第10話 大王の遺志

 “競馬はダービーに始まり、ダービーに終わる”。

 誰が言ったかその格言の通り、中央競馬はホースマンにとって最高の栄誉である日本ダービーを中心に回っている。

 デザートストームが皐月賞に続き、日本ダービーを制した翌週。二歳馬が次の大舞台の主役にならんとデビューしていく新馬戦が始まる。


「私、クラシックに乗りたいです」

「無理だ。何回言やわかる」

 向かいに座る咲島はぶっきらぼうに答えた。

 調教を終えた後、今日は咲島先生の家で食事をご馳走になっている。みずきさんの作る料理はどれも美味しい。食卓を囲むのは、咲島先生、市口さん、みずきさん、私の四人だ。

「何回聞いてもそれしか言わないじゃないですか」

 先生はギロリとこちらを睨む。

「あのな、この前の桜花賞で当てられたのか知らねえがまだ半人前のお前が簡単に乗れるわけねえだろうが」

「でも私には才能があるんですよね?」

「ああ。そのせいで下手くそに乗られる馬が不憫だよ」

 先生が味噌汁を啜る。

「……いいか? 騎手になってから五年間は“見習い騎手”。一端の騎手になっていない下手くそなお前が栄誉あるクラシックレースに乗れると思うな」

 見習い騎手。

 騎手免許を取得してから五年未満、平地競争の通算勝利数百勝以下、または障害競走二十勝以下の騎手のことだ。

 通常、見習い騎手は重賞レースのなかで最高の格付けであるG1レースに乗ることができない。クラシックレースもまた同様だ。

 その代わり、一部のレースを除けば負担重量が減量されるなどの優遇措置もあり、まだ技術的に未熟な若手騎手を保護するための制度である。

 だがもちろん物事には例外もある。

「……“三十一勝”すればいいんですよね?」

 見習い騎手の期間でもある条件を満たせばG1レースに騎乗することが出来る。その条件とは、“レースでの通算勝利数が三十一回を超える”こと。

 見習い騎手の立場でありながらもそれを達成することができればG1レースに乗るための十分な技術を持つと認められるのである。

 咲島先生が短く鼻を鳴らす。

「簡単に言うじゃねえか。お前、デビューしてから丸三か月で何勝した?」

「……三勝……です」

「話にならん」

 先生は茶碗を置く。青瓜の漬物に箸を伸ばし、音を立てて咀嚼した。

「まあ、焦ることはないさ。これからの騎手人生でクラシックレースに乗る機会だってきっと来る」

 市口さんが先生の様子を横目に見てこちらを気遣う。

「どうだかな」

「お父さんは少し黙って」

 みずきさんが先生を諫めるが、先生は構わず話を続ける。

「JRA(日本中央競馬会)主催のレース開催数は年間で三千五百弱。

 去年のリーディングジョッキーは那須の坊主で百七十八勝だ。その那須を筆頭に、上位十人の勝利数だけでレース全体の勝利数のおよそ三割を占める。

 じゃあ、最下位は一年間で何勝してると思う?」

「……」

「“0”だ」

 一瞬、その場に沈黙が流れる。

 勝てない騎手など珍しいものではない。その数は一人などではなく両の手に余るほどいる。

「乗っても勝てない。そもそも馬が回ってこない。――理由を探せばキリがねえだろうが、勝負の世界ってのはそういうもんだ」

「でも私はもう三勝してます。あと二十八回勝つことだって不可能じゃない。

 私は本気です! 早く乗りたいんです!」

「あのね青ちゃん。やる気があるのはすごくいいと思うけどそんなすぐには……」

 みずきさがやんわりと間に入ると、先生が片膝に手を置いてゆっくり立ち上がる。

「ったく、馬鹿は人の話も聞きやがらねえ。

 じゃあ、見せてもらおうか? お前の本気ってやつを。

 “ユースフルジョッキーズシリーズ”で」

 そう言って咲島先生はこちらをまっすぐ見下ろした。

「……ユースフルジョッキーズシリーズ?」

 

 先程まで晴れていた空が薄暗く覆われる。

 今朝方見た天気予報では今日は一日快晴のはずだったが、今にも雨が降り出しそうだ。

 六月だというのに薄手の服だと肌寒い。

「この馬が?」

「ああ。三冠馬イスカンダルのラストクロップだ」

 古くからの付き合いである牧場長の佐野が静かに答える。

 厩舎の中で初めて会ったその馬は憮然とした態度で立っていた。少し淡い鹿毛が美しく輝き、筋肉で肉体に描かれた稜線は、まだデビューもしていない二歳馬とは思えない見事なものだった。

「そっくりだな、イスカンダルに。……顔の流星以外は」

「ああ、まるで生まれ変わりだよ。だが、言っちゃあれだが意味深な流星だ」

 その馬の顔に走る白い流星は額から鼻先に向かう途中で二度折れ曲がっている。それはさながら――。

「――だな」

 佐野が深く頷く。

 ぽつりと雨が小さく屋根を打つ音がした。

「……四年前、落雷による火災事故で死んだイスカンダルの呪いみたいだ」

「呪い? イスカンダルが誰かを恨んでるって言いたいのか?」

「お前のことだろ?」

 佐野は意地悪く笑った。

「まあ、散々厳しい調教してきたからな。現役の時はこっちが近づいたらいつでも嚙みついてやるって目でこっちを睨んでやがった」

 自嘲気味に笑う。

 イスカンダルが死んだ今となってはそれも懐かしい思い出だ。

「――ま、くだらない話は酒の席で十分だ。

 そんな話をするために私をはるばる日高まで呼んだわけじゃないだろう?」

「……こいつは庭先であるオーナーに売っていてな。そのオーナーから頼まれた。

 この馬にふさわしい調教師と騎手を選んでくれと」

「イスカンダルを預かっていたうちがふさわしいと思ったわけか」

「そうだよ。由比」

「なるほど。わずか十頭しかいないラストクロップを育てられるなら光栄だ。

 騎手はイスカンダルの主戦騎手だった那須を――」

「由比」

 佐野がこちらの言葉を遮る。

 佐野は物静かな男だ。まして人の話に途中で割ってくるようなことはしない。

「……なんだ?」

「那須くんじゃない。彼は優秀だ。情に厚い彼のことだから、頼めばきっとこの子に乗ってくれることだろう。

 でも、それじゃダメなんだ」

 佐野が言わんとしていることがわかった。

 私を呼んだのはあくまでおまけということか。本命はだ。

「……あり得ないな。正気じゃない」

「理屈じゃないんだよ。こういうのは」

 そう言って笑いながらもその目はまっすぐとこちらを見据える。

「……それが、イスカンダルの遺志だと、そういうわけか?」

「ああ。

 騎手が馬を育てるのか。馬が騎手を育てるのか。

 そんなことは知ったこっちゃないが、この馬“アレクサンダー”にはあの子が乗らなくちゃいけない。

 子は偉大な父を越えて大きくなるものさ」

 雨が激しさを増す。遠雷が鈍重な雲を照らした。

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あがきを疾み 理猿 @lethal_xxx

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