この筆が、これほどまでに脆いとは。

奈良ひさぎ

 最初は「小説が書けること」それ自体が嬉しかった。


 こんな自分でも、何か形のあるものを作り上げられるのだという事実は、僕を鼓舞するのに十分すぎるほどだった。


 嬉しくて、とにかく書き上げていった。よく読書に夢中になり寝食を忘れる、といった表現を見かけるが、僕の場合は小説執筆が私生活のあれやこれやをいくつか犠牲にしてきた。もちろん、死なない程度ではあったけれど、僕は今命を削ってこの作品を書き上げているんだ、と自覚して、それに酔っていた。


 見返りを求めるつもりはなかった。完成した原稿を眺めていると、それだけで満足できた。これだけのことを成し遂げたんだという証拠が、目の前にある。勉強でも仕事でも、これほどまでに分かりやすいものはそうそうない。


 しかしその「理想」は、ある日を境にあっさりと崩れ去った。


 きっかけは僕の小説についた熱心なコメント一つだった。そのコメントが悪いわけではない。むしろ良心100%のコメントなのだから、喜んで受け取るべきだ。実際、その時の僕は飛び上がるほど嬉しかったし、SNSで何度も擦ったし、印刷して額縁にでも入れて、部屋に飾りたいとすら思った。そういうコメントや反応を、これからも継続的にもらえるような物書きになりたい。僕はいつしか、そう思うようになった。そこから、僕の小説に対する姿勢は変わっていたのだ。


 承認欲求という言葉は、僕には無縁だと思っていた。小説を書く、作品を出すという行為を通じて、誰かに承認してもらおうという気はなかったし、そんな回りくどいことをしなくとも自分が一番自分の行いを褒められると思っていた。自分がどれだけ頑張ったかを理解できるのは、結局のところ自分が一番。承認欲求は自己完結できるという認識のはずだった。


 あれから、コメントや反応はぽつぽつ僕のもとに届いた。幸いなことに、誹謗中傷の類は来なかった。批判的なコメントは即削除して、メンタルに響かないようにすることを覚えたのもこの頃だった。もっと続きを書いてほしい、面白かった。そんな反応を見るたびに、僕の中に永遠に燃やし続けられる燃料がくべられてゆく心持ちだった。


 書いて、書いて、書いて。ひたすら書き上げた末に、ふと立ち止まってみると、反応が来なかった時に無性にむしゃくしゃしてしまうようになった自分に気づいた。以前は反応が来ないことの方が普通だったのに、いつしか自分の小説が面白くないんじゃないかとか、どこがおかしいんだろうと「間違い探し」をするようになってしまった。それでも、これが「承認欲求」なのだとは気づけなかった。なぜなら、本当に僕の小説には粗があったから。


 何年か書き続ければ、そんな明らかな粗も僕の小説から姿を消した。かつてのような丁寧すぎる推敲もしなくてよくなったし、自信をもって投稿することもできた。僕の小説の知名度はもう少し上がって、反応の数も増えた。面白い、と一言送ってくれるだけでも、とても嬉しかった。


 けれど、その反動が怖かった。たった一日や二日、何も反応が来なかっただけで、世界から隔絶された気分になってしまった。僕はいったいどこに向かっているのだろうと、方向性が定まらなくなった。もうこのまま一生誰にも見向きもされないんじゃないかと思うようになった。そこでようやく、僕にも「承認欲求」なるものがあったのだと、気づくことができた。しかしすでに手遅れだった。気づいたとしても、ではどうすればよいのか、まるで分からなかった。


 五日間、反応が来なかった。


 僕は一切の食べ物飲み物が、喉を通らなくなった。画面の前に張り付いて、「その時」を何度もリロードしながら待つことしかできなくなった。当然ながら、新しい反応を生み出すはずの小説にも手が付けられない。異常だと分かっていても、僕の精神状態ではそれをすることしかできなかった。


 そして、いつしか意識を失っていた。次に目が覚めた時には、何種類もの点滴を入れられた状態で病院のベッドの上に横たわっていた。意識障害が長く続いたせいで何かしらの後遺症があるかもしれないということを言われた気がするが、脳が上手く働かず、よく理解できなかった。けれど、暇な時間があれば動かしていたはずの手は、もう動かない。「小説を書く」ことがどういうことか、それ自体を忘れてしまったかのようだった。僕の頭の理解力は極端に低下していたけれど、一つだけ、はっきりと考えられることがあった。



小説を書くのなんて、やめよう


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この筆が、これほどまでに脆いとは。 奈良ひさぎ @RyotoNara

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