第6話 私の才能

「すみませんでした」

 早朝、調教を終えた馬の手入れをしていた生島さんに頭を下げる。

「もういいっすって」

 生島さんは少し呆れ気味にこちらを向いた。

 土曜のあのレースを皮切りに、土日の騎乗は惨憺たる結果だった。チラッと見たスポーツ新聞では、私の醜態ではなく由比の初勝利が大々的に取り上げていたので、情けない話だがそれが唯一の救いである。

「何回頭下げる気ですか。一つのレースいつまでも引き摺ってるとメンタルやっちゃいますよ。

 それに日鷹さんはあれがデビュー戦だったんだし、気負いすぎっす」

「でも……」

 もっと上手く乗れたはずだ。あのレースで私はなにもできなかった。

 生島さんはひとつ息を吐く。

「……フィズも砂被って走る気なくしてましたからね。ダート、向いてなかったかもしれないっす。

 それはこっち側の判断ミスなんで」

「……でも、私が前に出せてたら変わったかも……」

 生島さんが馬の世話の手を止めこちらを振り返った。

「日鷹さん」

「! ……はい」

「厩舎はいつまでもうじうじする場所じゃないっすよ」

「え?」

「騎手も調教師も厩務員も、そして馬だってもう次のレースを見据えてるんす。反省はおおいに結構ですけど、終わったレースにはもう乗れないんすから」

「……それは、そうですけど」

 そんなに簡単に割り切れるものではない。 

「よう、鳶島の娘。気分はどうだ?」

「! 先生、お疲れ様っす」

 物陰から咲島先生が顔を出す。

「……最悪です。見ての通り」 

「そりゃ良かった。清々しい顔してたらぶん殴ってたところだ」

 先生は笑った。

 暴力沙汰で謹慎処分を受けたことがある張本人が言ってもなにも面白くはない。

「……アドバイスとかないんですか。弟子があんな散々だったのに」

「ない」

 先生はこちらの問に即答する。

 思わず唇を尖らせた。 

「心配するんじゃない。俺からのアドバイスはないが、お前には才能がある」

 そういえば猿江さんとはじめて会った時もそんなことを言っていた。

「……。なんなんですか、私の才能って?」

「お前が“鳶島大洋の娘”であることだ」

「……は?」

 咲島先生は素知らぬ顔で答えた。

 私が鳶島大洋の娘だからなんだと言うのだ。私はお父さんに競馬のことなど教わったことはない。

 それともセンスが遺伝しているとでも言いたいのか。

「……なんですかそれ。そんなの才能じゃありません! 私は――」

「黙って聞け」

 咲島先生は静かにこちらを諌めた。

「でも――」

「なんでそんなに嫌がる? 鳶島アイツの娘であることがなにか不満か?」

「……不満じゃありません。けど、お父さんじゃなくて私の実力を見て欲しいんです」

「お前の実力?」

 先生は私の発言を一笑に付す。

「ずいぶんと勘違いしてるな。

 ただの下手くそな小娘に大事な馬を託せと、お前はそう言いたいのか?」

「……」

「いいか? お前があの鳶島大洋の娘だからいろんな調教師や馬主が馬を用意してくれてるんだ。

 新人騎手がおいそれと乗れない馬の依頼も沢山来てる。お前は凡百の騎手に比べて十分すぎるほど恵まれているんだ。

 才能じゃない?

 バカ言え、これは紛れもなくお前の生まれながらの“才能”だ」

 下唇を噛む。

 悔しいがその通りだ。今の私には実力もなければ経験もない。今私が多くの馬に乗れているのは生前に父がこの場所で結果を出してきたからにほかならない。

「そのおかげでお前は人より多く馬に乗れる。人より多くレース経験を積める。

 悔しかったらそれを自分の“血"とし、“肉"にしてみせろ。

 なにも言われたくなけりゃ早くお前の名前を売れ!」

 拳を強く握る。爪が掌に食い込んだ。 

「……生意気言ってすみませんでした」

「……はあー。まったく、真面目な話は肩が凝る。

 飯だ、飯!

 お前ら、さっさと仕事終わらせろ」

 そう言って咲島先生は馬房をあとにした。


 午後、昼食を終え今週末乗る馬の勝負服を受け取りに厩舎を巡る。

 中央競馬の勝負服は馬主ごとに異なるので、自厩舎以外の勝負服はそれぞれの厩舎へと取りに行かなければいけない。

 最初の厩舎に着くと、ちょうど調教師が厩舎の外にいた。ラフな格好をした壮年の男性と話している。

 調教師がこちらに気づき手招きする。

「ちょうどよかった。こっち来てくれ」 

 自転車をそばに止め、駆け寄る。先程まで調教師と話していたまるまると太った壮年の男性がこちらに近付いてきた。

「お、お疲れ様です!」

「おお! 君が大洋くんの娘さんか!

 お父さんには昔とてもお世話になったよ。娘さんに乗ってもらえるなんて光栄だ。頑張ってね!」

「は、はい」

 名も知らないこの馬主のおじさんは満面の笑みを浮かべこちらに手を差し出す。

 私はそれに答える形で手を差し出した。

 その後いくつか厩舎を回ったが父の名が出ないことはなかった。思えば先週のレース前も同じだった。

 顔はよく知っているが、会話すらしたことない父の背中は私が想像していたより遥かに大きい。

 少しくらいそれに甘えてもいいだろうか。

 腕の中にある幾重もの勝負服を強く抱いた。


 第一回阪神競馬場五日目。

 デビュー戦から一週間、私は再び阪神の地に立っている。パドック脇で再び猿江さんと一緒になった。

「お疲れ様です。猿江先輩」

「! ……日鷹か」

「もっと嬉しそうにしてくれてもいいんですよ。それはそうと、先週はチューリップ賞勝利おめでとうございます」

「どうも。

 ……あんなに散々だったから今週は乗らないかと思ったよ」

「乗らないと“才能”の持ち腐れなので」

「――そうか」

 猿江さんの口角が僅かに上がって見えた。

「? ……なんか笑ってません?」

「ふん。もとからこういう顔だ」

 パドックを終えいよいよ本馬場に入る。

 今日の第二レース、三歳未勝利ダート千四百メートル。馬場状態は良。跨がる馬は牡馬のイチバンボシキラリだ。

 このコース、このクラスの勝ち馬の走破タイムは一分二十五秒前後。この馬の前走を鑑みても十分に一着を狙える。今の私には勿体ないくらい良い馬だ。

 馬番の奇数、偶数の順にゲートに入っていく。私たちもゆっくりとゲートに入った。

 馬番はその名の通りレースに出る馬に振られる番号で、コースの内側から一番から十六番の番号が抽選で選ばれる。イチバンボシキラリの馬番は九番だ。もう少し内が良かったが、ひとつ内に入る八番マディブーツが逃げ馬なので上手く前に出れそうだ。

 ゲートに入るとイチバンボシキラリがソワソワし始める。顔がいきなり横を向く。

 思わず手綱を引くのをぐっと堪えた。

 落ち着け。大丈夫だ。

 この前のスタートは自分のことに精一杯で馬を見れていなかった。

 重心を動かしながら機嫌を伺う。

 少しするとイチバンボシキラリが再び前へ向き直った。

 ――よし、いい子だ。

 ゲートが開く。

『――いま、スタートしました。

 全馬揃ったスタート。抜け出したのは四番ピーキーマシン。その後ろ八番マディブーツ、少し離れて九番イチバンボシキラリ――。』 

 ――よし! スタートは上手くいった。

 想定通り内にいた馬が前に逃げをうったので、空いたスペースにうまく入る事ができた。

 このコースははじめの五百メートルほど芝を走ることもありペースが前のめりになりやすい。だがここで焦っては最後までスタミナが持たない。

 大きく息を吐き、逃げる二頭から一拍間を置いた。

 焦るな……。焦るな……。焦るな……。

 レースは隊列を崩すことなく淀みなく進む。 

 すぐに最後の直線がやってきた。

 イチバンボシキラリの脚は十分に残っている。

「!」

 ひとつ前を走るマディブーツが加速しない。十分な脚が残っていないのだ。このまま前を塞がれては十分な加速をつけることができない。

 急いで左右に首を振る。

 馬の駆ける音と観客の声に包まれ、頼れるのは自らの目と勘だけだ。

 ――いける!

 鞭を入れ馬にラストスパートを伝える。

 同時に素早く手綱を操り進路を変えた。マディブーツとコースの内柵の間、馬一頭分のスペースに体を入れる。

 マディブーツと入れ替わるように前へと抜け出した。

「――よしっ!」

 残り百メートル。

 先頭を行くピーキーマシンがここで失速する。先頭に躍り出た。

 ――勝てる!

 その時、一際大きな足音が後方から近づいてきた。

「……! 猿江先輩……!」

『ピーキーマシン失速! ここで先頭九番イチバンボシキラリ! しかし外から十三番ゴールデンスタッグが上がってくる!』

 猿江さんが乗るゴールデンスタッグがじりじりと距離を詰めてくる。

 残り十数メートル。

 ――頑張れ!

『一着、イチバンボシキラリ!

 人馬ともにここで初勝利! 阪神の地で日鷹騎手が九戦目で初勝利を掴み取りました!

 頭上できらりと輝くは未来を照らす一番星です!』

「……! ……勝った……?」

 電光掲示板の一着に「九番」が表示される。二着「十三番」とはハナ差、馬の鼻の距離ほどの僅かなリードを保ってゴールしたらしい。

「や、……やったー!」

 右拳を突き上げる。勝った。勝たせることができた。

「日鷹」

 横から声を掛けられる。猿江さんが右手を差し出した。それに左手を強く叩いて応える。

「ありがとうございました!」

 イチバンボシキラリのスピードをゆっくり落としていく。春を思わせる風が優しく頬を撫でた。

 

 レース後の軽量を終え、控室へと戻る。次のレースまで少し時間が開く。

 椅子に深く腰を下ろし、一息ついた。

「……才能、か」

 先週と同じ騎手とは思えない見事な競馬だった。咲島先生があれだけのことを言うだけはある。

 外の空気を吸うために控え室を出た時、勝利騎手のインタビューを終えた日鷹と目が合った。

「猿江先輩!」

「なんだ日鷹。休憩中だぞ、俺は」

「私、勝ちましたよ! 一週遅れましたけど」

「はいはい、おめでとう」

「ありがとうございます!」

 適当にあしらったが日鷹は嬉しそうに笑った。 

「あの、ひとつ聞いてもいいですか?」

「……ひとつだけな」

 日鷹は一瞬口を閉じたあと、改まってこちらに質問した。

「本当に咲島先生と喧嘩別れしたんですか?」

「……どういう意味だ?」

「私、猿江先輩が悪い人には思えなくて」

 素直だといえばいいのだろうか。こいつと話すとなんとも調子が狂う。  

「……何年か前、咲島調教師が新人所属騎手を殴って負傷させた。お前もここまでは知ってるだろ?

 その新人騎手が俺だ」

「はい」

「新人の頃から俺は上手かった。レースは簡単に勝てたし、同期の誰よりも上手く乗れてた」

「自慢ですか?」

「今になって思えばくだらないがな。

 それでも当時の俺は浮かれてたし、競馬を舐めてた。

 レースが終わると先生には散々怒られたよ。でも、まったく聞いてなかった。結果は出てたからな。

 ――そして、あの事件が起きた」

 瞼を閉じるといまでも鮮明にあの場面が浮かんでくる。

「その日、あるレースで危ないコース取りをしてあわや他馬を巻き込んだ落馬事故になりかけた。幸いレースは無事終わったんだが、ゴールして検量室前まで戻ったら鬼の形相をした先生がいてな。

 ……そこで思いっきりぶん殴られた。

 これはその時にぶつけたときの傷だよ」

 自らの額を撫でた。傷はもう塞がってじっくりと見ないと見えない。

「周りは騒然、新聞にもでかでかと載ってな。

 結果として、咲島先生は一年間の謹慎。俺はトレセンごと厩舎を移った」

「……そうだったんですか」

「平均体重四百七十キログラム、時速六十キロメートルを超える馬がひしめくレースにおいて驕りや慢心は死に直結する。あのまま馬に乗っていたら俺はいつか死んでいた。――いや、それならまだマシだ。

 もしかしたら誰かを殺していたかもしれない。

 あの時先生が殴ってくれたから俺はここにいる」

 遠くで歓声が上がる。次のレースが始まろうとしていた。

「……仲直り、しないんですか? この前厩舎まで来たのに」

「……そのつもりだったんだけどな。あの菓子折りも本当は先生に持っていったんだ。

 ――でも、会ったら気が変わった。 

 俺がもっと立派な騎手になったらしっかり感謝しに行こうと思う。それが、先生への恩返しになると思うから」

「……うーん、わかるような、わからないような」

「ガキにはまだ早いかもな。

 ……話は終わりだ。あっちいけ」

 手で追い払う。日鷹はむっとした顔をした。

「! ガキじゃありません! 次のレースも絶対に私が勝ちますからね!」

「はは、やってみろよ」

 季節は春。

 固い蕾は人知れずほころび、あっという間に桜花の季節がやってくる。 

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