第四章 兎の見た空
***
「そうだ、値段決まってない……」
レジの前で、理穂は急に呟いた。困り顔で、フクロウの置物をじっと見つめている。
理穂はさっき、置物は今朝いきなり現れたと言っていた。この置物のことを忘れてしまったのも、つい昨日のことかもしれない。値段が分からないのも当然のことだ。
……だが、理穂はこのフクロウに、一体いくらの値を付けるのだろう。僕との思い出を失った彼女にとって、その置物はどれほど価値があるだろうか。
それを知ることはつまり、彼女の本音を聞いてしまうことであるような気がして、とても恐ろしく思えた。奏多は、彼女の次の一言を、
すると、理穂はカウンター越しに、フクロウを奏多に差し出しながら、申し訳なさそうに言った。
「あの……この置物の値段、決めてもらえませんか?」
奏多は言葉を失って固まった。
なんて、残酷な質問なんだ。心臓を掴まれたように、体の中心が重たく痛む。
それでも、恐る恐るフクロウを受け取り、掌で転がしながらじっと眺めた。
長い時間を経て、彼の手に帰ってきたフクロウ。
――――それは、教室で理穂に渡したあの瞬間から、驚くほど少しも変わっていなかった。後からついた傷も、汚れも、劣化すらも見当たらない。本当に、あの日のままのフクロウ。
その
それが痛いほど伝わってきてしまうから、余計に胸が締め付けられるのだ。
こんなの、値段なんか付けられるわけがない。お金なんかで計れる価値は、このフクロウにはないのだから。
苦しそうに小さく吐息を
「……ごめんなさい、分かりません。これの価値を決めるのは、私ではないから」
理穂に忘れられてしまった今、こんな不恰好な置物には、何の意味もない。
「いえ、こちらこそすみません、変なこと聞いちゃって」
そう言って、彼女は頭を下げて詫びると、再び、静かにフクロウとにらめっこを始めた。
人生で一番の勇気を振り絞って渡した、フクロウの置物。
ずっと大事にする……そう約束してくれた、あのフクロウを見つめながら、理穂は今、それに付ける値段を決めかねているのだ。
そう……ちょうど十年前の春だった。
これ以上ないほど考えて、悩んで、何週間もかけて作った
思えばあれが、まともに理穂と過ごした、最後の日々になってしまった。いつだって受け身で、内気で、
あの教室――誰もいない放課後の教室に、奏多は想いを馳せる。
そのときだった。
窓から飛び込んだ暖かい春の日差しが、目の前を明るく染め上げていく。
…………そうだ、あの時もちょうどこんな風に、
食い入るように、ただひとつフクロウを見つめ続ける理穂の顔が、斜めに差し込んだ光に照らされて輝く。あの時と同じ、凛としていて、透き通った瞳。セーラー服を着ていたあの日の理穂が、まるで目の前に戻ってきたような、そんな錯覚に
もしも、十年前に戻れるなら。
いや、たったひと月前にでも戻れたなら。
――――僕を忘れる前の君に会えたなら。
僕は二度と、君の手を離さないのに。
絶対に、君を失うようなことはしないのに。
……でも、それは叶わない。
もうあの幸せだった日々は戻ってこない。
ぎゅっと強く
ああ、僕は……
脳裏に鮮やかに映る、幸せそうに笑った――大切な理穂の姿。
彼女と同じ時間を生きられたことが、僕の何よりの幸せだった。明日また会える――それだけで、まだ明日を生きていたいと思えた。
どれだけ弱くても。どれほどみんなより劣っていても。
彼女がほんの少し笑いかけてくれる、ただそれだけで、自分を嫌いにならない勇気が持てた。
だから、今度は僕が、彼女をそばで支えていくんだと。彼女の明日をどこまでも見守り続けていくんだと、そう心に誓ったんだ。
たとえ、君と過ごした時間が消えてしまったとしても。
僕は……だから、僕は――――
心の中で、張り裂けるような想いが響く。
『まだ、君と一緒にいたい』
ゆっくり目を開いて、理穂の顔を見る。すると、彼女もまた顔を上げていた。
二人はその一瞬、お互いの心を見透かすように、真っ直ぐ瞳を見つめ合った。
……とても、長い一瞬だった。
そして次の瞬間、曇りない理穂の瞳から、一粒の涙がほろりと溢れて頬を伝う。
それはまるで
理穂が泣いている――いつもだったら、言葉に困って取り乱していただろう。しかし、その一粒の涙が、あまりに澄み切っていて美しかったものだから、奏多は思わず見入ってしまった。
まるで、美しい景色に出逢ったかのような。
幸せな夢から
だがすぐに我に返る。彼女の様子を伺うように、恐る恐る声をかけた。
「大丈夫……ですか?」
理穂は尋ねられるまで、呆然として立ち尽くしていた。
だが奏多の不安げな声を聞いて、初めて自分の頬が濡れていることに気づき、驚いた表情を見せる。
「す、すみません……大丈夫です」
自分がなぜ泣いているのか分からずに困惑していた。慌てて何度も、両手の
しかし、落ち着いてからもう一度、手の中のフクロウに向き合った。それから何かを心に決めたように、小さく、確かに
そして、独り言でも
「……やっぱり、売らないでおきます」
理穂の言葉を、すぐには理解できなかった。
どうして、急にそんなこと……奏多が問い返そうとしたのと同時に、理穂はまた、自分を語るように続けて言った。
「もう少し、この置物を眺めていたいなって————そう思うので」
なかなか、言葉が見つからなかった。
たぶん、彼のことを思い出したわけではないのだろう。その言い方からして、このフクロウの思い出が蘇ったわけでもないのだろう。
だが、フクロウを握る理穂の手は、先刻よりも遥かに温かく、想いに
まるで――大事な人を、抱きしめているかのように。
「……分かりました」
今はもう、それだけでいい。ほんの少しでも長く、理穂がそれを大事に持っていてくれるのなら。
どこまでも自分勝手な考えだけど――僕という人間が、彼女の隣にいたことの証を、僕は今、何よりも大切にしたい。
「ごめんなさい、わがまま言ってしまって」
頭を下げる理穂に、奏多は首を振る。
謝る必要なんかどこにもないんだ。それの価値を決められるのは、君しかいないんだから。
奏多はゆっくりと深呼吸をする。
――――うん、これでいい。
気を取り直すように、空元気で明るい声を出した。
「それじゃ代わりに、何かいただこうかな」
「はい!何にしましょうか?」
奏多の声色につられたのか、まだ少し眼の赤い理穂も、元気な声で返す。
「そうですね……」
店内をぐるりと見渡す。
何か代わりにと言ったはいいものの、この店にあるもので、僕が欲しいものってなんだろう。もともと今日は、何かを買いに来たわけではない。必要としているものも、こんな今となっては、特に思いつかなかった。
不意に、またあのフクロウに目線が向く。
僕がこれまで、自分で買ったり誰かから貰ったりしたなかで、一番嬉しかったもの……。
それなら、僕が一番欲しいものは――――。
彼女に向き直ると、奏多はにっこりと微笑んでみせた。
「————じゃあ、選んでもらえませんか」
「……え?」
想像もしていなかった返しだったのだろう。理穂は拍子抜けしたように声を漏らした。やがて、不安そうに控えめな声で問い返した。
「……私が選んでいいんですか?でも、親友さんへのプレゼントをお探しなんじゃ……」
「ああ、いえ、そうじゃなくて————私のために」
「ご自身へのプレゼント、ですか?」
奏多は頷いてみせる。
彼女が選んだもの――それがこの店で、彼が一番欲しいものだった。
でもせっかくだから……。
「何か、長く使えそうなものをお願いします」
彼女はしばらく悩んでいた。フクロウの他にも、記憶を失っている商品があったっておかしくはない。今の彼女には、すべての商品を完全に把握することは難しいのだろう。時折店内に目を
すると突然、
「————そうだ!」
声を上げたかと思えば、小走りで奏多の横を抜けて、店内のある一角から何やら商品を持って戻ってきた。綺麗な石を見つけた子どものような無邪気さで、それを両手で彼に差し出す。
それは、白いマグカップ。
以前から理穂が愛用しているものによく似ていた。カウンターの上に置かれた、彼女のマグカップに目を向ける。会いに来たとき、決まって彼女は、あのマグカップでカフェオレを飲んでいた。
たしかに、ずっと使えるものだ。理穂らしい、素敵な選択。……理穂とお揃いというのも、密かに心が弾む理由だった。
しかし、奏多が見ていたのは、柄が描かれていない裏側だった。
何気なくマグカップを回して、表面に描かれたものを見たとき、ドクンと大きく心臓が拍を打った。じわりと全身が熱くなる。
どうして――――。
言葉を失いながらも、何とか絞り出すように
「…………ウサギ、ですか」
一羽の白いウサギ。一輪の花をその口に
ウサギ……それは奏多にとって特別な意味を持つもの。
「……なぜ、ウサギなんですか」
理穂は答えに詰まっている様子だったが、たどたどしくも、言葉を
「……うーん、どうしてかって訊かれると難しいんですよね……なんとなく、これがいいなって思ったっていうか」
そして、理穂は真っ直ぐに、奏多の瞳の奥を見つめながら言う。
「ちょっと気弱そうなところとか、ご親友のために真剣にプレゼントを探す優しいところとか、ウサギさんみたいだなって」
「…………」
今度こそ、何も言葉が見つからなかった。
……なんだよ、それ。
『私、ずっと思ってたんだよね。ちょっと気弱なところとか、――こうやって私のために一所懸命作ってくれる優しいところとか、ウサギさんみたいだなって』
あの日の理穂の言葉が鮮明に、頭の中でこだまする。
――――あのときと、同じじゃないか。
目頭が熱くなる。視界が滲んでぼやけた。
感情の波を追いかけるように、今までに貰った理穂の声が次々と、走馬灯のごとく蘇る。
『おはよう、奏多!学校まで一緒に行こ!』
『なに読んでるの?私にも見せて!』
『あっ、また休み時間に一人でいる……暇なら一緒にお話ししよ!』
ずるいよ、そんなの。
『ねぇねぇ、今度の週末どっか遊びに行こうよー』
『大丈夫、奏多ならできるって!一緒に頑張るから!』
『――――なんか、奏多が笑ってるところ、久しぶりに見た気がする』
…………君は、僕を忘れたっていうのに。
『あっ、奏多!こっちこっち!』
『奏多はさぁ……』
『あれ、奏多?』
『奏多!』
『ねぇ、奏多』
僕は…………
『ありがとね。大事にする、ずっと』
僕は、こんなにも君を憶えてるというのに。
「…………」
……そういうところなんだ、僕が君を好きだったのは。
幼馴染だからじゃない。特別に仲良くしてくれたからじゃない。
そういう、君の真っ直ぐなところなんだよ。
僕のことを正面から見つめてくれる、そんな君の温かさだったんだよ。
ぽろぽろと止めどなく涙を落とす彼の姿に、理穂は動揺して必死に声をかけた。
「ご、ごめんなさい!!悪く言ったつもりはまったくなくてっ」
「……いえ、違うんです。これは違くて……」
喉に涙が詰まって、うまく声が出ない。
理穂もかける言葉に迷って何も言えずにいた。店内には、彼の泣く音だけが静かに響く。
胸に手を当てて、気持ちを落ち着かせる。
それから顔を上げて、奏多は理穂に向き直った。精一杯、彼女に笑ってみせる。
それは、ずっと言えずにいた言葉。
心の中で、何度も伝えようとした言葉。
「…………ありがとう。本当に」
なんで、もっと早く言葉にしなかったんだろう。
一緒に遊んでくれたとき。
一緒に登校してくれたとき。
好きな本について聞いてくれたとき。
放課後に宿題を教えてもらったとき。
独りでいるところに声をかけてくれたとき。
あの日、真っ先に電話をしてくれたとき。
…………あのウサギを、君がくれたとき。
どうして、その場で言えなかったんだろう。
僕が、僕であるうちに。
一度でも、自分の本音を、自分の言葉で君に伝えることができていたなら、もっと違っていたのだろうか。僕が素直になれていたなら、君は今も、僕を僕として……たった一人の幼馴染として、見つめてくれていたのだろうか。
君が大切だってこと、君が必要なんだってこと――君は今、知ってくれていたのだろうか。
さっきより少し暗く見える彼女の髪が、奏多の心をくすぐるように、微かに揺れていた。
***
「その紙袋――ご親友へのプレゼントですか?」
ラッピングしたマグカップを手渡しながら、理穂は尋ねる。
奏多は自分の手元に目を落とした。
「ああ、これですか……これは————」
こんなことがあったからつい忘れかけていたが、今日は理穂の誕生日だ。
……しかし、理穂自身は、いつもと変わった様子はない。今日が誕生日だということを、理穂は憶えているのだろうか。
持ち帰って、一人で食べる気持ちにはなれなかった。このまま捨ててしまうのも心が痛む。とはいえ、今日はあなたの誕生日だからケーキを買ってきました、なんて言えるわけもなく、奏多は返しに詰まってしまった。
「…………いえ、これはただのお菓子です。気まぐれに買っただけで」
でもこれは理穂のために用意したケーキだ。
だからやっぱり……。
「よかったら、食べてください」
「え? いやいやそんな、いただけませんよ!」
「いいんです。これを選んでくれたお礼と思ってください」
渋る彼女に、わざとらしくマグカップを胸の前に掲げてみせた。その様子が少しおかしかったのか、観念したように口元にちょっとだけ笑みをこぼすと、彼女はぺこりとお辞儀をした。
「じゃあ、お言葉に甘えて——美味しくいただきますね」
言いながら、照れたような可愛らしい笑顔を見せた。
しかし、奏多が背を向けて出口に向かおうとしたとき、再び引き留めるように彼に尋ねる。
「あれ、それじゃご親友のプレゼントは……」
「ああ、そうですね……」
プレゼント、か……。
自分が今までに贈った、一番想いを込めたプレゼント。それは何週間もかけて、相手のことを想いながら、この手で作り上げたもの。
「————自分で、作ろうと思います。そのフクロウみたいなやつを」
彼女はふふっと笑う。
それから、彼の背中越しに語りかけた。
それは他意のない純粋な感想だったが、彼にとっては、何より大きな意味を持つ言葉だった。
「そんなに真剣に想ってもらえるなんて————そのご親友は幸せですね」
不意に呼吸が詰まる。ああ、その親友というのは……。
だけど、もし君がそう思ってくれたなら。
彼女には届かないくらいの微かな声で、奏多は宛名のない本音を床に落とした。
「幸せだったのは、僕の方だよ――――理穂」
想いを後ろに隠すように、奏多はくるりと振り返る。そして深く頭を下げて、精一杯の笑顔で応えた。
さようなら、理穂。これから、よろしくね。
「また、来ます」
「はい!お待ちしています!」
傾きかけた春の日差しは、物語の終わりを
小さな一歩を踏み出したウサギを見守りながら、
<了>
梟の見た夢 亥之子餅。 @ockeys_monologues
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