第3話 嵐への巣立ち
「競馬の位置取りはスタートで九割方決まる」
倉教官の言葉が不意に頭をよぎる。
競馬はスタート地点にゲート、発馬機とも呼ばれる馬が横一列に待機する設備が用意されている。ここに入りスタートの合図を待つのだが、素直に待機してスタートしてくれる馬ばかりではない。ゲートの狭さを嫌がったり、果てには暴れたりする馬もいる。
当然ゲートをスムーズにこなせなければいいスタートを切ることはできない。
「今日は調子どうよ? シング」
この競馬学校で苦楽を共にした愛馬シングイットに小声で話しかける。競馬学校に所属している馬は元々中央競馬に登録されていた引退馬たちだ。
馬も人間と同じように当然いろいろな性格の子がいる。ゲート嫌いのこの子にはだいぶ苦労させられた。
ゲートに五頭の馬が揃いスターターの合図を待つ。
スタートは陸上で短距離をしていた頃にそれこそ何千回、何万回と切ってきた。だがいつまで経ってもこの瞬間というのは緊張する。しかも自分だけでなく馬という別の生き物と呼吸を合わせなければならないのだからなおのことだ。
手綱を強く握り直した。馬の鼓動が伝わり、シングイットとひとつになっていくような感覚になる。ゆっくりと息を吐き切り肺を空っぽにした。
息を止める。
発馬の瞬間に全神経を集中させた。
――いつでも来い。
ゲートが開く。
眼の前の景色が一気に広がった。両腕を使い一気にシングイットを押し出す。それに逆らうことなく彼は前に出た。
馬群から頭ひとつ抜け出す。
――やった。上手くいった。
ばらけたスタートになったなかで先頭を掴み取る。私を先頭に、愛、由比、長谷と続き最後方は一頭出遅れた番場だ。
苦々しい顔をする番場の顔が目に浮かぶ。
今回の模擬レースの条件はダート千七百メートル、左回り。そして馬場状態は良。
日本の中央競馬は走る地面の違いで芝とダートという大きな区別がある。芝は文字通り天然の芝生で、ダートは土、いや砂と言っても良いかもしれない代物だ。
砂浜を走ることを想像してもらえばわかると思うが、深い砂地であるダートを走るためには力がいる。そのため後方から差す展開に持って行くのが難しい。そして、走ることで蹴り上げられる砂は後続の馬に否応なくかかり、それを嫌がりやる気を損なう馬も少なくない。
そんなこともあり、ダートは前に位置取る馬が圧倒的に有利だ。
位置取りは完璧。後はシングイットにどれだけ気持ちよく走ってもらえるかだ。
今の私なら、できる。
「……上手くでたわね」
先頭に青、二馬身離れて由比、そこから半馬身離れて私が付いている形だ。今乗っている子は砂を被るのは苦にしないが、切れる脚を持っているわけではないのでなるべく良い位置につけたい。
先頭に青がいるのは想定外だが、由比のすぐ後ろにつけるのは予定通りだ。
私も彼と模擬レースでトップ争いをしてはいるが、同期のなかでは悔しいが彼が抜きん出て上手いことは認めざるを得ない。
この位置はラストスパート、その動き出しをしっかりと捉えることが出来る。
ここは我慢だ。
――早いな。
前で逃げる日鷹のペースが上がっている。後ろにつけるこちらの馬との差が僅かに広がっていた。
早仕掛けにしても早過ぎる。
日鷹が模擬レースにおいて先頭でレースを引っ張るのは初めてのことだ。いままでは他馬にペースを合わせていれば良かっただろうが、今回はそうはいかない。
ペースを作り、レースを支配しなければならないのは君だ、日鷹。
あれだけ見事なスタートを切ったのだ、よっぽど気合が入っているんだろう。
空回るほどに。
だが、僕もこの学生最後のレースに賭ける想いは同じだ。
「僕が勝つ」
レースは淀みなく進み、最終コーナーに迫る。
依然として先頭は私たちだ。
「よし……!」
最後のラストスパートの合図を出すために鞭を振ろうとしたその時、視界の右端にぬっと影が差す。
由比だ。
こっちの追い出しより一呼吸早く追い出し始めている。さらにすぐ後ろには愛が迫っていた。
慌てて鞭を入れる。
――仕掛けを間違った?
いや、そんなことはない。ここまでの展開はほぼ理想通りだった。
由比の乗る馬は鞭が入り、ぐんと伸びる。こちらの馬よりも脚色が良い。
――違う。シングイットの脚色が少し鈍い。
最後の仕掛けではない、ここまでのペース管理を間違えた。逸る気持ちに合わせてペースが想定より早くなってしまったのだ。最後の直線を走るための脚が十分に溜まっていない。
前方に由比が抜け出す。
すぐ後ろには今にもこちらを追い越そうと愛が迫っていた。
このままでは、負ける。
「……愛! 胸借りるわよ!」
「は?」
愛の馬にシングイットを寄せる。併せ馬の形だ。
「併せ馬」は調教においても用いられ、二頭の馬を併走させることによって闘争本能を引き出すことを目的としている。
競走馬の能力は、その脚力やスタミナだけではない。負けん気や最後まで粘る根性というのも重要な素養なのだ。
「シング! 最後なんだからかっこいいとこ見せてよ!」
「……っ! 舐めんな!」
愛も負けじと鞭を入れる。
二頭の四脚は力強く駆動し、じりじりと速度を上げた。由比の後方を捉える。
散々この子には振り回されてきたが、だからこそ負けん気ならこの馬は負けないことはよく知っている。
由比がこちらを一瞬振り向く。視線が交錯がした。
――絶対勝つ……!
シングイットが併せ馬から前に出る。愛を振り切りぐんと伸びた。
「由比! 邪魔よ!!」
「……舌を噛むよ、日鷹」
涼しい顔で由比は呟く。そして、いよいよその真横に並んだ。
ゴールまで残されたのは一ハロン(二百メートル)。およそ三十完歩。時間にして十二秒程度しかない。
思わず口角が緩む。慌てて唇を引き締め直した。
こんなひりつく瞬間を味わうことが出来るなんて、あの頃は思いもしなかった。
ありがとう、お父さん。
ゴール前、僅かに由比を躱す。
――勝った!
拳を握り天へと突き上げる。
速度をゆっくりと落としていく。シングイットの首筋を撫でると燃えるような熱さが伝わってきた。
これも今日で最後だ。
「ありがとう、シング。
私、絶対に今日を最高になんてしないから。ここでちゃんと見ててよ」
私の言葉にシングイットは短く鼻を鳴らした。
二着。
最後のレース、勝ちたかったが力及ばなかった。
脳裏に日鷹の表情が思い出される。
あの時、日鷹は笑っていた。決して余裕から出たものではないだろう。
「……まいったな」
背中を強く叩かれる。振り向くと四王天がいた。目にはうっすら涙が浮かんでいる。
「負けたくせにカッコつけてんじゃないわよ」
「カッコつけてるつもりはないよ。
……でも、君以外にも手強い相手が増えた」
「そんなこと言ってるとあいつ等にもそのうち痛い目にあわされるわよ」
四王天の指す先に番場と長谷がいた。
その眼光は鋭くこちらを捉えている。
「……ああ、失言だったね」
プロの舞台、また共に走るのが楽しみだ。
レースの興奮冷めやらぬ中、模擬レースの総合優勝の表彰が行われた。優勝者は大方の予想通り由比だった。
午後にはそのまま卒業式が執り行われる。
卒業式といってもここにいる五人は後生会えないわけではない。なんなら来月のレース、そのゲートで隣り合うことだって普通にある。
式は滞りなく進行し終わりが近づいていく。
「――続いて、日本騎手クラブを代表して、那須様より祝辞をいただきたいと思います」
その名前が出た時、場の空気が締まった。
私たちの視線がゆっくりと登壇してくる那須に注がれる。
「ただいまご紹介いただきました日本騎手クラブ代表
皆さん、本日は卒業おめでとうございます」
那須は顔に微笑みを浮かべて柔和に話始めた。
那須孝介。
日本競馬界の生ける伝説。若くして数多くのレースを総嘗めし、能力の足りない馬をも勝利に導くその手腕は誰が言い始めたか「魔術師」と称えられた。
そして、彼は私の父である鳶島大洋と競馬学校の同期でもある。
「――今、君たちの前には限りない可能性が広がっています。しかし、時にはそれが遮られ、迷ってしまうこともあるでしょう。
ですが、心配する事はありません。
雨雲の上では変わらず太陽が燃え続けているように、可能性が消えてなくなってしまうわけではないからです。
そこで大事になってくるのは晴れるのをただ立ち止まり待つのか、自ら晴れている場所へと歩を進めるのか、ということです」
そこで那須は言葉を切った。その表情から先程までの笑みが消える。弛緩しかけた会場の空気が再び張り詰めた。
「君たちの年、騎手養成課程に合格したのは三十人に一人。そして、今日ここに立っているのは合格した十二人の内、たった五人しかいない。
君たちはきっとこう思っていることだろう。
“自分は選ばれた特別な存在だ”、と。
……しかし、そんなことは決してない。
君たちも騎手となる以上、より高みのレースを目指すことになる。だが、満足に勝つことさえできずにターフを去る騎手などざらだ。
酷いと思うか? 可哀想だと思うか?
少しでもそんなことを思ったのならターフに立つ資格はない。いま席を立ちここから去るといい。
これから、君たちは残酷な世界で生きていく。
今日という日は順風満帆な船出ではなく、嵐への巣立ちだ。
それでもなお栄光を求めるならば、自ら困難を選び、誰も進まぬ道を往け!
――私からは以上。来月から競馬場で競えることを楽しみにしています」
そう言って那須はにこやかに祝辞を締めくくった。静まり返っていた会場から万雷の拍手が起こる。
卒業式が終わった。
外に出ると久しぶりの晴れ間が気持ちいい。
ぽつぽつと人が固まって話しているなか、那須の背中を見つけた。小走りで近づく。
「あ、あの!」
那須が振り返った。こちらの顔を見て、小さく右手を挙げる。
「! ……青」
聞き馴染みのある声がする。那須の背中越しに母がいるのに気付いた。
「! お母さん! 来てくれたの!」
「……こいつに呼ばれたから」
そう言って母は那須に視線を移した。それに気づき、那須は困ったような笑いを浮かべる。
「? 那須さんと知り合いだったの?」
「腐れ縁よ」
「手厳しいね。
――それはそうと卒業おめでとう、青ちゃん。
卒業模擬レース、見させてもらったよ」
「本当ですか!
どうでした? 初めて一番になったんです!」
「痺れるいい騎乗だったよ。最後の差し切りも見事だった」
「ありがとうございます!」
「……君は、本当に鳶島に似ているな」
「え? そうですか? 母似だってよく言われるんですけど」
首を小さく横に振り、那須は笑った。
「たしかに顔はお母さんに似て綺麗だ。
でもそういうことじゃない。勝負に対する嗅覚、それを実行する思い切りの良さっていうところが、さ。
……向こう見ずの危うさもね」
チラリと母の方に目配せするが、那須の背後で目を閉じて静かに話を聞いている。
「ま、君ならすぐに勝てるよ」
「! はい! 頑張ります!」
「青ー!」
少し離れたところで愛がこちらを呼ぶ。その周りには同期も集まっていた。
「すいません、ちょっと行ってきます!
すぐ戻るので!」
「慌てないでいいよ、お母さんと話してるから。
ごゆっくりどうぞ」
一度頭を下げ、愛のもとへ向かった。
青は同期たちとなにやら楽しそうに話している。
「いい子に育ったね。僕が青ちゃんを最後に見たのはまだハイハイの時だったっけ?」
鳶島みどりは那須を短く睨んだあと、わざとらしく息を吐いた。
「人の気も知らないで。……やっぱり、あの時止めるんだった」
「……止めれたの?」
みどりは那須をじっと見た後、横に顔を逸らす。
「……相変わらず意地の悪い質問するのね」
「違うよ。僕だったら止めれないなと思って」
みどりは空を仰ぎ見る。それにつられ、那須も空を見た。
「雲ひとつない、門出に相応しい良い天気だね」
「……きっと天国で怒ってるわ」
「あいつが? まさか。きっと喜んでるよ。
大洋はそういう男だ。君が一番よくわかってるだろ?」
「……わかんないことばっかりよ。……あんなに早く死んじゃうんだから」
青い蕾をつけた枝が風に揺れる。
今日新たに五人の騎手が嵐へと一歩踏み出した。
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