満たしたい
芳岡 海
満たしたい
そう、一人だよ。
こんばんは。久しぶりだね。いや、俺が店に来るのが久々だったから。マスターもお久しぶり。いつものでお願い。
実を言うとあの子が来てるかもしれないって、ちょっと思ってここに来たんだけど、やっぱりいないみたいだな。当てが外れた。俺の当てなんてだいたい外れる。
もともとここの常連はあの子の方だよ。俺が初めてここで飲んだとき、あの子はとっくにみんなと顔見知りだったもの。
ま、そう。つまり、また出て行っちゃった。
俺が目をはなしたのが悪い。ここ最近忙しくしてて、ってのは言い訳だけど。
先週はずっとご機嫌だった。その日の朝もいつもの笑顔で。それで帰ってみたらいない。いつも着てる上着一着、お気に入りの青いスカーフ一枚、ポータブルラジオだけがなくなってる。いつものこと。
我儘とは違うよ。気まぐれなんだよ。
不満じゃないけど、不安ではあるね。
でもあの子が俺を不安にさせんのはさ、なんていうかあの子の安心している分って感じなんだ。安心して気まぐれを起こして、俺の背中にツバかけてさ。他の人間に気まぐれを起こされんのは俺だってまっぴらだよ。
別にいいだろ。躾けの行きとどいた小型犬みたいにいつ帰っても部屋にいて、尻尾なんか振られてみろよ。目をはなすと逃げてくぐらいじゃないとこっちが飽きちゃうだろ。
あれ、ってことは俺が飽きられてんのかな。いやでも、戻ってくるよ。
今度こそ本気の家出とか、そんなもんはないよ。今度こそ本当の恋だって言う時がたいてい違うのと同じ。たいていね。
先週はご機嫌だったんだけどな。
仕事に行く俺の首に細い腕回してきたりして。最近構えてないなって言ったら、ぷいっと離れちゃったけど。ああいうときの背中から腰って、どうしてあんなふうにカーブを描くんだろう。なだらかな弦楽器の表面みたい。小さな背骨の並びが指に当たると精密機械を想像する。俺の体にあんな曲線はどこにもないのに、添わすと掌がぴったりフィットする。
明日の朝にオムレツ作ってって言われていたんだ。いいよって言ったのに、朝急に呼び出しくらってできなかった。夜に埋め合わせしようと思ってた。
コーヒーの飲み方も、ポテトの塩加減も、スープの辛さも全部、誰よりあの子のベストで出せる自信がある。
最初に食事した時、何が好きなのって聞いたら食べ物の名前じゃなくて、有名な老舗ホテルのメニュー名のスープを言った。とんだ舌の肥えたお嬢さんを誘っちまったなと思った。
かと思えば家に来て、オムレツ作れるかって聞いてきたんだ。俺上手いよって言ってやった。きれいに包んで、ナイフを入れると中がとろっとするやつ。何百回も作ってきたけどあの時が一番緊張した。
そういえばマスター、俺謝ろうと思ってたんだ。
前にグラタン食べたいって言われて作った時さ、この店の味そのまま真似させてもらった。だってここのが一番美味しい。どこで覚えた味なのって聞かれてはぐらかしちゃった。なんにも言わなかったけど、俺より常連なんだからあの子も食べたことあるよな。ちゃんと満足そうな顔してくれたよ。
よく笑って泣いて怒るけど、こういう時の嬉しいとも違う満たされた顔は他では見れない。
酔った。
こうやって何度も出ていって、だんだんその期間が長くなんのかな。それともいる時間がだんだん長くなっていくのかな。そのどっちかだと思う。
安アパートの狭いキッチンで小さなフライパン抱えてるところなんて、誰にも見られたくないと思ってた。でもあの子なら良かった。そんな俺を見てなんでも作れそうだねって言うから、なんでも作るよって言った。
作ってって言われて作るんだ。食べたら無くなるのに。朝になればまた腹を空かすのに。そういうものを何回でも何回でも、どんなものでも作って叶えてやるんだ。嬉しいだけじゃない満たされた顔をさせたいんだ。食事なんて、自分が食べるためだけじゃ作る意味ないだろ。結局一人じゃダメなのは俺の方だ。
もうしばらくここで待たせてよ。
家じゃなきゃ、この店に戻ってくると思う。こんなに食事が美味しいバーはないもの。
待っていれば戻ってくるよ。今にもドアを開けるかもしれない。謝りゃしないよ。悪いことしてるわけじゃないんだから。ただいまでもない。ついさっきまで駆けまわってきたみたいに風をはらんで、熱っぽい頬で。目を合わすといじらしく微笑む。それから、おなか空いた、って言うんだ。
満たしたい 芳岡 海 @miyamakanan
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます