日常は奇々怪々に塗れている。
千羽 一鷹
其の壱 「宵列車」
私の故郷は東北の山奥にある小さな農村でした。
高校時代、私は同県の都市部にある公立高校に通っていました。
野球部に入っていた私は辺りが暗くなるまで練習をして、電車で帰るという日常を送っていました。
そんなある日のことです。
その日も私は遅くまで残って練習をしていました。
練習試合が迫ってきていたのでしょう。いつもより遅い時間まで自主練習をしており、気づけば終電間際の時間になっていました。
高校から自宅まで到底歩ける距離でも、道のりでもなかったので練習用具を慌ててまとめて駅へと急いだ記憶があります。
駅まで走り、その勢いのまま電車に駆け込むと、案の定というか、誰一人として乗客はいませんでした。
夜の九時とはいっても、農民ばかりの村々にしか向かわない列車です。
人がいないのはいつものことなのでしょう。
むしろ、人が乗ることのほうが珍しいのかもしれません。
いつもより長い練習と直前までテスト期間であったのもあったのでしょう。
半ば倒れこむように座席に座ると、すぐに眠くなってきてしまいました。
そして目を開けていることも困難になるほどの耐え難い眠気に抗えず……
葦の葉が風に揺られているような音がしている、そう感じました。
目が覚めると静寂に包まれた列車は未だ走り続けていました。
しかし、すぐに凄まじい違和感に襲われました。
車内が異様に薄暗いのです。
暗闇というわけではありません。確かに車内の照明は消えているのですが、不思議なことにどこに何があるかはっきり見えるのです。
月明りなど全くなく、車窓からは何も見えないといった状況でした。
そんな不可思議で異様な環境の中であっても、冷静になれば見えてくるものもあります。
一つは、列車の内装が微妙に異なっていることです。
いつも注視しているわけではないですが、さすがに毎日乗っていれば内装くらいは多少記憶してます。その記憶と今見ている内装ではいくつか違いがあるのです。
感覚的な表現になってしまうのですが、どこか古臭いように感じるのです。
普段の車両よりも多くの木が内装に取り入れられているのでしょうか。
二つ目としては、どこからか囁き声が聞こえてきている気がするのです。
思い返せば、目を覚ます前から聞こえていたようにも思えます。
それは野太い男の声のようでも、年老いた老婆のようでもあり、時には幼い少女のものにも聞こえるという不可思議なものでした。
その囁きはどうやら先頭車両のほうから聞こえてきているようでした。
恐怖はもちろんありましたが、このままでは何も変わらないと思ったので、私は足を進めることにしたのです。
そうして進行方向に歩みを進めると次第に、息が苦しくなっていくことに気づきました。
明らかに空気が重いのです。風のない、淀んだ空気とでもいうのでしょうか。
そして、そのような空気に混ざる悪臭。
そのどちらも、先頭車両に近づくにつれて強くなっていきました。
その悪臭が腐敗臭であると気付いたのは、先頭まであと一両まで迫った時でした。
そう気付いた時、嫌な汗が噴き出るような感覚とともに、聞いてはいけない声を聞いてしまったのです。
「…テ…ス……タ………チ…キテ」
それは、年端もいかない少女の声でした。
どこかまだ舌っ足らずな幼い声です。
声がする方に近づくにつれて、なにを言っているのか聞き取れなかった声が、次第に意味を為すものとして認識されるようになりました。
「コッチ…キテ。……タスケ…テ………」
あの時の恐怖は今も私の魂に刻み込まれているのでしょう。この先の人生で、あの日の少女の声とその目を忘れることは決してないのだと思います。
もっとはやく何を言っているのか気付けば良かった。
今でもそう思っています。
何故なら、私が声に気付いたその時には、目の前に「彼女」がいたのですから。
死人の顔を見たことがありますか?
病死ではなく、突発的な事故でもなく、じっくりと命が消えていくそんな死に方をした者の顔を。
土埃で薄汚れたような少女の顔は、死の恐怖と絶望に絞め殺されたようなそんな表情をしていました。それを見たのと同時に私は、命が無くなる瞬間の表情が焼き付けられた、そんなものであると悟りました。
この少女はこの世のものではないのだな。
実感のないままぼんやりとそう感じました。
少女はまだ呟き続けています。
だらんと下げられていた彼女の右腕が段々とあがってこちらに伸ばされます。
その光景は欠片ほどの現実感も恐怖もなく。
ただ、抗えない濃い死の気配だけが近づいて来るのを見つめていることしかできませんでした。
幾人もの囁きが大きくなります。
それは絶望で、怒りで、恐怖で、そして生きとし生けるもの全てに向けられた怨嗟の声なのだと今更のことながら気が付きました。
伸ばされた少女の右手はよく見ると、人差し指の半ばから上と小指全体が欠損していました。
視界がその手に覆われる寸前、視界の端に見えた少女は口元が裂けるほどの笑みを浮かべていたのです。
気が付いた時、私は線路から少し離れた山奥で倒れていました。
何故このような状況になっているのか。理解が全く追いついてきません。
あの少女は、あの列車はどうなったのか。
巡る考えはひとまず置いて。
とりあえず、家に帰ろうと山を下り始めました。
そのあと家に帰ると両親に心配されましたが、その追及をのらりくらりと躱して風呂に入りました。
夢だったのか。幻想を見ていただけなのか。
そんな考えは、浴室の鏡が否定してきました。
顔にはっきりと残る黒い指の跡。その右手の跡には人差し指の半ばと小指がなかったのですから。
後日調べたところによると、戦後間もない頃、このあたりで大きなトンネルの崩落事故があったそうです。そして、その時列車に乗っていた多くの乗客はそのまま生き埋めにされたといいます。
田舎であるため、救助隊が来る頃には被害者の生存は絶望的な時間が経ってしまっており、また当時の救助技術では崩壊したトンネルを掘り起こすのは危険すぎたため、そのまま埋め立てられたそうです。
ついでに分かったことですが、私が駅に駆け込んだ時にはその日の最終電車はもう出発していたそうです。
それから私は遅くまで練習することなく帰宅するようになりました。
高校を卒業してからは都心の大学に通うため一人暮らしを始め、そのまま都会で就職したので地元に帰ることは極端に少なくなりました。
最後に実家に帰ったのは、母が亡くなったときですから、もう五年も前のことです。
十年近く前に整備された幹線道路があるので、あの列車を使うことはもうありません。
使用者も少なくなっているだろうに、未だにあの列車は現役らしく一両編成となりながらも走っているのが遠目に見えました。
「母さんさ。最期のほうなんか変だったんだよね」
その話を聞いたのは母の葬儀の後、弟と晩酌をしている時でした。
母は若くしてこの世を旅立ったわけではありませんが、確かに長生きというわけでもありませんでした。
「なんか女の子の声が聞こえるんだ、ってずっと言ってたんだよ」
少女の声。
実家のあたりにそんな幼い子どもが住んでいるとは思えません。
住んでいたとしたら今ではなく、あの事故があった頃の……
そんなわけがないと思いながらも、一度してしまった嫌な想像というものはなかなか離れてくれるものではありません。
弟と別れるとき、聞いてみました。
母さんはあの列車について何か言ってなかったかと。
返ってきたのは思いもしない回答でした。
「兄さん、何言っているんだい?
あの電車、十年前に廃線になっているじゃないか」
母の葬儀の時、私が見たあの列車は何だったのでしょうか。
母はあの列車について何か知っていたのでしょうか。
今となってはもうわかりません。
ただ今になって夢を見るのです。
あの日の少女の夢を。
指の欠けた手で手招きしてくる夢です。
私が招かれるのもそう遠い日ではないのかもしれません。
今もあの列車は走っています。
あの田舎を。指の欠けた少女と多くの犠牲者の魂を乗せて。
追記。
この話はとある雑誌の企画で寄せられたものです。
没となった理由は単純です。
投稿者との連絡が全く取れなくなってしまったのです。
彼は一体どうなってしまったのでしょうか。
さあ、皆さんの不可思議な話もどうかお聞かせください。
お待ちしております。
日常は奇々怪々に塗れている。 千羽 一鷹 @senba14
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