やきつき

@qwegat

本文

 それは無骨な茶色の棒きれだった。

 というのが、私の第一印象だ。

 私はソファに沈み込んでいて、視線が向くのは机の上の、父が棒きれを掲げる右手。目の前の光景を大雑把に見て「無骨な茶色の棒きれだ」という認識をとりあえず確立した私は、次に細部に目を向けた。

 よく見ればその棒きれは、茶色と言っても無地ではなく、表面に木目らしきものがみとめられた。いっけん運動靴にこびりついた砂汚れみたいに無秩序だというのに、どこかに法則を隠しているような雰囲気もわずかに纏った、濃い茶色と薄い茶色が織りなす、木材か竹材かの繊維模様。いや――きっと竹だろう、と私は思った。理由などまるでなかったけれど、私の乏しい経験と、それに裏打ちされた未成熟な直感は、この棒はきっと竹でできているのだと思った。

 よく見ればその棒きれは、単に棒きれと言い切るには歪みすぎていた。シルエットだけ見れば素朴な細長い円柱形だったけれど、五十センチに満たない全長を分割するような形でいくつか盛り上がった部分があって、別の言い方をすればそれは『節目』だった。それぞれの節目たちは平行と言い切れない程度に傾いていて、節目と節目の間の盛り上がっていない部分にしても、まったく平坦というわけではなく、微かな膨らみが見て取れた。

 よく見ればその棒きれは、無骨な割にはなめらかだった。窓枠をくぐって訪れた太陽光が茶色に上塗りした白色の光沢は、ざらついた粗い竹材にはありえないような、むしろ澄み渡った湖の水面に浮かぶような印象を私に与えた。棒きれの手触りを想像した私の右手に、以前母の買い物についていったときに青果売り場で触った、みずみずしい紅のりんごがすとんと落ちて、すぐに消えた。

「これは?」

 無骨というほど無骨でない気もしてきた棒きれを摘まんだまま、無骨も無骨な父の手指が、回転した。手首を軸に返された右手は、掌底に走る無数の土色の皺を私の視界から奪い去り、代わりに手の甲に走る皺をみせた。とうぜん、棒きれも同時に回転する。というより――単に、裏返る。

「笛だよ」

 裏返った棒きれの反対側には、いくつもの孔が並んでいた。

 父の言葉でようやく私は、その棒きれが棒きれではなく、一つの道具であるのだと知った。


 コンピュータ室の照明は強い。

 基本的な構図としては――金属製の長机がいくつも連結されたものが、さらに教室全体のスペースを使って何列も並べられている、ということになる。机たちの上には等間隔で液晶モニタが配置されており、それぞれのモニタの手前にはキーボードとマウスパッドが、横にはデスクトップ・コンピュータのケースが鎮座している。コンピュータの性能がどうかは知らないけれど、クラスメイトのオタクが「ミジンコ」という言葉を比喩に使っていた記憶はある。まあ、それはいい。

 モニタは縦に長く、机は横に長く、並べられたキャスター付きの椅子は縦横に長い。コンピュータ室はごちそうの後の流し台のごとくモノだらけで、だから照明が強いとは言っても、天井のLEDが強調するのはむしろ影だ。モニターの影、机の影、椅子の影。そいつらが覆い隠す教室の隅、薄闇と薄埃に囲まれた収納空間には、様々な秘密の道具が隠されているという。「ミジンコより多少まし」なゲーミングノート。誰が使っているのかわからないペンタブレット。脱色して久しい応年物のシンセサイザ。

 そして……王者。かつて大幅に予算を余らせたコンピュータ部が適当に購入したとされる、すでに廃盤となった3Dプリンター。そいつを密かに操る暗躍者が、この学校には潜んでいる。表向きには「ミジンコ」の山、何かを作ってやろうという意思を持つやつはまず寄り付かないようなコンピュータ室を、独り占めする人物がいる。

 以上は全て受け売りだけれど、件の『暗躍者』本人が私の目前で腕組みをしているのも、紛れもない事実ではある。

「……まず、どうして私を頼ろうと思った?」

 数秒間の沈黙の末に、そんな言葉を私に返した、先輩の目元を見上げれば――整った細い眉は明らかに吊り上がっていたし、鋭い白色光を跳ね返している瞳の奥にも、これ見よがしな『迷惑』の色がみられた。というか、顔を見るまでもない。彼女が私にそう聞いたときの声色からして、いかにも不満そうな調子のものだったのだ。

 こいつはまずいぞ、と私は思った。

「と……友達に、聞いたんです。コンピュータ部の先輩に、3Dプリンターでで小物を作ってもらったって」

 場当たり的に質問に答えながら、場当たり的に質問に答えていることを後悔した。先輩から私への印象は、今のところ、肯定的なものとは言えなさそうだ。それだけなら私一人の問題だけど、私を紹介したオタクの印象までつられて下がってしまったら……どうしよう。困る。失敗だ。

「……どの一年が漏らしたんだ……?」

 だから先輩の呟きを聞いて、『友達』が誰かが特定されることはなさそうだとわかり、私は心中で安堵の息を落とした。しかし――安堵をするような状況ではない。何も解決していないのだ。

 とりあえず――まずは、謝らなくちゃ。

 改めて先輩に向き直る。どくどく響いている自分の心音を何とか体の内に留め、言う。

「その……作業の邪魔をしてしまってごめんなさい、先輩。自分勝手に……」

「まあ待て」

 しかし、彼女の言葉がそれを制した。

 びっくりした私が俯いていた顔を上げると、先輩は――その唇を優しく結び、僅かにとは言え微笑んでいた。口が再び開かれる。

「確かに邪魔じゃなかったとは言わないし、どうでもいい頼み事なら君をこの部屋から叩き出している状況だ。けど……それはそれとして、君がした提案はなかなか興味深い」

 その語り口は、意外なほどに温かいもので。

「……『3Dプリンターで楽器を再現したい』? 確かに……笛のような固定された構造だけで音を出すタイプの楽器なら、十分に実現できるアイデアだ。興味深い」

 長机に納まっていたキャスター椅子の一つが、先輩の手によってごろごろと引き出される。

「座りなよ一年、詳しく聞きたい」

「は、はいっ」

 引き出された椅子が床の上、慣性に従ってきゅらきゅらと、合成繊維の座面を緩やかに回していくのを見て――私は心音の残響を感じながら、ひとまず彼女にそう答えた!


「このあいだ調査に行った――」父は見知らぬカタカナの羅列を口にした。「――という国のとある地域で、伝統文化として引き継がれてきたものらしい。せっかくだから個人的に、現地の方にひとつ作ってもらったんだ」

 父はなんだかなんていうか学者で、難しい文化だの芸術だのの調査のため、いつも世界中を飛び回っている。いつも世界中を飛び回っているから、私と父がこうして面と向かって話す機会は、たぶん、同年代の他の子よりも少なめのはずだ。

 その事実に寂しくなることもあるけれど、基本的に、私はけっこう満足している。父と会える時間は確かに少ないけれど、その分――。

「どれ、実際に吹いてみせよう。……けっこうコツがいるんだ、習得には苦労したよ」

 こうして、お土産を持ってきてくれるから。

 言葉とともに――笛の先端がおもむろに、父の口元へと運ばれる。父は同時に立ち上がりもして、視界の隅にて短い影が、テーブルの角のあたりをすこし横切るのが見えた。

 自然と視線が上に向く。伸ばされた口ひげを一瞬だけ見たあと、軽く押し当てられた吹き穴から、歪んだ円柱の輪郭をたどって進む。そして例のいくつもの孔のうち数個が、父の片手の太い指先で、押さえつけられている、のを見て止まる。

 ぴゅう。

 第一の音が聞こえ始めた瞬間、直感的に目を瞑る。なんとなく――そっちの方がいい気がした。

 ぴぃ、ひょろろ、ひゅう。

 その直感は、どうやら正しくて。

 第二、第三の音たちが、瞼の裏に光景を描く。知らない異国の知らない土地。なにかの儀式で踊る人々。旋律と名付けられた細糸の操り人形。もしも角膜を空気にさらしたままなら、こんなことにはならなかったはずだ。父の厳かな立ち姿が、柔らかい光に薄く陰影を描かれながら、粛々と笛のを産んでいるだけだったはずだ。

 ひゅるる、ひゅるるる、ぴ、ぴろろ。

 けれども目玉を縛ったからこそ、私の世界は耳だけになり、父が座って奏でる音色と、装束着た演奏家の音色が、重なった。同じになった。幼い脳の中ではそうだった。束ねられた風音が穏やかな心音の周囲を旋回する体験は、はじめて、だった。

 目を見開けば全てが消えた。奇怪な配色の彫像が、音色と共に進む静かな葬儀が、意味もなく飛び立つ小鳥が散っていった。残るのはただ、父だった。しかし私は幻滅などせず、むしろ彼が咥えたその笛が、間違いなく、魔法の道具だと確信したのだ。


「シャクハチ類の一種ということになるな」

 私の証言が一区切りまで行ったところで、先輩は顎に手を当てて言った。

 その視線は、モニタに開かれたウィキペディアを向いている。

「筒状、側面に孔、縦に持って吹く、木または竹でできている。まずこのあたりから木管楽器であることは間違いない。そして孔が開いていない側から見ると棒切れでしかないというからには、あからさまな吹き口フィップルが備わっていないということになる。当然ながらリードもない」

 けっきょく喋っている内容はウィキペディアの受け売りでしかないはずなのだけれど、先輩の透明感ある声で紡がれるとなんとなく、途方もない経験に裏打ちされた蘊蓄であるかのように感じられもした。

「実際……民族楽器にはよくある種の笛だ。君が想像したという舞踏だの儀式だのの光景はちょっとステレオタイプすぎるきらいがあるけど、そういう場面で使われてもおかしくない。とはいえ国名がわからないのか……」

 先輩がカチカチとマウスを鳴らすのに合わせ、ウィキペディアが別のウィキペディアへと遷移する。

「竹製というところから絞れるだろうか……しかし竹の植生分布は、世界的に言っても広い。そもそも竹でできているとする根拠は、幼い君の直感だけだ。……そういえば、一枚だけ写真があるとか言っていたね。見せてくれ」

「あ、はい。これです」

 私がプリント紙を差し出したところ、先輩はモニタの方に向けていた椅子をぐるりと半回転させ、長髪が靡いて乱れるのを気にもせず、指で写真を摘んで受け取り、もう半回転して元の向きに戻った。写真を睨み、一言呟く。

「粗いな」

 私は俯いた。

 強い照明がくっきりと描き出した影が、床の木目の濃淡の上で引き伸ばされているのが見える。

「すみません……古い記念写真にたまたま写り込んだやつしか見つからなくて」

「いや、責めるつもりはないさ。……そうだな、粗いとはいえ孔の数くらいはわかる。ネットで検索すれば、この笛そのものとは言わずとも、ある程度近い楽器が見つかるはずだ。……アフリカあたりのやつだな。よし」

 先輩は両手をひとつ、大きな音を立てて叩いた。

 コンピュータ室の入り組んだ立体構造を、ぱん、という乾いた音が反響していく。

「とりあえず、その楽器を一度プリントしてみようじゃないか」


 ぴいぴいががが、ぴいががが。

 ぴががが、ががが、ぴぴぴぴいががが。

 ががが、ぴ、ががが。

 ぴ。

 沈黙。

 ぴがががががぴががぴいぴががぴぴぴびいびいびびがががぴ。

 ういん。

 そういう感じだ。

 ずんぐりむっくりなその外見。かつては未来的な輝きを放っていたであろう、剥がれ色あせたメタリック塗装。そういうものを恥ずかしげもなく晒しながら、3Dプリンターは私たちの目の前で、ガラス製の小窓から覗ける内部で、プリントヘッドによる舞踏を演じている。絶え間なく上がり続ける機械音はさながら劇伴、フィラメントが吐き出されていくプラットフォームの平らな板面は、オペラ劇場の舞台のようだ。

 本で読んだものをそのまま引いたような、こじゃれた比喩で着飾ってみても、結局ぴがががが耳に刺さるだけだ。聞くに――この3Dプリンターは型落ち品だけれど、ハードウェア的な性能は現在の市販品と大して変わらないという。3Dプリンターのパーツの成長はそろそろ天井が近づいているため、ソフトウェア的な側面から精度や速度の向上を図ったり、あるいは材料を多様にするような向きのほうが、現状のトレンドに近いから――と先輩は、暇そうにコンソールをにらみながら教えてくれた。最新のOSSをあれしてあれするだけで性能的にはあれだ、という辺りはよくわからなかった。

 まあ要するに、精度的には申し分ない、ということなのだろう。

 ががが、がが、ががが。

 ぴぴぴが、ぴ。

 ぷつり。

 何となく不安になる機械音。それを最後に、コンピュータ室には沈黙が舞い戻った。

「終わったらしい」

 先輩は飽き飽きという感じに息を一つ落としたあと、3Dプリンターを置いた机に近づいて、手慣れた動作でその前面の扉を開けた。フィラメントのくずがプラットフォームの上で、少し舞う。私はちょっとした出来心から、先ほどまで先輩の後頭部に遮られて見えなかった、彼女の覗いていたモニタをちらりと見る。かわいらしい猫の画像の断片らしきものが意識にふっと浮かび上がリ、瞬間、視線を戻す。このことは忘れようと思った。

 私の罪悪感を知りもせず、先輩が成果物を掲げて言う。

「完成だ」

 それは棒きれだった。

 しかし、明らかにそれだけではなかった。

 棒切れというのは形状だけの話で、その表面は乳白色の何かの樹脂でできており、どこか軽薄な光沢を纏って、天井のほうを向いていた。

「今回は口に当てて演奏する楽器ということで、最近出た素材を使った。パッケージに『殺菌すれば舐めても毒性がありません』と書いてあるのが特徴だ」

「え、逆にそれ以外のフィラメントって全部毒性があるんですか?」

「あるとは限らない。しかしパッケージに書いていないから、ないとも同様に限らないのさ」

 瞳の色がやたら皮肉げだった。

「……いや、それはいいんだ。とりあえず、適当に演奏してみるぞ」

 言うと先輩は掲げていた笛をいったん下ろし、両手の指で包むように持った。同じ孔を押さえるタイプの楽器でも、例えば中学校で使ったリコーダーとは、ずいぶんと勝手が違うらしい。先輩は細くしなやかな指々を伸ばすと、それぞれの孔にあてがって、押さえたり、押さえなかったりする。そして――無機質な筒の先端を、くちびるの艶めきに触れさせる。

 第一の音が上がる。

 3Dプリンターの混沌極まる機械音から生まれ落ちた笛にしては、透き通りすぎているんじゃないか。奏でられた甲高い長音を耳にしたら、そう思わずにはいられなかった。

 第二、第三と、指の組み方を変えながら、先輩はいとも簡単に演奏を続けていく。試しに目を閉じたりメロディを追いかけたりしてみながら、私はそれを粛々と享受する。カオスな駆動音が産んだ偽物の伝統が、清廉な音律で嘘をつく――空気と音色の交織のような、あたたかく、やわらかい時間。

 が突如止まる。

「どうだ?」

 笛から口先を離した先輩が尋ねる。

「だめですね」

 私は控えめに首を振った。

「演奏としては申し分ないんですけど……こう、再現としてみると何かが違う、というか。想像力を掻き立てる感じがしないというか。音色の感じもそうなんですけど……それよりもっと前のところに何か……いやでも……」

 悩みを募らせる私の上身に影を落としながら、先輩が両腕を組む。細く開いた瞳で私の顔ではないどこかをしばらく見つめた後、こう呟いた。

「……音階かな。よし、次に行こう」

 すごく力強い言葉だった。


 それから何週間もの間、私と先輩は放課後のコンピュータ室で、笛の試作をただただ続けた。

 まずは現実にある笛の3Dモデルをいくつか作り、それぞれプリントして試した。試した笛の中で一番音色が似ているものの3Dモデルを改造する路線に入ったのが、試作七号のあたり。特製の倍音構成操作プログラムだかで穴の位置や吹き穴の形状をカスタマイズしていき、十二号まで来たところで、それまでの笛より旋律がしっくりくる感覚があった。

「やっぱり音階だ」

 先輩は言った。何でも民族楽器には、その地域における伝統音楽の作法上の兼ね合いか、あるいは単に構造の問題か、または両者が影響し合っているかで、私たちが普段触れるのとは別のドレミファソラシドを採用しているケースが多いという。音階を元に楽器が作られた地域まで絞り出すことを目論んでいたようだけれど、どうも変則的すぎて断念したらしい。

「遺伝的アルゴリズムでいく」

 十四号の時に先輩はそういうと、例の隠されたゲーミングノートを掘りだしてきて、年月そのものが塊になったかのような埃たちをそこら中に散らしながら、けっこう長いプログラムを書いた。ここまでに判明している条件を元に候補となりそうな笛の形状を提案して、そこに私の主観による評価を下させることで、更に精度の高いモデルを生成する仕組みらしい。特定の空洞を通った空気がどんな音を出すのか演算するアルゴリズムが大変だった、と汗を拭いていた。

 以降、このプログラムを回しまくる。最近のフィラメントは再利用も可能だということで、私たちは笛を作っては、数音だけ奏でてすぐ溶かすことを繰り返した。増えては増える笛の山から一つを取って弄ぶ私の横で、先輩はプログラムを微調整しつつ、高速フーリエ変換とか有限差分時間領域法とか格子ボルツマン法とか、そんな話ばかりしていた。内容を一つも理解しないまま、私はそれらの技術が結んだ、一本の、奇跡の棒を手慰みにした。

 二十八号で、かつて父の演奏が脳裏に描いた映像に似たものの片鱗を少し感じた。これはあるぞと私は思って、五つあるうち最高の評価をつけるボタンを押した。

 三十七号で、形状がかなりそれらしくなった。節目があるし、ちゃんと歪に湾曲している。目隠しして触ればもはや竹だろうとやってみたけど、表面がすべすべしすぎていてそうでもないのが、何だか、むしろ可笑しかった。

 四十二号を聞いたとき、明日には完成するなと思った。


「また、面白い道具を持ってきてよ」

 玄関口へと私は言った。外套に身を包み、その身で外から差した日光に逆行を作る父の輪郭は、

「もちろんだとも」

 とだけ言って、色々な宝物を詰められたバッグを携え、自然と閉まりゆくドアの隙間ごしに、後ろ姿をちいさくしていった。

 私はそれをいつまでも見つめていた。


 放課後、直行、コンピュータ室。

 当然のように先輩は先客で、すでにぴががががを鳴らし終えており、一本の笛を掲げて見せた。試作四十三号だ。四十二号とはもうほとんど外見的な差異がわからないけど、先輩がいうには結構違うらしい。判定機である私自身すらわからないところまで、細部の作り込みは進行していた。

 先輩が回転椅子に気だるげに座って、いつもと全く同じ調子で、くちびるに笛の先端をあてる。

 ぴゅう。

 第一の音が聞こえる前から、目なんてとっくに瞑っていた。

 左右それぞれの耳に飛び込んだ試作四十三号の音色が、脳の中身のどこかで混ざり、瞼の裏に横たわり続けていた暗闇を退しりぞかせる。創作物の中の魔術師の、携え振ったステッキが描く、光輝の軌跡が大気を裂くように――幼い私が父の演奏に、確かな魔法を感じたように。耳だけになった外界の私が、連想した幻想を描き出す。

 ぴぃ、ひょろろ、ひゅう。

 第二、第三の音たちが、瞼の裏に光景を描く。知らない異国の知らない土地。なにかの儀式で踊る人々。旋律と名付けられた細糸の操り人形。

 どこにも父の姿は見えない。

 あまりにも当たり前な話なのだ。

 ひゅるる、ひゅるるる、ぴ、ぴろろ。

 奇怪な配色の彫像。音色と共に進む静かな葬儀。意味もなく飛び立つ小鳥。見えないものが見える魔法の笛が、いくら脳裏で火花を咲かせても、父については結局のところ、見えないものが、見えないだけだった。

 本当は最初から分かっていたのだ。

 ただ、きっと――折り合いを付けたかっただけだ。

 彼の死に。

 私は両眼を見開いた。視界が世界を確定させる。柔らか極まるソファかもしれないものは、合成繊維のキャスター椅子に変わり。職人技が産んだ伝統の笛かもしれないものは、冷たいフィラメントの塊に変わり。――立ち上がった父かもしれないものは、椅子に座った先輩へと変わる。私の眼差しに何かを察しとったのか、先輩は、演奏をいったん中止した。その瞳を見る。自称によれば「好奇心だけ」でここまで付き合ってくれた、最高の協力者と視線を合わせる。

「どうした? ……笛の音色はこれでいいのか? それとも、まだ改善点が……」

「……いえ、これで大丈夫です。あと先輩」

 どくどく響いている自分の心音を何とか体の内に留め、言う。

「私、コンピュータ部に入りたいです」

 私の決死の告白に、先輩は――。

「……なんだ、まだ入ってなかったのか」

 呆れたようなからかうような表情でそういって、無意味に椅子を回らせるのだった。

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