第7話 春しりそむる桜花

 桜花賞。

 古くから歌に詠まれ人々に親しまれてきた桜。その名を冠する由緒正しきレースがいよいよ今週末に迫っていた。

 競馬発祥の国イギリスの歴史ある競争を範とした五つクラシックレースのひとつであり、四月の初旬に阪神競馬場で開催される。芝千六百メートル、すなわち一マイルの距離を競うマイルレースだ。

 桜花賞の競争資格を持つのはうら若き三歳の牝馬のみ。そして、挑戦することができるのはその世代に生まれ落ちた数千の牝馬のうち、たった十八頭だけである。

 

  あだと散りて 仁川にがわ染めたり 花筏はないかだ

  際離きわはなるるや ゆらり舞ふかな


 今年、桜花賞の歴史に名を刻むただ一頭の名をまだ誰も知ることはない。

 昔、誰かが言った。

 桜は短く咲き儚く散るから美しいのだ、と。

 そう、さながらうら若き乙女の時分のように。


 調教を終えた厩舎への道すがら、見知った顔にあった。こちらに手を振ってくる。

「久しぶりね、青」

「愛! こっち来てたの?」

 競馬学校の同期である愛のもとへ小走りで駆け寄る。

「ええ、騎乗依頼があってね。それに今週末は桜花賞があるから。姉弟子の応援よ」

「姉弟子?」

 愛の厩舎の姉弟子ということは――。

「こんにちは日鷹さん」

 後ろから声を掛けられる。

「! 刀坂さん! お久しぶりです。よろしくお願いします!」

 刀坂とうさかあきら

 その端麗な容姿に目を引かれるが、女性騎手としても現役ナンバーワンの実力を持つ実力派だ。引き合いが多くある中で愛が現在所属している厩舎を選んだのも彼女が所属していたというのが大きいと聞いた。

 センターで分かれた黒いショートヘアが風になびく。

「桜花賞ってことはロカに乗るんですよね!」

「そう。よく知ってるね」

「フィリーズレビューの勝ち馬ですもん! 現地では見れませんでしたけど」

 当日は福岡にある小倉競馬場にいた。

 フィリーズレビューはチューリップ賞に並ぶ桜花賞へのステップレース、前哨戦だ。

「それだけじゃないわ! 昨年の二歳女王戦である阪神ジュベナイルフィリーズでも二位の実力馬なんだから!

 絶対に勝つに決まってる!」

 横から愛が口を挟んだ。

 フィリーズレビュー、チューリップ賞、阪神ジュベナイルフィリーズはすべて阪神競馬場で行われ千四百メートルのフィリーズレビューを除いて本番と同じ千六百メートルの距離で行われる重賞だ。

 桜花賞に臨む多くの陣営はこのレースをものさしとすることもあり、そのレース結果というのは桜花賞において大きな意味を持つ。

「そう簡単にはいかないさ。

 同じく前哨戦を勝ったテレフォンガールもいるし、ほかにも有力馬は多い。

 なにより阪神ジュベナイルフィリーズで一位の――」

「“リアルビューティ”ですね」

 刀坂さんの研ぎ澄まされた瞳がこちらを見据える。彼女は少し間を置いて口元に笑みを浮かべた。女の私でも思わずドキッとする仕草だ。

「その通り」

「いま注目の新種牡馬の子だもの。一筋縄じゃいかないわ!」

 訳知り顔で愛が話に入ってくる。

「そうなの?」

「そうよ!

 ケンタッキーダービーを五馬身差圧勝、アメリカ最高峰のレースであるブリーダーズカップ・クラシックを連覇した近年最強の米国馬カムシン!

 その産駒はアメリカでは去年のケンタッキーダービーの勝ち馬を筆頭に、数々のG1タイトルを荒稼ぎしてる。

 日本にも阪神ジュベナイルフィリーズを勝ったリアルビューティだけじゃなく、今年のクラシック路線筆頭のデザートストームだっているわ!

 わざわざ米国へうちの牧場の繁殖牝馬を何頭も送った甲斐があるってもんよ!」

「ふーん」

 忘れそうになるが愛の実家は大牧場だった。

「……そういえばリアルビューティって四王天ファームの馬でしょ? そっちを応援するの?」

 愛が目をカッと見開いた。顔を真っ赤にしてこちらに噛みついてくる。

「馬鹿言ってんじゃないわよ! 刀坂さんとロカを応援するに決まってるでしょ!」

「別に私は怒らないよ」

 刀坂さんは口元を抑えて小さく笑った。

「刀坂さん! からかわないでくださいよ!

 ――ていうかそういう青はどうなのよ!」

「私? ……うーん。私はテレフォンガールを応援する」 

「テレフォンガール? 美浦の馬じゃない。なんでまた」

 刀坂さんは得心がいったように頷いた。

「なるほど咲島にいた猿江くんの馬か。これは負けられないな」

「! そういえば競馬学校の同期でしたっけ?」

「ああ。

 いろんな騎手と競ってきたけど、やはり同期っていうのは特別なもんだよ」

 愛の方を向く。愛も同じタイミングでこちらを向いた。

「……そう?」

「さあね」

 愛は笑いながら肩をすくめた。 

  

 四月初旬。第二回開催阪神競馬場六日目。

 桜花賞当日がやってきた。

 阪神競馬場のスタンド向正面には桜の木が植えられており、時期が合えば満開の桜のもとで桜花賞が行われる。生憎ながら今年は冬が例年より暖かかったこともあり、その花はすでに散ってしまっていた。

 本場場に一頭、また一頭と駆けていく。

 紫紺のゼッケンが芝に映えた。

 紫紺に黄色文字のゼッケンはクラシックレースにのみ用いられる特別なゼッケンであり、阪神競馬場では年一回ここでしか拝むことができない。

「いやーなんかこれまでのレースと雰囲気が違いますね」

 隣に立つ末崎が気の抜けた声を出す。

「……中央競馬で年間二十四回しか開催されないG1レース。それも馬にとって生涯でたった一度しか走ることのできないクラシックレースともなればそりゃあ観客も多いし、熱も入る。

 牝馬三冠のはじまりかもしれないしな」

「牝馬三冠……! 桜花賞、オークス、秋華賞の三つですよね!

 日本競馬の長い歴史のなかでも両手に収まる数しかいない偉業……!」

「競馬記者ならそんなの初歩の初歩だ。鼻息荒くするんじゃない」

 末崎は唇を尖らせる。

「もっと褒めてくれてもいいじゃないですか。僕、褒められて伸びるタイプなんですけど」

「そうか。俺は叩いて伸ばすタイプだ」 

「――たしか三番の馬が一番人気の馬ですよね。リアルビューティでしたっけ?」

 末崎が話を戻した。

「ああ。今注目のカムシンの産駒だし、実力は間違いなく抜けてる」

「ふーん……。

 でも、順当に買っちゃうと全然美味しくないっすね、馬券。そろそろ二倍も切りそうだし」

 現時点での単勝人気は二・〇倍。締め切りまであと僅かだが、このペースで行くと一倍台は固い。

「お前はそういう目でしか競馬を見れんのか」

「そりゃあ、競馬はギャンブルでしょ」

 そう言ってスマートフォンの画面をこちらに向ける。映っているのはインターネット馬券の購入サイトだ。六番の馬に単勝で五万円賭けていた。

 六番の馬は現在三番人気のロカだ。

「お前……本気か?」

 まあ、予想は自由なので強くは言わない。だが賭ける金には限度があるだろう。しかも競馬初心者なら尚の事だ。

 むっとした顔で末崎は口を開く。

「本気ですよ! ――じゃあ、先輩は何に賭けてるんですか?」

「……リアルビューティ」

「うっわ、つまんないっすねえ」

 末崎がこちらを小馬鹿にして笑う。

「三連複の軸馬にしてるんだよ! 絶対三着以内に来ると思ってる馬を軸にしてなにが悪い!」

「? ってことは一着固定じゃないってことですか? あのリアルビューティに勝てそうな馬がいると?」

「そりゃ競馬に絶対はないからな。

 チューリップ賞組のテレフォンガールやギャングタウン、お前が賭けてるフィリーズレビュー組のロカ。別路線で着実に力をつけているシャンディバーも面白い。

 ――というか競馬素人のお前こそなんでロカの単勝なんだよ」

 末崎は鼻を鳴らしたあとで小憎たらしく口元で人差し指を振る。

「ふふん、よく聞いてくれました。

 実はですね……。

 ――ロカのジョッキーの刀坂さんがめっちゃ美人なんですよ! 堪んないですよね!

 ああ、もっと賭けようかなあ」

「…………お前、それでも競馬記者か?」

 それではもはやギャンブルですらなく推し活だろうに。 

「――だがまあ、騎手に目が行くようになったのは成長かもな」

「? どういう意味です?」

「リアルビューティが一番人気なのはってことだ」

 

 十八頭の牝馬たちはゲートの手前で輪を描いて枠入りを待つ。人々の緊張は最高潮に高まっていた。

『――春告げる桜花賞。

 阪神競馬場のある仁川の桜はすでに散ってしまいましたが、青々としたターフでは乙女たちがいまかいまかと花開く時を待っています。

 今年、桜の女王となる馬ははたしてどの馬になるのか。

 一番人気はもちろんこの馬。ここまで阪神ジュベナイルフィリーズを含め三戦無敗。まさに“傷なき美しさ”リアルビューティ。鞍上ジュリオ・ルピ騎手はここまで那須騎手を抑え騎手リーディングトップの活躍を見せています。

 それを追うテレフォンガール・猿江騎手、ロカ・刀坂騎手はクラシックレース初騎乗。絶対強者を相手にどのような競馬を見せるのか。そして――』

「ハイ、アキラ。ロカ調子良さそうネ。馬体がグッと成長してるヨ」

「グラッツェ、ジュリオ。そちらこそ相変わらず綺麗な馬だね」

 輪乗りの最中にリアルビューティに跨るルピがロカの刀坂に話しかけた。

Siスィ! この馬ホントにスゴイ! 今日も乗るのとても楽しみ!」

「そう。それはなにより」

 ルピが大袈裟に首を傾げる。

「いつもより顔がカタいネ。緊張?」 

「キミくらいだよ。いつも通りなのは」

「ンー、それはツマラナイ! ワクワク楽しまなきゃ!

 ケイ、君もそう思うダロ?」

 ルピがこちらに話を振る。

 少しは黙ってろ、お喋りイタリア人。

「……ああ」

「なんだ、一番緊張してるかと思った」

「うるさいぞ、刀坂」

 ルピはこちらを見て愉快そうに笑った。

「ハッハッハッ! 楽しんでいこうよミンナ!

 桜はミンナ大好き、ハッピーな花だよ!」

 輪乗りが終わり、順番にゲートへと入っていく。

「猿江くん」

「……今度はなんだよ」

 枠入り直前、刀坂に呼びかけられる。

「かわいい妹分がいるみたいだね。気合が入るだろ?」

「……んなわけあるか」

 これから生まれ出る女王を祝福するようにファンファーレが高らかに鳴る。

 どいつもこいつもレース前にごちゃごちゃと。

 上等じゃないか。格好いいとこ見せてやるよ。

 桜花賞の栄光は俺とテレフォンガールが手に入れる。

 手綱を強く握り直した。

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