第8話 風誘ふ花のかんばせ
スターターの合図で十八頭の牝馬たちが一斉にターフに駆け出す。
力強く地面を踏み込む音が阪神競馬場に響いた。
想定通りシャンディバーが抜け出し逃げの体勢に入る。それを追う形でロカが続いた。
隊列がゆっくりと縦に伸びる。
『――やはり逃げるのはシャンディバー。
一馬身離れて女性騎手初のクラシック勝利を目指す刀坂とロカがその後を追います。その少し後ろ並んでアシッドリマーク、テレフォンガール。
――ペニーファージングが中団先頭。そして少し後ろ、ここに一番人気リアルビューティです――』
リアルビューティとそれに跨がるルピは後方で息を潜める。
「……ここまでの展開は想定通りだな。
シャンディバーは鞍上が変わり逃げに戦法を変えてから二戦二勝。逃げの名手である
「いい位置ってことですね! よしよし!」
末崎が先頭を見て小さく拳を握る。
隊列を崩さず先頭のシャンディバーが前半八百メートルを通過した。手元のストップウォッチに目を落とす。
タイムは――。
「――四十九秒」
遅い。
例年ハイペースになりやすい桜花賞だが、逃げ馬を操る小豆畑騎手を警戒してかペースが上がって来ない。他馬がシャンディバーをつついても良い頃合いだが動きが固い。
二番手が桜花賞初騎乗の刀坂騎手が乗るロカであることもレースが膠着している一因だろう。
これがG1レースの持つ独特の緊張感。
このままでは後方に控えた馬たちはリアルビューティを含めて全滅だ。先行策を取った馬たちに勝負は絞られる。
さて、後ろの奴らはどうする?
「上がってきた……!」
控室のテレビ画面を凝視している愛が呟く。その体の前で組んだ両手に力が入ったのが見て取れた。
カメラはじりじりと前に進むリアルビューティを捉えている。
「このままいけると思ったのに!」
「でもこのペースだったら前目の馬が有利なのは変わらないよ。大丈夫」
「……うん、そうね!」
画面の中、テレフォンガールはまだいい位置につけている。
「猿江先輩……」
右拳を強く握った。
「……ちっ」
ちんたら走りやがって。レース前に想定していたペースよりかなり遅い。シャンディバーに楽逃げされている。
現在、前にいるの三四頭。
前からシャンディバー、ロカ、アシッドリマークだ。
前走勝ったチューリップ賞は流れが早い前傾ラップのレースだったが、この展開でいけば前の馬も余力十分でテレフォンガールの末脚が活きてこない。
――もう少し前に出すか?
だが下手に前に出すためにここで脚を使うとラストスパートに影響が出るかもしれない。
「……」
息を深く吸い、ゆっくりと吐き出す。
初めてのクラシックレース。無難に一周回って来るレースをここにしに来たのか?
違う。俺たちはここに勝ちに来たんだ。
失うものなんかない。
「……いくぞ、テレフォンガール」
その時、背中に猛烈な悪寒が走った。額を一筋汗が伝う。
――来る。
『――おっと、ここで早くも上がってきたリアルビューティ。
ぐんと伸びて、二番手集団に迫ります』
ピタリと横にリアルビューティが並んだ。
これまでのレースを見てもリアルビューティは典型的な差し馬。例年の桜花賞のペースであれば普段の乗り方で十分勝ち負けを狙えたが、この展開で勝負に出たということか。
隣を窺い見る。
瞬間、ルピの口元が歪んだ。それが笑っているのだと一瞬気付かないほど不気味な笑みだった。
思わず舌を打つ。
だから嫌なんだ、こいつは。いつもの能天気な振る舞いから考えられないほど、勝負事では誰よりも冷徹だ。やり辛いことこのうえない。
「もっと楽に勝てると思ったのに小豆畑さんも余計なことを。……まあいいよ。
ルピが独りごつ。ただ先頭を見つめ、こちらはまるで眼中にないようだ。
上等じゃないか。
「!……舐めんなルピ! 俺たちが勝つ!」
振り向いたルピの鋭い視線と目が合った。
「……やってみなよ。
後半残り八百メートルを切る。先頭で悠々と逃げるシャンディバーにゆっくりと近づいた。
「……近いな刀坂ちゃん。もっとペース落とす気はないかい?」
先頭を行く小豆畑さんが振り向かずにこちらへ話しかけてきた。
そうしてる間にも小豆畑さんは淡々と一定のペースを刻んでいる。この大舞台でこのスローペースを演出するとは肝が座っている。踏んできた場数が違うと言わざるをえない。
その騎乗には三十年以上騎手として生き残ってきた技術が詰まっていた。
「――無理ですね。小豆畑さんこそペース上げてくださいよ」
小豆畑さんは溜息をつく。
「……五十のジジイをもっと労ってくれてもいいんじゃないか?」
「このレースを勝った後にいくらでも労ってあげますよ」
小豆畑が力なく首を横に振る。
しかしながら、口で牽制したはいいもののこちらも仕掛けどころを測りかねていた。
――どうする。
突然、シャンディバーのペースが上がった。もうすぐ最後の直線を迎える。
小豆畑さんの目にギラリとした光が宿る。
「……まったく、可愛いのは顔だけだな刀坂ちゃん。
――だがよお、俺も青二才共にむざむざタイトルを渡すほど老いちゃいねえんだ!」
小豆畑さんの声が腹に響く。
その時、ロカがハミを強く噛んだ。
ぐいっと手綱を引かれる。まるでぼんやりしてないでもっと追えと言っているようだ。
「……大丈夫、びびってないよ。ロカ」
まだやんちゃ盛りのロカに気付かされるなんて私もまだまだ未熟だ。
「小豆畑さん! 青二才を、舐めないでください!」
いよいよ最後の直線に出た。
スタンドの歓声が襲いかかってくる。空気が、地面が、心が揺れる。
『さあ、最後の直線!
最初に駆けてきたのはシャンディバー! 逃げる逃げる! だがすぐ後ろからロカが迫って来る! ――おっと大外からテレフォンガールも来た!』
「……! 来ると思ったよ、猿江くん……!」
「余裕ぶってる場合かよ!」
そんなつもりはなかったが、同期とこの舞台で戦えることに思わず顔が緩んでいたのかもしれない。
口元に力を入れ直す。
『ここでリアルビューティがすごい勢いで上がって来る!
凄い! 凄い脚だ!
先頭シャンディバーとの差があっという間に縮まっていきます!』
リアルビューティが力強く四肢を駆動させる。その推進力だけを見ても他馬との違いは明らかだ。
一頭だけものが違う。
これが、“G1馬”という生き物。
「――化け物め……!」
猿江くんがそう吐き捨ててテレフォンガールに鞭を入れた。しかし、その差は広がるどころか徐々に縮まっていく。
私が捉えることができたのはそこまでだ。
前を向き直り、ロカを前へ前へと追う。先頭のシャンディバーとほぼ横並びになった。
『リアルビューティ、ここでテレフォンガールを悠々と交わす! 勢いは止まらない!
これが無敗のG1馬の走りだ!
二馬身、一馬身、……並んだ並んだ!
勝負の行方は三つ巴!』
後方に感じたことのないプレッシャーを感じる。これが、強者に対峙する時の根源的な恐怖。
唾を呑み込む。
振り向いてはいけない。ここで振り返れば瞬く間に彼女たちに呑まれる。
前だ。
前だけを見ろ、刀坂玲。
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