2.才気煥発


 俺はユキを伴い、自宅を出た。よれてしまったネクタイの代わりに、別のダークグリーンのネクタイを締めている。上着にも袖を通し、前ボタンをしっかり留める。格好がきちんとしていないと舐められるからだ。


 ユキはうつむきがちに大人しく俺の後ろを付いてきている。時々鼻をすする音が聞こえるから、涙ぐんでいるのだろう。


「あのなぁ……、俺が泣かせたみたいだから泣くのやめろよ」


「あんただろ」


「そういうことになるのか? まあいい、あの店行くぞ」


 地下鉄の駅入口を通り過ぎて少し歩き、商店街に入るとすぐ、例のアジア料理店が見えてくる。ユキはまだ顔を下に向けたままだ。このままだと髪が邪魔でピアスが見えない。


「ちょっと、こっち向け」


 俺はシャッターが降りたままのたい焼き屋の前で立ち止まり、ユキの顎を持ち上げた。目の周りがさっきより赤くなっていて痛々しさを覚える。


「何すんだよ!」


「髪は耳に掛けとけよ。ピアスが見えない」


 そう言いながら、俺は彼の髪を右耳に掛けてやった。サラサラの手触りに、少々手間取りながら。


「じ、自分で、できる」


「なら自分でやってくれ」


 「冷たい」だの「ひどい」だのの暴言を後ろから受けながら、俺はあの店まで早足で歩いた。後ろは振り返らなかった。ユキは勘がいいのだろうか。「冷たい」、「ひどい」、そういうセリフが出る感情がこれから必要になる。演技はさせない方がいいだろう、本気で言ってもらうのが一番いい。


 店に着き、奥の厨房まで進んでいくと、日本語が達者なベトナム人店主の大きな体が俺に立ちはだかった。


「さっき姿が見えたと思ったら……戻ってきたのか。今日のおすすめはいつものバインミーだが」


「ああ、悪い。そうじゃなくて、こいつのこと」


「あんたの好みだもんな。みんな言ってたよ」


 店主の言葉に、肩を竦める。自分の好みなんて話した覚えはないんだが、と。


「ピアス開けたんだ。ほら、見せてみろよ」


 俺の後ろに隠れ、黙って床を睨んでいたユキに話しかけると、彼ははっと顔を上げた。やはり潤んだ目の周りが赤くなっていて、ファンデーションで隠せないくらい顔色が悪くなっている。そうだ、それでいいと、安心感を覚える。顔には出せないが。


「ふーん、しるし、付いたんだ。この人、全然優しくないでしょ?」


 からかい交じりに店主がユキに笑ってみせる。ユキ、それは罠だ、気を許すなと心が叫ぶが、口に出せるはずもない。


「え、ええと……、そんなこと……、ないと、思います……」


 恐る恐るといった具合にユキから店主に告げられたセリフは、パーフェクトの答えだった。ユキが優秀でよかったと胸をなでおろす。「冷たい」「ひどい」とストレートに言ってしまうと嘘になり、痛くもない腹を探られることになっていただろう。


「ま、そういうこと。もう派手なことはさせないから」


「僕は何も知らない。何のことだかわからないね。客として来るなら大歓迎だけど」


「はっ、そうだよな。んじゃまた」


 これで話は付いたはずだ。振り返ると、ユキはぽかんと口を開けて俺と店主を交互に見ている。


「行くぞ」


 ユキになるべく冷たい態度を取りながら、俺は踵を返して店を出る。当然後ろを振り返ったりはしない。


 たたたっと走り寄る足音が聞こえるのを背中で確認しながら、俺は来た道を引き返した。



 ◇◇



「もしかして、あんた……インテリヤクザ?」


「そんな言葉知ってたのか。俺は組員ではないけどな」


「雇われてる、だけ?」


「ユキ、おまえ察しがいいな。頭がいい証拠だ。俺の跡継ぐか?」


 ユキはソファで猫のように丸めていた体を伸ばし、うーんと伸びをした。


「別にいいけど……、俺があんたの好みって、本当?」


「は? あんなの本気にしたのか」


「なあ、本当か?」


「うるせぇな。腹減ったから何か……」


「名前は? 表札も出てなかったし知らないんだけど」


「あれ、まだ言ってなかったか。俺はケントって名前だよ」


「……それ、本名?」


「さぁね」


 隣に座る俺がそっぽを向くと、ユキが俺の膝の上に手を置いた。きっと不安なのだろう。


「傷、付けたんだから、責任取れよ」


「……そんな言葉も知ってんのか……先が思いやられそうだな……」


 アメジスト色のピアスは、ユキによく似合っている。髪をなでてやると、彼は片目をつぶり、俺の胸に体を預けた。


「次のピアスも買ってやるよ。だから俺の仕事を覚えろ」


 俺のライトブルーのシャツが、返答代わりにぎゅっと握られた。

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【BL】些微刻印 祐里(猫部) @yukie_miumiu

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