第9話 散りにし花も咲きたらむ

「猿江くんはなんで騎手になろうと思ったの?」

 先頭争いを遠くに見て、ふと昔の記憶が蘇る。

 あれはたしか、卒業レース間近だったはずだ。その時まであまり関わりのなかった刀坂が突然話しかけてきた。

「あ? なんだよ刀坂。唐突に」

「模擬レース暫定一位の生い立ちに興味が出てね」

 このとき最後の模擬レースを控え、これまでの着順からいって俺が一位であろうことは明白だった。

 そしておそらく次点は目の前の刀坂だ。

「――ふん。レース前に揺さぶりかよ」

「それは私のことを買い被り過ぎだよ。そんなに器用じゃない」

 素知らぬ顔で刀坂は答える。

「……まあいいや。

 俺さ、ガキの頃はプロ野球選手になりたかったんだ。将来はメジャーに行ってホームラン王になったりさ。けど、この通り背が伸びなくてな。

 で、近所のおっちゃんに騎手だったら逆に都合がいいって勧められて騎手になった。

 チビがいっぱい稼ぐのにこれ以上の仕事はない。そうだろ?」

「金儲けのために騎手になったってこと?」

「そうだよ」

「なんだ。面白くないな」

 刀坂の目から好奇の光が消えるのがわかる。

「あ? じゃあお前は大層立派な理由があるんだろうな?」

「私? うーん……いろいろあるけど……そうだな……」

 刀坂は宙を見て少し考えた後、笑ってこちらを向いた。

「今は――」


「――君にレースで勝ちたいから、かな」


『いまゴールイン!

 三つ巴の接戦、僅かに競り勝ったのは“ロカ”!

 桜色の絨毯を力強く踏みしめ、新たな桜の女王が誕生です!

 リアルビューティ僅かに及ばず! 三着は粘ったシャンディバー!』

 ロカがリアルビューティの猛追をアタマ差振り切り最初にゴール板を越えた。

「!!! やった!! 勝ったー!!!」

 愛が勢いよく立ち上がり両手を突き上げる。私もつられて立ち上がった。

 スタンドの歓声がこの部屋まで地鳴りとなり届く。

 愛の興奮は収まらない。

「すごい! すごい!! すごい!!!

 刀坂さんがクラシックを勝った! 偉業よこれは!

 日本競馬で誰も成し遂げたことのない瞬間をいま私たちは見てるの!」

 愛がこちらの両肩を掴み何度も前後に揺らしてくる。

「ちょ、ちょっと! わかったって!」

 そのとき、握りしめていた手が赤くなっているのに気づいた。掌は汗でじっとりと濡れている。

「……すごかった」

 最高の馬と最高の騎手が鎬を削る頂上決戦。私もあんな騎乗が出来るだろうか。

 早く、早くあの場所で乗ってみたい。


 ――勝った。

 右の掌を見つめる。心臓の鼓動が収まらない。いや、それどころか次第に早くなっていく。

 身体もふわふわとして落ち着かない。

「……勝った……?」

「そうだよアホ」

「! 猿江くん」

 クールダウン中に後方から猿江くんがこちらをすーっと追い抜いていく。

「……おめでとう」

 左手を上げ、追い抜きざまに彼が呟いた。

「! ありがと――」

「いやー! ナイスゲーム!」

 ルピとリアルビューティが近寄ってきた。差し出して来る手にこちらの手を合わせる。

 馬も騎手もレース中とは打って変わって穏やかだ。

「ロカ強い! 負けちゃったヨ! でも次は勝つネ!」

「……はは、お手柔らかに」

 その後もレースに参加していた騎手たちが追い抜きざまに次々とこちらに声をかけてくる。

「おめでとさんG1

「小豆畑さん……! ありがとうございます。私――」

 言葉とともに視界が滲んだ。

「おいおい、泣きてえのはこっちだよ。まったく。 ――ほら、早く観客席に手ぇでも振ってやりな」

「はい……!」

 目尻を拭う。

 ロカの手綱を引いて満員のスタンドの前へと進み出た。

 満員のスタンドから割れんばかりの歓声が上がる。

 視界が再び滲んだ。

 刀坂玲という騎手の人生において、今日という日を忘れることは決してないだろう。


「……まさか本当に勝つとはな」

 つい先程まで戦いが行われていたターフを見つめる。スタンドでは桜吹雪ではなく、ハズレ馬券の紙吹雪が見事に舞った。

「やりましたよ先輩! 当たりました! 見てください! 僕の五万円が……! ……えっと、六倍だから……」

 末崎が両手を指折り数える。

「わかったわかった。少し落ち着け」

 クラシック初騎乗で初勝利。それも日本人女性騎手で初となるG1レースの勝利とは。

「……できすぎだな」

 思わず苦笑いが出る。

 最後の直線、ロカはリアルビューティをアタマ差で凌いだが、このレース展開で一番強い競馬をしたのは間違いなくリアルビューティだった。桜花賞を十回やったらおそらく九回はリアルビューティが勝ったことだろう。

 だが勝負事にたらればはない。

 このレース、一番神様に愛されていたのはロカだったということだ。

「……競馬に絶対はない、か。まったくだな」

「先輩! なにか奢りますよ! なにがいいですか?」

 これから取材だというのにまるで緊張感のない奴だ。

 ため息をついて末崎の方を見る。

「……焼肉。それもとびっきりいい肉で、だ」

 末崎は上機嫌に指を鳴らし、「最高ですね」と実に愉快そうに笑った。 

 

 レースが終わり控室でひとしきり喜んだ後、愛はいの一番に刀坂さんのところへ向かった。私も後に続こうかとしたが思い留まる。

 私には先に行くべき場所があった。

 通路を探していると目的の人物はすぐに見つかった。レース後の検量を終えて通路でひとり佇んでいる。

「あっ、いた! 猿江先輩! お疲れさ――」

 勢いよく踏み出そうとした脚を止める。

 時折鼻をすする音が通路に響き、猿江さんの肩が僅かに震えていた。思わず通路の脇に身を隠す。

 猿江さんの乗ったテレフォンガールは最終着順は六着だったが、十分に健闘した着順だ。

 だがしかし、いくら検討したと言っても負けは負けであることもまた事実である。

 どうしたものか。

 こんなときにかけられる言葉を、私はまだ持っていない。

「みっともねえな、猿江」

 その時、どこからともなく聞き馴染みのある声が静寂を破った。猿江さんが声の方へ顔を上げる。

 声の方を見ると、そこには咲島先生が立っていた。

 猿江さんは慌てて顔を拭う。

「……笑いに来たんですか」

「ふん。俺はそんなに暇じゃねえよ」

「……。それは、そうですね……」

 猿江さんは自虐的に笑った。

「ったく、辛気臭え奴だな。悪くねえ競馬だったっつうのに」

「……え?」

 間の抜けた顔で猿江さんは咲島先生を見る。

「悪くねえ、って言ったんだ。

 ――まあ、悪くねえだけじゃ勝てないのもまた競馬だな」

 顔を上げた猿江さんはその言葉に下唇をギュッと噛み、再び下を向き肩を震わせた。

「……このレース……、絶対、勝ちたかったんです……!」

 猿江さんは絞り出すようにその言葉を口にした。

 咲島先生がゆっくりと猿江さんに近づきその頭を小突く。猿江さんは片手で頭を抑えて顔を上げた。

「バカ野郎。負ける気で乗る騎手がいてたまるか。

 イチから出直して来やがれ。

 またバカなこと言いやがったら美浦まで殴りに行ってやるよ」 

「……! ……はい……! ありがとうございます……!」

 この日、夢破れた十七頭。

 彼女たちの物語はここで終わりではない。

 散った桜が次の春にまたその枝に花をつけるように、あの子たちも花を咲かせる日がきっと来ることだろう。

 そしてそれは、共に戦った騎手もまた同じである。

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