第4話 咲島と猿江
3月、滋賀県栗東市。
ここにある栗東トレーニングセンター
トレーニングセンター。
通称トレセンは競走馬を調教する施設であり、二千頭ほどの競走馬が日々トレーニングを行っている。当然、競走馬がいれば調教師や厩務員、騎手といった競馬関係者も日々ここで働いているのは言うまでもない。
右も左もわからない新人騎手ははじめのうちはいずれかの厩舎にお世話になることになる。
まずは第一印象、挨拶が大事だ。大丈夫、この日のために鏡に向かって何度も練習してきた。
予習は完璧だ。
深呼吸をひとつして背筋を伸ばす。
「失礼し――」
「てめえ! もう一回言ってみろ田川!!」
横の馬房で怒声が響く。
見つからないように声のした方をそっと覗くと、老人と四十代くらいの男が相対していた。
「何度だって言ってやるよ!
駄馬にずっと乗ってやるほど俺はお人好しじゃねえて言ったんだ!
他にもっと良い騎乗依頼が来たから降りる。それだけだろうが!」
「てめえがまともに乗れてねえのを馬のせいにするんじゃねえ三流騎手が!」
「! なんだと……! てめえこそちゃんと走る馬仕上げて来い四流調教師!」
私の横を眼鏡の男性が慌てて駆ける。二人の間に入り、老人を押さえつけた。
「ちょ、ちょっとやめてください咲島先生! 田川さんも落ち着いて!」
咲島――。
あの老人が咲島調教師。
「離せ市口! こいつをぶん殴らんと気がすまん!」
「殴れるもんなら殴ってみろ! また謹慎くらってもいいならな!」
「上等だあ!」
二人の会話はヒートアップしていく。市口と呼ばれた仲裁役の男性は泣きそうな顔だ。
「ダメです! ダメ!! 絶対にダメ!!!」
どうしたものだろう。
仮に私があの喧嘩に混ざったところで状況は良くならないのは明らかだ。誰か他の大人を呼んで来るべきだろうか。
「……あのー……そのへんで――」
「いい加減にして!!」
いつの間にか背後に立っていた女性が一喝すると、さっきまでの喧騒が嘘のようにあたりはしんと静まり返った。
市口さんがようやくこちらに気づき、疲れた笑いを浮かべ頭を掻く。
「……はは、……いらっしゃい」
うーむ。
所属する厩舎を間違えたかもしれない。
馬房に隣接する家屋の客間に通された。正面には先程の老人、咲島先生が座っている。そのすぐ横には仲裁に入った市口さんいる。
しばらくすると後ろに髪をくくった綺麗な女性がお茶を運んできた。先程場を諌めた女性だ。
市口さんが気不味そうに話し始めた。
「……えっと、ここで調教助手をしてる市口です。
さっきは見苦しいところを見せてすまなかったね。驚いたでしょ」
「え? ……いや、元気な厩舎だなー、と」
角を立てないようにしたが我ながら苦しいフォローだ。
「いやー、しかしうちの厩舎に新人が入ってくるなんて、いつぶりだろう」
「猿江くん以来でしょ。つい最近じゃない。
――はい、青ちゃん。お茶で良かった? 」
「は、はい! ありがとうございます! ……えーっと――」
「私、みずきって言うの。よろしくね」
みずきさん。大人びて素敵な人だ。
「あー、……猿江くんかあ……」
市口さんは小さく呟き、一瞬隣の咲島先生に目配せした。先生は音を立てて茶を啜るだけだ。
「……猿江さんって、猿江騎手のことですか? でも猿江騎手って――」
「ああ、いまは栗東じゃなくて美浦にいる。ここに来てその……半年経たずに先生と喧嘩別れしてね」
私が所属する日本中央競馬会のトレーニングセンターは東西に各一箇所ある。西にあるのがいま私のいる滋賀県の栗東トレーニングセンター。そして東にあるのが茨城県の美浦トレーニングセンターだ。
騎手の希望などを汲み取り私たちはいづれかに所属することになるが、基本的に最初に所属するトレーニングセンターから移籍することは稀である。
「あんな奴は知らん」
先生は興味なさそうに呟いた。
横からみずきさんが語気を強めて割って入る。
「時代錯誤なのよお父さんは! そんなんだから馬を預けてくれる馬主さんも減ってカツカツなのよ!
猿江くんにだってあんなにきつく当たって」
「俺には俺のやり方がある」
「それが間違ってるって言ってるの!
だいたいあの時の有馬記念以来、重賞どころかOPクラスへも出走できてないじゃない」
「! 有馬記念! ノッキンオンハートですね!」
「え? ええ……」
咲島先生がこちらをじろりと睨む。
「……そういやお前、関東生まれのくせにわざわざうちの厩舎に来たのはそれが理由だって言ってたな」
「はい!」
「あいつはとっくに引退してるぞ」
「知ってます! でも種牡馬になってるからその子供たちがまたこの世界に入ってきますよね!」
「うちの厩舎に来る保証はないぞ」
「……え?……そうなんですか?」
「え?」
市口さんとみずきさんがまじまじとこちらを見る。咲島先生は虚を突かれた顔をした後、笑い出した。
市口さんとみずきさんの視線がそちらに移る。
「ははは! 久しぶりにこんな阿呆を見た。気に入ったぞ鳶島の娘」
「えっと……日鷹青です」
顔が熱くなっていくのが自分でもわかった。
インターホンが鳴る。
みずきさんそれに応えながら玄関へと向かった。
「! あら、猿江くん! 久しぶりね!」
玄関からみずきさんが驚く声が聞こえた。
猿江? 客間から玄関を覗くと小柄な男性が立っていた。二人にも聞こえたのだろう、市口さんも顔を覗かせた。
「猿江くん! どうしたの急に?」
「お久しぶりです。市口さん。みずきさん。
お元気そうで良かった。
結婚されたんですよね? これ、遅くなりましたけどどうぞ」
「あら、気を使わなくていいのに」
手に持った紙袋を渡し、猿江さんは明るく二人に挨拶した。喧嘩別れしたにしては穏やかだ。
しかし、咲島が現れるとその表情は変わった。
「……お久しぶりです咲島先生」
二十三歳。中央競馬は二月末が年度末になるので、現在六年目の騎手だ。積極的な騎乗を持ち味にすでに重賞勝ちも果たしている有望株である。
その騎手がいま目の前にいる。
「……なんの用だ。猿江。お前と話すことはないぞ」
咲島先生はぶっきらぼうに対応する。この人には愛想というものはないのだろうか。
猿江騎手はその言葉に肩を竦める。
「……じゃあ、短めに。
新人の子が入るらしいじゃないですか。
……その子ですか? 僕みたいに先生にいじめられるんじゃないかと心配で」
「ふん、そんなことを言うために栗東までわざわざ来たのか」
猿江騎手は首を横に振る。その口元には笑みを浮かべているが、作り笑いであることはすぐわかった。
「まさか。ついでですよ。
今週末に“チューリップ賞”が控えてるので早めにこっちに来たんです」
チューリップ賞。三歳牝馬のみが出場できる、格式高いクラシックレースの前哨戦だ。栗東からほど近い阪神競馬場で行われる。
「……テレフォンガールか。……馬は悪くない」
「よくご存知で。でも騎手も悪くないですよ。先生」
「口だけは昔から一丁前だな」
「口だけかどうかはレースを見て判断してくださいよ」
会話は淡々と進む。
「他には乗るのか?」
「ええ。有り難いことに依頼があるので。一レースと五レース、八レース、最後にメインの計四鞍です」
「――そうか。
それならちょうどいい。第一レースにうちの馬が出る。こいつのデビュー戦だ」
咲島先生がこちらを指差す。
「え?」
初耳である。
たしかにその日はデビュー日ではあるが、第一レースに出走する予定はない。サプライズは嫌いではないが、心臓に悪いのは勘弁願いたい。
「それはめでたいですね」
「怖いか?」
咲島先生は挑発するように猿江を見た。猿江騎手は無言で咲島先生を見つめる。
「……どういう意味です?」
「俺が認めた才能だ。
こいつの初勝利を観光ついでに見てって貰うことになる」
「……変わらないですね。先生。
たしかに彼女の実力は未知数だ。でも、レースに出たら新人なんて関係ない。全力で潰します」
猿江騎手の視線が鋭くこちらを捉える。
「……お、お手柔らかに……」
私は無理やり笑顔を作ってその視線に返す。
猿江は無言で振り返り帰ってしまった。
「あ、あの先生。私なにも聞いてないんですけど……」
「さっき騎乗予定の田川が乗らんと言ってきた。他に乗る奴を今から探しても間に合わん。
どうせその日は他に乗る予定があるんだ。一レース増えたところで変わらんだろ」
さっきの口論の相手か。レースが控えているのにこの人はなにを考えているのだ。
「おい、鳶島の娘」
「日鷹青です」
「こんなことで怖気づいてるようじゃあ底が知れるな。
――これはチャンスだ」
「…………“チャンス”……」
「レースひとつ乗るために並の騎手がどれだけ苦労するかまだ実感もなかろう。
いいか? 馬の乗り方ひとつで次の騎乗の有無が決まる。
なにもせずとも馬に乗れるデビュー戦なんてもんは所詮ご祝儀だ。下手くそに乗せる馬はここには一頭たりともいねえ。
これで食っていくつもりなら肝に銘じておけ」
「……は、はい!」
「じゃあ行くぞ」
「え? どこに?」
「決まってんだろ今度乗る馬のところだ」
言われるがまま先生の後を追った。
先程の馬房に戻ってきた。連れてこられたのは一頭の馬の前だ。
「ストロングフィズ。
三歳牝馬。ここまで三戦走って勝ちなし。最高で四着だ。
いままで芝を走ってきたが今回は初めてのダート挑戦になる」
咲島先生がストロングフィズの頭に手を近づけるとすんなりと頭を預けた。睫毛が長いきれいな顔立ちをしている。
「おい、
「うす」
ストロングフィズの直ぐ側に立つ生真面目そうな厩務員の若い男が答える。
「こいつが次のレースに乗る。この馬のことはお前が一番わかってるだろ。教えてやれ」
「うす」
咲島先生がそう言ってどこかへ消えた。二人取り残される。
「……えっと、日鷹青です。よろしくお願いします」
「……
あまりに短い自己紹介を終えると、生島さんはそのまままた馬の世話に移ってしまった。
「えっとー……、この子の――」
「ストロングフィズっす」
「そう、ストロングフィズのこと教えて欲しいんですけど……嫌じゃなければ」
私の言葉に生島は目を閉じた。こちらを無視、……してるわけではなくなにか考え事をしている。
「……フィズは不器用なんす」
「不器用?」
この馬が? あなたではなく?
「血統的には芝馬、それも短距離向きなんすけど、どうもズブいところがあって。ワンペースの先行が生きると思うんすよね。
三戦目の雨が降って芝が重かったレースが一番成績が良かったのもあって、じゃあダートに挑戦してみよう、と。……ずっと乗ってくれてた田川さんに乗ってほしかったんすけどね……」
そこで生島さんははっとしてこちらを振り向いた。
「い、いや、日鷹さんに乗ってもらうのが嫌とかそういうわけじゃないっす! 気分を害したら謝るっす!」
「そんな、気にしてないですよ!
どうせなら馬のことがわかってくれてる人に乗って欲しいですよね」
それは私も競馬学校時代にシングイットと共にレースを重ねてきたので痛感している。私はこの馬、ストロングフィズのことをなにも知らない。
彼女に目を合わせる。
上等だ。私の初レース、これがチャンスだというなら絶対に掴み取る。
「ちょっとしか時間ないけど、よろしくねフィズ」
彼女は二度目を瞬くと短く鳴いた。
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