第5話 忘られじデビュー戦

 目覚ましの規則的な電子音で目が覚める。

 すぐ近くのカーテンを開ける。外はまだ真っ暗だ。卓上のデジタル時計は深夜二時を少し過ぎている。

 身支度を整えて調整ルームの外に出た。澄んだ夜空は幾千もの星々を抱き、中天には月が輝く。

 今日はよく晴れそうだ。

 三月初旬はまだまだ冷える。一息吸うと、冷たい空気が肺に満ちた。

 いよいよ今日がデビュー戦だ。


 阪神競馬場。

 栗東トレーニングセンターからほど近い兵庫県宝塚市にあるこの競馬場は収容人数八万人を誇り、京都競馬場に並ぶ関西で最大規模の競馬場だ。観客スタンドの東では雄々しいセントウルの像が人々を見守っている。

 朝の調教を終え、急いでタクシーに乗り、明け方に阪神競馬場の調整ルームへと入る。そこにはすでに多くの騎手がいた。

 何人かに声をかけられたが、なにを話したかはよく覚えていない。

 検量室での前検量を終え、装鞍所、パドックと目まぐるしく動き回る。ようやく一通りの仕事を終えひと息ついた。

「緊張してるのか。新人」

 パドックの脇で騎乗命令を待っていると不意に声をかけられた。

 猿江さんだ。

「! ……まさか。

 猿江先輩こそ緊張してるんじゃないですか?」

「ああ、してるよ」

 表情を変えずに彼は即答する。意外な返答だった。

「なにも緊張は悪いことじゃない。それだけそのレースに本気だってことだ。

 緊張も味方にすれば良い」

「……なんか格好つけてません?」

「つけてない」

 猿江さんは装具を確認しながらぶっきらぼうに返す。

「……この前はわざわざ厩舎までありがとうございます」

「別に。どんなもの好きがあの厩舎に入るのか見ときたかっただけだから」

「照れなくてもいいですよ」

「照れてない」

 言葉の通りその表情はピクリとも動かない。

「私、デビュー戦なんです。このレース」

「……レース前によくもまあそんなに喋るな」

 たしかに、普段ならこんなことはない。だが口からは言葉が次々と溢れ出る。

「デビュー戦で勝つ、って格好よくないですか?」

「夢は好きに語れ。――さっ、話は終わりだ」

 私を置いて猿江さんが小走りで駆けていく。私も慌てて続いた。

 騎乗命令だ。

 整列した後、それぞれが乗る馬のもとへと別れる。私の行く先にはストロングフィズとそれを引く生島さんが待っていた。

 馬に跨ると周りから嫌というほど視線が注がれる。少しだけ胸を張り背筋を伸ばした。

「大丈夫。みんな馬を見てるだけっす」

 生島さんがぼそっとこちらに聞こえるくらいの音量で呟く。おそらく緊張しないように気遣ってくれているのだろう。

「ありがとうございます」

「――あれが“鳶島騎手の娘”ですか?」

 思わず声のする方を向く。まばらに人が立っているが声の主はわからない。

 鳶島の娘、鳶島の娘、鳶島の娘――。

 いい加減うんざりだ。鳶島の娘でも新人でもなく、私には今、日鷹青という名前がある。

「集中っすよ。さん」

「あっ……、すいません」 

 そうだ。こんなことで集中を切らしてはいけない。

 頬を強く張る。

 私は私、“日鷹青”のレースをするだけだ。 


 目の前のパドックで馬が列をなして歩いている。お目当ての騎手はすぐ見つかった。

「あ! あれが鳶島騎手の娘ですか?」

「声がでかい。

 ――日鷹青。悲運の天才騎手・鳶島大洋の一人娘だ」 

「その鳶島って人はそんなすごかったんですか?」

 隣に立つ末崎すえさきが声を少し絞り尋ねてくる。ここに取材に来る前に一通り叩き込んだがもう忘れてしまったのか。

 最近異動してきたといってももう少し興味を持って勉強して欲しい。

「流石にお前でも現役トップジョッキー、那須孝介は知ってるだろう?」

「当たり前ですよ! 馬鹿にしてます?

 なんかのCMに出てましたよね、昔。見たことあります。それがどうかしました?」

 こいつと話すと頭が痛くなってくる。

「……その那須騎手の同期で、生きていた頃は那須騎手と互角、いやそれ以上の腕を持ってると称された。それが鳶島大洋だ」

 末崎は目を見開く。

「え! めっちゃ凄いじゃないですか! じゃああの子も凄いんですか?」

「…………。

 はあ……、それを今日確かめに来たんだバカ野郎!」

 末崎は怒声に驚き飛び上がった。

 もう一度彼女に視線を戻す。

 日鷹青。

 わざわざ登録名に母方の姓を選んだということは父である鳶島騎手のことは触れられたくないのだろう。だが、触れられたくないから触れないなんて記者の名が廃るというものだ。

 それに自らこの世界に飛び込んできたのなら、「鳶島」の名を捨てることがどれほど難しいことかは君が良くわかっている筈だろう。

 じっくり見させてもらうよ。“鳶島の娘”の実力を。

「先輩」

 末崎が耳打ちしてくる。まったく、なんだというのだ。

「……なんだ?」

「声、少し大きいですよ」

 そう言って口の前で人差し指を立てる。俺は「そうか」と返して、末崎の頭頂部を思いっきり叩いた。 

 

「アドバイスはない」

「え?」

 目の前の咲島先生をまじまじと見つめる。冗談かと思い続く言葉を待ったが、口を真一文字に結んで微動だにしない。

「ふざけてます?」

「この馬のことは生島が一番よくわかっている。それ以上俺がアドバイスすることはない。

 お前が実践できるとも思わないしな」

 その言い方はいかがなものか。

「……やってみないとわからないじゃないですか!」

「大穴には張らないと決めてるんだ。俺は」

「この前は才能あるって言ってたじゃないですか! あれは嘘ですか?」

「嘘じゃねえ」

「だったら――!」

「文句があるなら一回まともに走ってみせろ。話はそれからだ」

 ゲートの中で先日の咲島先生とのやり取りが不意に頭を過る。

 だめだ。レースに集中できていない。もっと頭を空っぽにしないと。

 生唾を飲み込む。

 こんな感覚は初めてだ。呼吸が浅いのが自分でもわかる。手の震えが止まらない。

 馬は繊細な生き物だ。このままでは手綱から私の弱気が伝わってしまう。

 ――止まれ……!

 瞬間、ストロングフィズが横の馬に気を取られ首を振る。慌てて手綱を引くと、急に視界が開けた。

『――スタートしました。

 おっと、一頭出遅れたのは本レースがデビュー戦、日鷹騎手騎乗のストロングフィズ。

 先頭は好ダッシュを決めたインディロック。続きましてギャングタウン、その後ろ――』

 ――しまった。完全にスタートを失敗した。

 考えられる中で最悪の形だ。

 最後尾から慌てて馬を追う。しかし、中団後方まで進んだところで馬群に遮られ前に進めない。

 前を見ると中断先頭に猿江さんがいた。

 そのままレースは淀みなく進む。

 いまどれくらい進んだ? タイムは? ペースはどうなっている? 

 考えれば考えるほど頭の整理が追いつかなくなる。そうしているうちにゴールはどんどんと近づいてきていた。

 最終コーナーを曲がり、視界が一気に開けた。

 鞭を入れようとした時、振り向いた猿江さんと目が合う。

「日鷹。

 ――

「え?」

 次の瞬間、ストロングフィズの速度ががくんと落ちた。

「……!」

 ――スタミナ切れだ。

 馬体が大きくよれる。体を持っていかれるのを踏ん張り、なんとか堪えた。

「おい! 邪魔だよ!」

「バカ野郎! ふらつくんじゃねえ!」

 後続の騎手から次々と怒号が飛ぶ。

 なんとか手綱を操りストロングフィズの体勢を立て直そうとするが上手くいかない。

「……っ! ……フィズ! 頑張って!」

 そうしている間に一頭、また一頭と抜かされていく。

 猿江さんは遥か彼方に見えなくなった。

 ついに後ろには誰もいなくなり、私とストロングフィズは最後にゴール板を越えた。

 

「あらー、例の子どんけつですね」 

「……」

 ストロングフィズ号が最後にゴールする。ひとつ前の馬からも三馬身は離れた大敗だ。

 まったく、期待外れだったな。レース中、終始余裕のない騎乗。並の新人騎手……いや、並の新人騎手よりよっぽど酷い。

「……実力はよくわかった。

 ――末崎、次のレースの取材準備だ」

「次?」

「もう一人の栗東トレセン組、今年の競馬学校首席、由比一駿のデビュー戦だ」

「? ……由比?」

「……お前、少しは自分で調べてきたらどうだ?」

 冷たく返すと、末崎はおどけて顔の前で手を合わせた。


 二○✕✕年、第一回阪神競馬場三日目。

 第一レース、三歳未勝利、牝馬限定、ダート千八百メートル、右回り。

 出走馬十二頭中十二着。

 それが、私の記念すべきデビュー戦の結果だった。

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