、四軒か五軒もの家屋が集まっている場所に建っていた。なのにどう言う訳か、その家どころか隣近所の家屋全てが無くなってしまっているのだ。

「何があった?」と友人。「分からない」とFさん。しばらく二人はその写真を眺めながら無言で考え事をしていたのだが――

「その区画って、全ての家屋が同じ大家だったのか?」と言う友人の質問に、「多分違うと思う」とFさんは答えた。

「貸し家だったのは例の家だけで、他は多分、自身の土地だったと思うぞ」と言うと、「なら全ての家屋を取り壊せる訳が無いな」と友人。

 そうなるともう確実におかしい。かつてその区画の全ての土地が違う所有者だったと仮定するなら、今あるこの玉砂利の土地には、全てを買い取った地主がいると言う事になる。

 どうして買い取った? そして何故全てを取り壊した? 考えられる理由はただ一つで、そこに別に何かの建造物を建てようとしていたと言う事だ。

 だがそこには何も建ってはいない。結局何も分からないまま、Fさんは電話を終えた。


 その晩の事だ。Fさんはベッドに寝転がりながら再び例の家の事を考えた。

 結局Fさんはあの家を出てから、その一件について詮索するのをやめていた。正直、怖くもあるが面倒臭かったのだ。と言うより、もうその家について関わり合いを持ちたくなかったのである。

 あれからまた別の家族が越して来たのだろうか? そしてその家族の中に女性はいたのか? そしてその女性はどうなった? またしてもあの家の餌食になったのか?

 考え出すととりとめも無い。だがあの家で亡くなった人の数を思えば、また誰かが住んだに違いないと思えるのだ。

 ――真夜中、Fさんは悪夢にうなされ飛び起きる。そして目を覚まし、その夢で見た光景が引き金となり、全ての事象が重なり合った。

 火事だと、Fさんは思った。いやもっと正確に言うならば、火事ではなく放火だ。Fさんは寝室を出てパソコン部屋へと向かう。そしてもう一度例の家の辺りのストリートビューを開き、更地となった場所の周辺をくまなく辿ってみた。

 すると、あった。その周辺に残された“焦げ跡”だ。とある家の庭では松の木の表面が焼かれ、またとある家の外壁にはまるで火で炙られたであろう痕跡が見受けられた。

 家は、取り壊されたのではない。燃やされたのだ。

 そしてその火は周囲に飛び散り、そこに集まった一区画全ての家屋を焼き尽くした。それがあの、玉砂利が敷かれた更地の原因だ。

 ここからは全てFさんの憶測に過ぎないのだが、書き記しておこう。

 ――Fさん家族がそこを出て間も無く、またしても別の家族が住み着いた。そしてその家族の中には、女性も含まれていた。

 やがてその女性はおかしな事となって変死する。そしてその家にまつわる曰くを第三者に聞き、それに憤慨した残された家族が、勢いのまま家に火を放った。

 Fさんが先程見た夢は、まさにそれだった。リビングに飾られた娘の遺影を眺め、気が触れ始めた父親はポリバケツの中のガソリンを家の周りに撒き、放火した。そしてその父親もまた火に巻かれつつ自ら命を絶ったのだ。

 とても夢とは思えなかった。もしかしたらそれは実際にあった場面を、自分に見せてくれたのではないかとすらFさんは思った。

 深夜ではあるがその事を友人に話さずにはいられない。電話をすると友人はまだ起きていたらしく、「そうだと思うよ」と同意してくれた。

 余談ではあるが、更地の周辺をストリートビューで歩き回っていた際、Fさんは家屋等の焦げ跡と同時に、別の何かも見付けていた。それは家で不幸があった際に玄関先で飾られる、白と黒の飾りが付けられた花輪の存在である。

 その花輪が、やけに目立った。と言うのは一軒や二軒の話ではなく、その周辺の家々で実に六カ所もそんな花輪が見受けられたのだ。

 あの区画の周囲で同時に六軒もの不幸があった? それは何かの偶然か?

 いや違う。それこそあの家が亡くなってしまった事による災厄だとFさんは思った。

 もしかしたらあの家は、何らかの作用で亡魂が寄り集まるそんな場所だったのではないだろうか。そしてその家が無くなってしまった以上、行き場を失った亡魂はその場所を中心に散らばり始めた。それがあの周辺の花輪の意味ではないだろうかと。

 思い付くままに友人へと語るFさん。だが友人はその話を黙って聞いた後、「きっとお前の言う通りなんじゃないかな」と、静かな声で同意したのだった。


 そして数年後。大学生ながらもミュージシャンとしての活動を始めたFさんの娘は、突然、「音楽以外の活動をしたい」と言い出し、父親であるFさんに「私と組んでオカルトやらない?」と持ち掛けて来た。

 面白いね、やってみようか。そして二人は怪談サイトを作り、千話を目標に活動を始めた。

 そして現在、その千話は達成したらしいと聞く。どうやらその千話目は、物語の筆者であるFさん自身が体験した正真正銘の実話らしい。


 #1000 真冬怪談 了

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