休息の祝福2

 大講堂で行われた期末レポート発表は大成功に終わった。階段状の椅子を埋める学生たちの響き渡るような拍手喝采を私はかつて聞いたことがなかった。教授は涙を流して私を褒め讃えた、曰く佐藤陽菜子は論理の確かな体現者であると。たかがレポートで大げさだ。確かに徹夜に次ぐ徹夜で先行研究を読み漁り、時代の常識の陥穽を見つけることは困難だった。けれど、私は疲れを感じなかったのだ。疲れを感じないのだし、工夫すればずっと起きていられるのだから、これくらいのレポートは書けるのが普通なんじゃないだろうか。未だ改善点も多々ある。譬えるなら生まれたばかりの子鹿が私のレポートだった。だから冗談だろうと私は思った、これほど褒められるのは。でも、本当だった。酷暑に競り合うような蜩の弥撒が窓から漏れ聞こえていた。嬉しくないとは言わない。正直に言おう、私は惚気たように喜び、照れ笑いをし、頭が擦り切れるほど自分を撫でまくった。私は瞬く間に大学の首席候補になった。サークル活動で好成績も修めた。友達も何人か出来た。けれど、天使の友達は帰って来なかった。

 襤褸アパートのやつれて蒼白い天井の照明を眺めながら、私は彼女のことを考えた。パソコンのやや暗い画面に映された成績表は整然とA+が並び、効き目がなくなってきた栄養剤やエナジードリンクがその周囲で乱雑に工場地帯を形成していた。不意に何か漠然としたものが頭の隅にあるのを私は感じた。それは靄がかかっているようで、掴むことも視ることも出来なさそうな、硬くもなく柔らかくもないものだった。空想の私は初めそれを手で翳すようにしていたのが、気がつけば夢中になって追いかけていたのだった。まるで、彼女の真実がすべて明らかになるような期待感。根拠はないけれど、世界というのはなにもかもが確かな論理と根拠で動いているわけじゃないのだ。

 彼女は天使です。あなたの友達は天使です。

それはお告げだった。託宣に気づいてからは、メトロノームのように規則正しく繰り返され、私は驚くことも、否定することも出来ず、理解するまでそれは止まなかった。不吉だった。彼女の悲鳴を聞いているような嫌な鈍痛が私の頭を襲った。そんな夜を繰り返したあくる日の早朝、私の携帯がカラスの合唱のように騒々しく鳴り響いた。電話の相手は慌てるでもなく、泣きわめくでもなく冷然と、まるで地球が回っているくらいに当たり前のことを言うように、天使の危篤を知らせてきた。餓死しそうだ、と研究員は言った。深海生物が地上の水族館で生きられないように、環境が変わればストレスが溜まって餌も受け付けないのだろう。生物学的に見れば普遍的な死に方だ。動揺する一般人の私を生ぬるい声で宥めながら、彼らは「想定通り」の彼女の死に安堵さえしているようだった。まるで彼女の死で世界は穏やかで効率的な日常を取り戻すのだとでも言いたげだった。冗談だろう?私は虚しく抵抗した。けれど、専門家でも教授でもない私が彼女を救える可能性が限りなく低いのは――事実だ。

「彼女に逢わせてください」

私は絢爛の街灯がまるで赤道直下の太平洋で悠然と泳ぐ魚の鱗のように色の諧調を構成しては崩れていく、剝がれていくような夜を飛ぶようにおんぼろな車を走らせて彼女の許へ急いだ。研究員は来ても無駄だとは言わなかった。

 天使がその翡翠色の触覚ですべての色彩を吸収しつくしたかのように、彼女の安置されている部屋は純白で清純だった。骸の色の脆さ危うさが部屋全体を支配していた。息苦しいほどに。彼女はもはや起き上がれず、ベットに寝かしつけられていた。身体は特段痩せ細ってなく、魂だけが神に還ろうとしているのが直感としてわかった。彼女は私の気配を感じてか薄く目を開けて微笑した。それから清流の蛍のような瑞々しい光を彼女の触覚は宿した。私はなにも言えなかった。

「来て、くれたんだね。嬉しい」

彼女はともすれば眠ってしまいそうなほどか細い声で言った。私は彼女を抱き上げるように抱擁を交わして、耳許で囁くように

「どうしたの?あなたはどうして死んでしまいそうなの?」

と尋ねた。彼女は一瞬瞳に愛らしい光を燈したように見えたけれど、口は噤んだままだった。何かを迷っているように見えた。そのあまりにも軽い肩は震えていた。私は胸を刺すような熱い塊が徐々に昇る感覚に必死になって抗いながら彼女のことを考えた。彼女の未来を考えた。仮に彼女が元気を取り戻したとしても万事解決には至らないだろう。人間という存在はどこまでも知識に貪欲で未知を排除したがり、完璧でありたいと願うが故に自然という楽園から追放された生物だ。甦った彼女が死ぬまでこの部屋から出ることは許されないだろう。未知は未知である時点で檻の中に隠されねばならないのだ。彼女はそれを悟って自裁することを選んだのではないか?私は彼女に生きて欲しいと思っている。けれど、彼女のすべてを知らない私が彼女の意思を無理解のままに踏みにじって良いのだろうかと思わずにはいられない。たとえそれが命に関わるものだったとしても。私は彼女の、あんな風に怯えて泣いている彼女を見たくなかった。天使は笑っているほうがずっと天使だ。

「私ね、この前沢山人に褒められたんだよ。課題のレポート、すっごい頑張ってさ、寝る間も惜しんで頑張ってさ、そしたら教授が吃驚してね、学会で発表しようって。たかがレポートなのに可笑しいよね、、」

気がつけば私は彼女が捕らえられてからのことを話し始めていた。初めて一日中勉強に没頭出来たこと。サークルで起きた珍事件。バイトの皆勤賞で表彰された帰り、あやうく終電を逃してしまいそうになったこと。自動車免許を取ったこと。両親がそのお祝いに譲ってくれたぼろい軽自動車。目の前が靄がかかったようにぼやけてくるが気にしなかった。彼女の瞳にも涙が溜まってそっと桃色の頬を流れた。私は彼女の生命の燃えるような象徴の滴を落とさないように拭った。

「嬉しかった、、?みんなに褒められて、陽菜子は嬉しかった?」

透き通るような声で私を仰ぐ天使は言った。私は涙でぐじょぐじょになったみっともない顔で何度も頷いた。うん、とっても嬉しかった。

「いっぱい褒められて、友達も出来て、したいことも沢山出来た。でも、私は貴方がいないと嫌だよ。あなたが傍で笑ってくれないと、私嫌だよ。私バカだからさ、今になってやっと気づけたんだ。友達だからって全部秘密を打ち明けるわけじゃないって。本当の友達は、辛いとき、苦しい時に傍に寄り添う存在なんだって。貴方の秘密は、打ち明けなくても良い。貴方が苦しむことを私はしたくない。だって貴方は私の友達だから。私に出来ることは何だってする、そうよ、一緒にここを抜け出す手立てだって幾らでもあるよ。だからずっと傍で貴方が恢復するまで、、」

彼女の細く蒼白い手が私の唇をそっと遮った。

「私は陽菜子の友達。友達だから、、。もう、良いの。陽菜子、もうここに来ちゃダメだよ」

彼女は最後の気力を振り絞ったのか、先程までぴかぴか輝いていた触覚はみるみる光を退潮させて、褪せた柳の色に変わった。瞳も鮮やかな燈火も闇の嵐に掻き消されて深い藍色に掻き消えてしまっていた。私は何も言えなかった。彼女を深々と突き刺したあの日のことが頭を過って離れなかったのだ。私は彼女の温もり微かな身体から魂だけが抜けきるのを必死になって抑えようと徒労を繰り返すのみだった。私の熱を帯びた私の身体は空回りして、遂に徒労に終わった。泣き喘ぎ疲れた後は不思議と穏やかな気分だった。凪いだ海のような静けさだけが残った。小さな吐息をたてて眠りにつく彼女から離れた時、頑なに心肺蘇生を続けていた救急隊員がすべてを止めるのに似ているなと薄明かりの脳裏で思った。



それから十日後、彼女は消失した。



早朝ベットから彼女が完全に消えているのを研究員が発見したのだった。鍵は厳重に閉じられたままで、部屋は一瞬の調和さえ崩さなかったのだと主張するように白いままだった。誰も彼女が逃げたとは思わず、彼女は消失したのだと結論づけて所長一同は熱病に魘されたここ数か月から恢復して清々しい日常、機能的な日常を駆動し始めていた。私は彼女の「消失」という信じられないような訃報を、私という痩せ朽ちた樹木の落ち葉ともいうべき大量の睡眠薬とエナジードリンクその他諸々の空き瓶空き缶の山の上で聞いた。あまりに快活で幸福そうな研究員の甲高い声が途切れ――私は無意識に電話を切っていた――暗い画面の携帯をいつまでも眺めた。そしてうわ言のように私はこう繰り返した。


彼女は甦る、私が甦らせてみせる。彼女は天使で、私はその友達なのだから。

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