第30話 一足一刀


 次の日の朝、外が白み始めて目を覚ました。入口を出て背伸びをする。風も無く、目の前の海は穏やかだ。

 美しい朝焼けに心を奪われ、家の前に腰掛けた。水平線から太陽が顔を覗かせ、鮮やかな朱色に染まった空に浮かぶ雲を明るく照らした。


「美しい……」


 感嘆の声が漏れた。

 サチも剣弥の隣に座り、朝焼けを眺める。


「これは凄いな。こんな景色が毎日見られるのか」

「あぁ、二ヶ月はここに滞在する。毎朝見せる顔が違うんだろうな」


 サチは良しと気合いを入れて立ち上がり、朝食を作る為小屋に戻った。土間にあるかまどに火を入れ、米と水の入った釜をのせる。それを放置し、七輪で干物を焼き始めた。


 干物の焼ける香ばしい匂いが、腹の虫を刺激する。


「ん……? 焦げ臭くないか?」


 少しすると、炊飯の釜から明らかにおかしい色の煙が立ち上り始めた。


「おい! 大丈夫かこれ!?」


 サチはパニックに陥っている。

 蓋を取ると、米の周りが真っ黒に焦げていた。どうやら水の量と火加減を間違えたらしい。


「大丈夫、竈から外せばいい!」


 釜を下ろし、一安心。

 次は七輪から黒煙が上がっている。


「サチ! 干物干物!」


 さらにパニック状態のサチはもう使い物にならない。剣弥は落ち着いて、七輪の上で黒焦げになった干物を取り除き消火した。


「まだ最初だ、失敗して上手くなるんだ。次からは一緒にしようか」


 サチは俯き、静かに頷いた。

 落ち込むサチの手を引き、隣の弥五郎の小屋に助けを求めた。


「おいおい朝からどうした? ここまで叫び声が聞こえたぞ?」

「炊飯を失敗しまして……水の量と火加減を間違えたようです。そしてこれ……」


 真っ黒に焦げた干物を見せると、弥五郎とシズは大笑いし、二人を家の中に招いた。


「最初だもの、失敗して当然よ。ささ、座って食べていって」

「すみません……何から何まで」


 シズの慰めにサチは涙を浮かべ、無言で抱きついた。シズはサチの頭に手を置いて宥めた。


 剣弥は自炊などした事も無い。だからサチにもその知識が無いのだろう。しかも竈でなどお手上げだ。火を起こせただけ良しとしなければならない。

 サチの弟子入りは波乱の幕を開けた。



 朝食を終え、茶まで頂いている。


「お茶まで頂いて……すみません」


 二人で頭を下げると、シズは二人に微笑んだ。


「俺もシズには甘えっぱなしだ。たまには俺がするぞ?」

「いえいえ、私は漁をしませんから。家の事は任せて」


 弥五郎は炊事の技術を持ち合わせている口振りだ。でないと、シズもこうはならないだろう。


「今日も網を引くんですか?」

「あぁ、嵐でもなければ大抵出る。三班に別れて日毎に網を仕掛けに行く。売りに行くのも同じだ。俺は昨日が当番だった。午前中に終わるから午後は空く。俺達は仕事はそこそこに、自分達の時間を大事にするんだ」


 生前で言うところの、ワークライフバランスと言うやつだろう。その考えには全面的に同意だ。

 剣弥はサラリーマンをしたことが無い。剣を振り続けることで生活できるようになった。

 他に仕事をしながら剣の道を修めていた人達から見れば、随分と恵まれた環境だった事だろう。

 この世界でも普通に暮らせるだけの金があればいい。その点では、剣弥は十分過ぎる金を持っている。

 


 午前中はゆっくりと過ごし、三日に一度船で網を仕掛けに行き、昼前には皆で引き網を引く。

 午後は弥五郎に師事して剣を振るか、サチとの組太刀稽古で一日が終わる。


 弥五郎の指導で、形を反復し身体に叩き込んだ。書物で伝わっているとはいえ、各人の解釈によりズレが生じているらしい。

 一刀流の祖から教わる形は、剣弥の反復してきたそれとは少し違っていた。


「やはり書物で伝わる物と、開祖から直接教わるのは全く違いますね」

 

「いや、少し修正しただけだ、大きくは違わない。一人ひとり背格好も骨格も違う。皆が同じ様に剣を振るう事など不可能だ。大事なのは『一足一刀の間合い』だ。この間合いを間違ってはいけない。組太刀稽古でこの間合いを身体に叩き込むんだ。他は俺がどうこう言う事じゃない」


 一足一刀の間合い。

 一歩前に出れば相手を打つ事ができ、逆に一歩後退すれば相手の剣を躱す事ができる間合い。

 袋竹刀を持って弥五郎と向かい合い、日々間合いの攻防を繰り広げて一ヶ月。


 何度打たれただろう。

 何度竹刀が空を斬っただろう。


 ただ、剣弥も九十年以上剣を振ってきた身、弥五郎の言う間合いを理解し始めた。


「かなり良くなった。おいそれと打てなくなってきたな」

「こちらこそです。切り落としが恐ろしくて打ち込むのも至難の業だ」


 二人の間で膠着こうちゃくする事が増えた。

 暑さはかなり和らいできたが、弥五郎の気魄の前ではいつも汗を抑える事が出来なかった。


「どうだ? かなり平静を保つ事ができる様になっただろう。どんな相手でも気負ってはいけない。心はいつも凪いだ海の様に静かに、だ」


 この言葉は、何時いかなる時も頭の隅に置いておかなければならない。想定を超えるような強敵が目の前に現れたとしてもだ。

 一ヶ月でかなり心が鍛えられた。


 漁師の仕事にも慣れてきた。

 佐久島に売りに行くのは勘弁して貰っているが、網を引くコツを理解し力もついてきた。懸垂では得られない負荷だ、背中の筋肉が発達しているのを感じる


 一ヶ月の漁村生活。

 そんな長閑な暮らしに入った亀裂は、ほんの些細な事からだった。

 

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剣豪バトルロワイヤル ~仮想現実世界で有名剣豪達と真剣勝負~ 久悟 @hisago0625

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