休息の祝福3

 私は彼女の存在証明を始めた。天使の存在を証明する、それだけじゃなく、復活させる――こんな馬鹿げた話を聞けばみんなはどう思うだろう?殆どの人がおとぎ話だファンタジーだって否定するか嘲笑するか、その両方かもしれない。そんなのに貴重な時間を割くなんて無駄だ、という意見もあるに違いない。あなただって信じられない、と思っているんじゃないだろうか。正直言って私も難しい試みだと思っていた、不可能に近いほど。けれど、私は諦めるわけにはいかないのだ。時代が彼女の存在を疎ましく思い、消し去りたいと願っていたとしても、私は彼女を復活させる。何故なら彼女は私の友達だから。幸い、私は疲れることを忘れている。工夫さえすれば眠らなくても大丈夫なのだ。私は古今東西の宗教書や哲学書、果ては生物学や物理学にまで手を広げながら忙しなく日々をすごした。昼食は相変わらずクロワッサンとメロンパンだったけれど、専ら研究室に籠もりきり。数少ない友達も蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、初めこそ教授も協力してくれたけれど、私の熱中ぶりに恐怖さえ感じたのか、研究室まるごと私に明け渡して、尻尾を巻いてどこかに消えてしまった、「天才、佐藤陽菜子は壊れてしまった」と嘆きだけを残して。一人だけの研究室、学術書の城壁を眺めながら溜息をつく。今日も、徹夜だ。

 空の澄んだ青が穏やかな薔薇の火に燃え始めていた。窓の外を何匹もの赤蜻蛉が過った。ある蜻蛉なんて空中でピンに留められたように静止してみせ、私の気を引きたいようだった。彼女なら、天使ならどんな反応をするだろうと考えてみる。彼女の些細な日常でさえ興味津々の姿を想起して、彼女の満面の笑顔を思い浮かべては、証明に勤しんだ。思えば天使は私より少し小柄だったけど、本当は子供だったのかもしれないなと思ったりする。彼女に逢いたいという思いは日増しに強くなっていく。私は彼女の最期を思い出し、思い出すことを拒絶する頭を激励して彼女の消失理由を探し求める。彼女はなぜ餓死してしまったのか。彼女と交わした言葉を一つずつ手繰り寄せるように想起していく。彼女を救う手立てはそこにあるんだという根拠のない確信があった。たとえ根拠がなかったとしても――世界というのは必ずしも確かな論理と根拠で動いているわけじゃないのだ。

 その日は朝方の時雨が霰となって走り、大地に横たわる静かな冷たい獣のような大気が虚空に吠えて雪を降らせた。古紙のような色をした外套を着て往来は白い息を吐きながらどこか今年初めての雪に浮足立っているように見えた。私だけ重い影を引き摺り、陰鬱に目をしぱしぱさせながら大学構内を研究室へ歩いていた。ふと私の目を純粋な黄色と水色が過った。構内を池に向かって散策する幼稚園児たちだった。その真新しくつやつやした帽子とスモックは、色の喪いつつある世界を清純に塗り替える愛らしい行進を続けていた。気がつけば私は訳も分からず幼稚園児たちの後を追いかけていた――天使があのなかに紛れている、直感的にそう思ったのだ。けれど足は私の言うことを聞いてくれなかった。闇雲に駆け出した私は足を滑らせ、心血を注いだ証明公式は鞄から宙に舞い、まるで役目を終えた蜉蝣の翅のように煌びやかな一瞬の閃光を放って泥濘に墜落していった。私は薄汚れた雪の上にへたり込んで無感情にそれらを眺めることしかできなかった。幼稚園児たちはもう居なかった。

 私は空を仰いだ。陽の光が穏やかな光を梯子のように掛けていた。泥で汚れた白衣を脱ぎ棄て、まだ痛む腰を撫でさすりながら、いつものベンチに座った。そして私はすべてを想いだした。これまで生きてきたどうしようもない私のことを。

「そこに居るんだよね、天使さん」

私はベンチの傍の、世界が春に気づくまで芽を硬くしてじっと堪えている桜の木の陰に呼び掛けた。ちょっこり天使は現れた。恥ずかしいらしく頬を淡く赤らめ、俯き加減で彼女は私の隣に座った。翡翠色の触覚は桔梗色になってにょっと伸びていた。天使です、彼女は言った。

「陽菜子、ごめんなさい。本当の私は貴方の努力をご飯に無気力と休息を生産する堕天使です。悪い子です」

自分が思っているよりもずっと長く彼女と一緒にいたのだと実感すると、彼女が妹のようで一層愛らしい。しかし天使の方は段々目に涙を溜めて肩を小刻みに揺らしていた。

「今日は、お別れに来ました。私は、陽菜子が頑張ろう、努力しようって毎日机に向かっていたのを知ってます。それでも、私はお腹が減っちゃったら我慢できなくて、つい陽菜子の気力を吸い取っていました。悪い子です。けど、改心しました。陽菜子がみんなに褒められて嬉しかったって話してくれたとき、私はもう二度と陽菜子からご飯を貰わないことに決めたんです。だからもう今日でお別れ、、」

私は咄嗟に彼女のことを思い切り抱きしめた。彼女の魂を繋ぎとめようと必死だった、あの夜よりも強く。

「馬鹿なこと言わないで!私は褒められるのは好きだよ。どこまでも努力出来て、何にも一生懸命になれるって素晴らしいこと。でも、それは貴方が居ないと去り立たないことなのよ?貴方の存在を忘れたら、人は壊れちゃうよ。硬くて脆い、融通の利かない臆病で弱い生物なんだよ。私は貴方と居た時のほうが幸せだったよ。

 夏の発表の日から、私は少しずつ孤立していった。教授でさえ私の傍から逃げていった。生きる意味だって私から離れたがっている。でも身体が気力に駆り立てられて眠ることもできないの。貴方がいなきゃ私、休む方法さえ分からないんだよ?だから、、もう私の傍から離れないで。気兼ねすることなんてない、私の努力を食い尽せ!私は貴方の為に、貴方に負けないように精一杯頑張るから」

抱きしめられた彼女の背中は小鳥が奏でる音楽のように頼りなく細かった。彼女の胸が少し上下し、私の胸も呼応して上下する。私たちは二人で洗い流された新鮮な大気を呼吸していた。熱を帯びた彼女の小さな手のひらが私の背中をぎこちなく撫でるのを私は世界と自分が柔らかく融けていく視界の中でうけとめた。彼女がおずおずと尋ねる、

「私がいっぱいいっぱい食べちゃって、陽菜子の迷惑になっちゃうかもしれないんだよ?それでも、いいの?」

「当たり前でしょう?だって私たちは友達なんだから」

私は天使を祝福した。彼女は私の言葉を噛みしめるように何度も何度も頷いた。雪は融け朗らかな大地が姿を現した。芝生が茂り、その真下を蟻たちが無数の露を運んでいた。



その日から佐藤陽菜子は普通を取り戻した。

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休息の祝福 桑野健人 @Kogito

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