【BL】些微刻印
祐里(猫部)
1.百聞一見
俺はその日、碁盤の目のように東西南北に幾筋もアーケード通りが伸びる大規模な商店街の一角の、アジア料理店に行った。俺の仕事ではないはずなのに、ボスから様子を見てこいと言われてしまったのだ。正直、面倒だと思っていた。彼を見るまでは。
「あんた、何?」
「えっ?」
「俺のことじろじろ見てただろ」
店の広い入口前に出されたテーブルに着いている彼は顔を歪め、鋭い目つきで俺を見た。愛らしい薄紅色の瞳はカラーコンタクトが作り出しているのだろうかと疑問が湧く。
「そりゃ、かわいいからなぁ。その目の色、カラコン? ピアスは開けてないんだ? ネイルまでちゃんとしてるのに」
「……はぁ?」
「俺を知らないのか」
「知らねえな、通りすがりのリーマンなんか。そもそも金持ってんのかよ」
ショッキングピンクのインナーカラーを入れた黒髪ボブとペールピンクのブラウス、黒のショートパンツはどう見ても女の子なのだが、声と言葉遣いは男だ。首元の詰まった襟からは、少しだけ喉仏が見えている。年は十七か十八といったところか。ヒゲはきちんと剃られていて、肌の色に合ったファンデーションは上手に彼を女の子に見せている。
「ま、別に知らなくてもいいけど」
俺は彼の目の前の席に座った。安っぽい銀色の丸テーブルを挟んだ形になり、「何で座んだよ!」と怒鳴られる。その拍子に彼が持っていたフォークが落ち、カチャッと金属の皿に当たる音がした。フォークを武器に、などとは思わない甘ちゃんだということが一瞬でわかる。
「……へぇ……、誰に教わった?」
「……何が」
「化粧。ああ、動画でも見たか」
自然に描かれたアイラインはタレ目アピールを成功させている。目の周りには泣いたあとのような薄赤色が差してあり、唇は紫がかった赤だ。
「そんなのどうでもいいだろ。俺は今メシ食ってんだよ、ほっとけ」
「おまえ、本当に何も知らないんだな。うちに来いよ、ここの近くだから。名前は?」
気味悪そうに俺を見て体を思い切り体を後ろに引く彼は、「正気か?」と眉をひそめた。
◇◇
「おい、こんなところ連れ込んでどうするつもりだよ! 金はあんのかよ!」
到着したマンションの自宅玄関を入ると、ユキと名乗った少年は俺のネクタイをつかんで引っ張り、自分の顔に俺の顔を近付けた。俺は即両手を上げて、降参の意を示す。身長は俺より十センチほど低いようだ。これから伸びるかもしれない。
「ギブ、ギブ」
「ギブはえーな! つーか『何も知らないんだな』ってどういう意味だよ、あれっきり黙りやがって!」
まるで意図せずつかんでしまったゴミを投げ捨てるかのように、彼は俺のネクタイから忌々しげに手を離した。ハイブランドのストライプ柄は、歪んでしまっている。
「ユキ、あの店気に入ったのか?」
「だったら何だよ」
「……最近入り浸ってる若いのがいるって聞いたから、見に行ったんだが……」
「聞いた? 誰に?」
「いいか、よく聞け。あそこは、表向きは東南アジア料理を出す店だが、いわゆる裏の売人なんかが使う、ヤバいヤツが多く出入りする店だ。ただの飲食店じゃない」
「……は……? 何だ、それ……」
「店主も只者じゃないぞ。おまえは海外に売られる寸前だったはずだ」
「売られる、って……そんなこと、何で……、あんたが知ってんだよ」
スーツの上着を脱いでラックのハンガーに掛けると、俺はネクタイをゆるめようとした。するとユキがそのネクタイを再びぐいっとつかみ、怒りに満ちた目で俺を睨む。顔が近いのは気にならないのだろうか。彼のネイルが掠めた首の左側が、少しだけ熱を持つ。
「近くで見てもかわいいな。ピアス開けてやる」
「いらねえよ! 脅しのつもりかよ、こんなところまで連れてきやがって! 何するつもりだっての!」
「だから、ピアス開けてやるって」
「……さっきからピアスピアスうるせえな。何でピアスなんだよ」
威勢がいいのは結構だが、彼は手が出るのが早い。このネクタイはすぐに手入れしないと、もう使えないだろう。
「俺が傷付けたヤツには誰も手を出さないから、だよ」
◇◇
「あんた……一体何者だ……?」
「俺? 雇われトレーダーやってるしがない三十代独身男だけど?」
「……ふん、そういうことにしといてやるよ。で、まだ?」
「いや今パッケージ開けたばかりなんだが」
ユキは、俺がピアス穴を開けてやることに同意した。そこで俺は彼と一緒に近所のドラッグストアに行きピアッサーを買った。彼が選んだのは、ライトアメジストのピアスが同梱されているものだった
「痛いんだろ? さっさとやってくれ」
「右と左どっちがいい? 右だとゲイだと思われることもあるらしいぞ」
「じゃ、右」
「右でいいのか?」
ユキには「こんなところ」呼ばわりされたが、部屋は掃除したばかりで綿埃もない。一人暮らしにしては少々広めのリビングルームのソファに彼を座らせ、俺はその前にひざまずく格好になっている。
「その方が、稼げるかもしれないし」
ユキは、何でもないことのように「稼げる」と言う。今までどうやって生きてきたのかが、よくわかるセリフだ。
「ほら、消毒するから、右耳こっち向けろ。あと、髪を手で押さえて……」
「……これでいいか?」
素直に細い手で髪を押さえながら俺に右耳を近付け、ぶっきらぼうに言うと彼はぎゅっと目をつぶった。「消毒液くらいで痛くはならないぞ」と言いながら、俺は綿棒で消毒液を耳たぶに塗る。
「ひっ」
「これくらい我慢しろよ。脱毛は自分で?」
「さっきからあんた、ころころ話変えすぎなんだよ。体の脱毛は自分でやってるけど、それが?」
「ピアス開けても、もう売りはしない方がいい」
「……何で……」
「言っただろ、海外に売られる寸前だったって。やり方が派手なんだよ」
俺はしゃべりながらユキの耳にピアッサーの針を刺す。バチンと衝撃音がしたが、ユキは「つっ」と小さく呻いたきだけで文句は言わなかった。
「んなこと知らねえし。あの店に行ったら、隣のテーブルのおっさんが女の子の服着たらもっと稼げるって……。カラオケ行ってケツ触らせるだけで二万とか。だから、完璧な女の子になろうと思って……」
「ああ、人気あったんだろ。だからだよ、よけいに目に付く。……よし、しばらく外すなよ」
淡い紫色のピアスは、彼の右の耳たぶにころんと収まった。
「……あんたに傷付けられたヤツには、誰も手出さないって本当かよ」
「本当」
「あんたも只者じゃないんだろ? 何で……」
俺がソファのユキの右隣に腰を下ろしてピアスの具合を確かめていると、彼は涙をにじませた目でこちらに視線をよこした。やはりカラーコンタクトのようだが、色が彼によく合っていて艶かしさを感じる。
「さぁ? 俺のことより自分のこと考えろよ」
「……あんたの話を全部信じたわけじゃないけど、もし本当に海外に売られる寸前だったとしたら、ピアス開ける方がいい。でも、俺……これからどうやって生きていけば……」
「売りでしか稼げないわけではないが……。家は?」
「四ヶ月前、家出してから戻ってない」
「家出、か。何で?」
「……母さんの再婚……って、そんなことどうでもいいだろ!」
「母親の再婚相手に暴力で脅されてヤられた?」
俺の言葉で、ユキは驚きを隠さず目を見開いた。大方、そんなところだろうと思ってはいた。同じような被害に遭っている少年は他にもいる。
「家出が悪いとは言わない。だが、無知のままでは食い物にされるだけだ。世の中を知ろうとしろ、勉強もしておけ」
「そん、な、ことっ……」
「わかってないだろ。ま、しばらくはここにいてもいい。メシくらい用意してやるから、自分で考えるんだな。年は?」
「……来月で、十八」
「高校は?」
「入学したけど、全然行ってない。でもバイトはしてた。イベント設営とか。ただ、その……」
「女関係か?」
ユキはまた目を見開いて俺を凝視した。今度は、不安の色を滲ませて。
「……んで、わかんだよ……! あんた何者だよ!?」
「結局、その質問が来るんだな。自分で確かめろ。出かけるぞ」
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