オレンジソルベと心中

波岡 蓮

オレンジソルベと心中

 初恋は甘酸っぱい味がする、と聞いたことがある。だから、このアイスもきっとそうなのだろう。

 かすかに煙草のにおいが染みついた座席に揺られて橙色の氷菓をかじりながら、そんな事を考えていた。初めて食べた時と比べるといくらか値段は上がったが、それでも昔と変わらず柑橘系の甘酸っぱい味を残しているそれは数少ない私の好物であった。

 乗っているのは、田舎の古ぼけた小さな電車だ。この日、私は十数年ぶりに地元へと帰ってきていた。

 幼馴染の葬式に行くのである。


 ***


 私と彼が初めて出会ったのは、おそらく八歳か九歳くらいの事だろう。この田舎で生まれ育った私と、都会から引っ越してきた彼。肺の病気か何かで療養のために来たと言っていたが、おそらくはそれだけが理由ではないのだろう。

 母親と二人だけでやってきた彼はひどく臆病で、内気で、いつも何かに怯えているようだった。不自然なほどに少ない荷物、プールの授業はいつも見学、同級生と比べて異常なほどに細く小さな体、男性の教師とはまともに話せない────そんな歪みを持った少年だった。


 私は、彼にとって何だったのだろうか。


 どこか危うい雰囲気のある彼を放っておけなくて、私は彼を色々な場所へ連れ出した。色々、とは言っても山か川の二択だったのだが、それでも彼はそのすべてが物珍しかったようで目を輝かせて私についてきてくれた。

 あれはオコゼって言って刺されると痛い、あれは火振りって漁で鮎を取ってる、この木に罠を仕掛ければカブトムシがよく取れる……

 当時の私にとっては当たり前の事ばかりだったが、都会から来てすぐの彼にとってはそうではなかったようで、教えれば教えるほどすごい、すごいと無邪気に喜んでくれた。


 私は、彼に何かを残してあげられたのだろうか。


 中学に上がると、異性という気恥ずかしさもあったのかそれまでのように野山を駆け回ることはなくなったが、それでも普段よく話す程度には仲良くしていた。彼は私よりもずっと、というよりも学校で一番くらいには頭がよく、家が近いのもあってよく彼の家で勉強を教えてもらっていた。

 暑くなってくると学校からの帰り道でアイスを買ったりして、そのまま二人でだらけていることもあった。老婆が一人でやっている古い駄菓子屋で、店先のベンチに並んで座って他愛もない話ばかりしていた。彼はいつも、一番安い手作りだというオレンジソルベを買っていた。


 おそらく、うっすらとした恋だったのだと思う。

 だからこそ盲目になってしまって、気付けなかったのだろう。


 高校は別々だったが、それでも彼との付き合いは続いていた。やはり家が近いというのはいい事である。

 とはいえ、それでもそれぞれに生活環境が変わった影響は大きく、彼とは段々と疎遠になっていった。


 最後に彼と話したのは、卒業式の次の日だったか。町を出て他県の大学に行く私と、地元に残って就職するという彼。

 あんなに優秀だったのにと思ったが、その選択を責める気にはなれなかった。彼の家庭環境の事などはよく知っていたし、たとえ奨学金制度を利用したとしても生活はより苦しくなるだろうと言う事が分かるほどに私は大人になっていた。


 行ってらっしゃい、と見送りに来た彼の顔を思い浮かべる。心を押し殺す事に慣れてしまった、困ったような笑顔だった。


 そういえば、あの時もこの電車に乗っていた。

 あの頃は煙草の匂いも、もっと酷かった気がする。それは時代を経て喫煙者が減ったからなのか、それとも私が煙に慣れてしまったからなのか、どちらか分からなかった。


 ***


 会場に到着したが、どうやら予定よりもずいぶん早く着いてしまったらしい。外から覗くと会場の準備は未だ整っていないようで、座布団だけ敷かれた誰もいない和室が広がっているだけだった。

 いやになるくらい沢山の花で飾られた祭壇が、やけに存在感を放っていた。


 少しの間待とうかと考えたが、仕方ないと思い直して辺りを散歩する事にした。

 河川敷をぶらつき、山を眺め、あてもなくただ歩く。

 ふらふらとした足取りで辿り着いた小さな橋の欄干にもたれかかる。見上げた空は青く、清々しいほどに晴れ渡っていた。


 自殺だったらしい。しかも心中。


 遺書の類いがあったのかは知らない。ただ、わざわざ心中と断言できるくらいなのだから、正式なそれではなくとも似たような物はあったのだろう。そして、私がその存在を知ったのはつい先程、歩いている途中の事であった。

 何の事は無い。ただ単に井戸端会議が聞こえてきたというだけなのだが、それが酷くショックだった。

 もしも遺書に、特定の誰かについて言及があったなら、その人物はもっと早くに何かしらの接触を持たれているはずで。それすら無かったのだから、まあ、つまりはそういう事なのだろう。

 

 私は、彼が最後に思い起こす人の中には入れなかったのだろうか。

 

「……私じゃダメだったのかな」


 ぽそりとつぶやく。心中の相手は女だったらしい。

 別に死にたい訳では無い。ただ、彼が最後に選んだどこの誰とも知れないその女に、微かな嫉妬を感じてしまったのだ。

 彼の苦しみも悩みも痛みも悲しみも、私は結局何も知らなかった。

 いや、違う。知ってはいたのだ。

 けれど、私では彼を救えなかった。私は彼のそばにいられなかった。

 

 自分が恋焦がれた相手が傷付いているのを見たくなくて、それを癒すのではなく目を逸らしてしまった。私は彼の中の見たいところだけを見て、見たくないところには蓋をして、関わろうとしなかった。

 袖口から覗いた二の腕の丸い火傷跡も、寝ている時に見えた痣だらけの腹も、小さな窪みのある頭も、それを知りながらして知ろうとしなかった。

 彼に踏み込むのが怖かった。

 触れたら燃えてしまいそうで、少し離れた場所から焦がされる事しかしなかった。


 ━━━━━━━━━━━━━━━だから、私はこうして、ここで生きているのだろう。


「━━━━━━━━━━━━!!!!!」


 そこまで思い至って、唐突に溢れ出した凶暴な気持ちに任せて叫ぶ。

 私は彼に選ばれなかった。

 いや、違う。私が彼を選ばなかったのだ。地元を離れたあの日に私は彼を切り捨てたのだ。

 そりゃあ、選ばれるはずもないだろう。

 

 数年分の鬱憤を晴らすかのように、言葉にならない言葉を思う存分叫んだ。

 過去の自分への怒りと、情けなさと、そして共に死んだという名も知らない誰かへの恨みつらみ。

 少し頬が濡れていた気もしたが、気のせいということにしておいた。


 ***

 

 それからしばらくして、葬儀はしめやかに執り行われた。参列者には私の知る顔もいたが、知らない人もまた多かった。

 告別式が終わって出棺されると、棺の中で眠る彼は母親に付き添われて火葬場へと運ばれていった。


 流石にそこへついて行く事はない。

 さりとてすぐには帰る気になれず、私は遠くの煙突から煙が上がるのをぼんやりと眺めていた。しかし、その内にその煙も掻き消えて雲と境が分からなくなってしまった。

 果たして、私が小さい頃にあんな建物はあっただろうか。それすら思い出せないほどに私は大人になっていた。


 しばらくの間空を眺めていたが、そろそろ帰らなくてはいけない。

 そう思って歩き出し、そして、最後に一つだけ寄り道をした。


 ***


 『売地』という看板が立った空き地の前で立ち止まる。久々に足を運んでみると、あの駄菓子屋のあった場所はただの空き地になっていたのだ。

 あの老婆がどうなったのかも、この土地を誰かが買うのかも知らない。

 どうやらこの町は、私の知らないうちに変わっていってしまうらしい。


 オレンジソルベは、もう売っていなかった。

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