休息の祝福

梓稔人

休息の祝福1

 天使の友達がいます、と言えば、あなたはどう思うだろう?ある人は冗談だと思い、ある人は比喩か何かだと思うだろう。でも、本当なのだ。私には天使の友達がいる。別に羽が生えているわけでもなく、わっかが頭についてるわけでもない。ちょっと長くて先の丸い、絵本に出てくる虫が持っていそうな触覚を生やしていて、あとはどこにでもいるような女の子の見た目をしている。だから、厳密にいえば天使ではないのかもしれない。実のところ私だって友達が天使だなんて信じられないし、冗談だって笑いたい。けれど、出し入れ式の触覚を持っている人間はこの世界に存在しない――それは厳然たる事実だ。では何故天使だとわかるのか?それもわからない、わからないけれど、彼女のことを考えていると、頭の中で漠然と「天使」という言葉が繰り返されて鮮明になっていく体験を何度もしていると、嫌でも彼女は天使なんだなと理解するのだ。この感覚は経験した人にしかわからないだろう。彼女は天使であるというお告げが私の頭を荒れて鈍く青黒い海みたくのみこんでいく。そうして私がわかった、ようするにこの娘は天使なんだねと認めてやると、ふっとすべてが嘘のように霧消する、天気は快晴で凪いだ海に白い帆のヨットが浮かんでいる、そんな感じだ。尤も不思議なお告げが下り始めた頃には私と彼女の関係は物理的に遮断されてしまっていたのだけれど――彼女は人間ではないことがバレてある研究機関に監禁もとい捕獲されてしまったのだ。

 天使の癖に運が悪く、ドジな娘だった。私と遊んだその帰り、何かにつまずいて派手にこけてしまい、その衝撃でにゅっと触覚が伸びてしまったらしい。偶然巡回中の警察官に見つかってしまった彼女は上手く誤魔化すことが出来ないまま、精密検査を受けさせられて、地球外生命体か、少なくとも人間ではないことが明らかになった。彼女は頑丈な鉄格子の檻に収監され厳重な警備のもと研究機関に送られてしまい、囚われの日々を過ごしている。押収された彼女の所持品(私と撮ったプリクラ)から重要参考人として私が割り出され、厳めしい取調室で私は彼女が人間でないことを知った。早朝にアパートの扉をごんごん叩く強面の警官と寝ぼけまなこのパジャマ姿で邂逅するのと、やけに眩しい取調室のライトを浴びて顔を顰める経験は二度としないだろう。

「彼女に会わせてください」

私の訴えは聞きいれられ、情報を外部に一切漏らさないことを条件に鉄格子の中で体育座りでうずくまり、翡翠色の触覚をだらしなく垂らした彼女と再会した。世間は人間そっくりの地球外生命体が存在していることを知らなかった。

「なんで教えてくれなかったの!」

彼女が人間ではないことをなんとか理解した後、熱を帯びた頭の中でふつふつと沸いてきたのは、彼女への怒りだった。彼女が隠し事をしていたのが許せなかった。彼女とはずっと一緒だった。いつも一緒に遊んだし、食事だって数えきれないほどしたのだ。なのに彼女は一番大事なこと――自分が人間じゃないことを隠していたのだ。裏切られた気分だった。許せなかった。逸る気持ちを抑えて彼女の囚われた場所へ足早に向かった時、自分が何に対して怒っているのかわからなかった。元気がなく少しやつれて瞳に涙を浮かべてる彼女を見た途端、その怒りが頂天に達してしまった。私は叫んでいた。彼女はびくりと身体を震わせたあと、透き通るように白い膝に顔を埋めて

「だって、、だって嫌われちゃうと思ったんだもん」

と声を潤ませながら言った。無機質なコンクリートの床に黒い滲みがふたつ落ちていた。三つ、四つと増えていく。私はそれを強いて見ないようにした。

「私、帰る。もう知らない」

私は自分自身の声がこんなにも冷酷だったかと驚きながら、それを取り繕うように、逃げるように彼女の許を去った。お灸を据えるつもりだった。彼女を嫌いになったわけではなかった。だからちょっと彼女を叱ってやろうと思って呟いた言葉が深い棘になって彼女に突き刺さったとき、刺した張本人が最も驚いたのだった。私はもう知らないなんて言うつもりはなかった、、なのにどうして。

 草原を跳ねる兎のように快調に高速道路を走るタクシーのなかで、鮮やかな宝石のような街々の明かりが花火のように散り輝いて過ぎ去るのを眺めながら私は嗚咽した。彼女への棘が反芻し、私をひたすらに刺し続けていた。その日の夜のことを私はあまり憶えていない。

 私は適度に怠惰な人間だった。勉学に励んでいても、部活動に精を出していても、ある段階まで頑張ると、ふっと力が抜けるのだった。まるでさっきまできちんと漕いでいた自転車のペダルから急に足を離してしまうように。自転車は暫く緩やかに走り続け、そして停止する。そんな人間だったからすべてが凡庸だった。座学も実技も成績表には清々しいほどに5段階中3の評価しかつかない人間だった。佐藤陽菜子という名前を聞けば、ああ、あの普通の子ねと専ら評判だった。嘘。そんなに評判にはなっていない。人からは憎まれたりはしないけど、好かれることもあんまりなかったと思う。怒られたことも数えるほどしかなく、褒められることも片手で収まるほどしか記憶になかった。寡黙では無かったけれど強いて饒舌になることも無かった。そんな私は才能がある人を羨ましいと思ったことはなかった。隣の芝生は青いじゃないけれど、人はとかく自分にないものを求めがちだ。足が速くなりたいとか、テストで良い点が採りたい、とか。そして嫉妬が生まれる。これは摂理だ。「○○君になりたい」「○○ちゃんになりたい」という言葉には尊敬と隠し味に悪意がある。言った本人でさえ無意識な悪意は、羨望の対象にはきちんと刺さるように出来ているのだ。ちょうど海月の刺胞が人には見えないように。だから私は誰かを羨ましいとは思ったことはない。きっと何かの奇跡が起きて才能を持てたとしても、私は憧憬の荊に耐えることはできないだろうという根拠のない確信があった。でも、本当のような気がした。

 私の半生はある意味では起伏のない、物語としては実につまらないものだと思う。私という人間が主人公の映画があれば、がらんどうの客席に、唯一の観客はいびきを立てている、多分そんな感じになるだろう。それでも私は幸せだった。辛いなと思うまえに羽が与えられたように心が軽くなり、何も出来ないかわりに傷つくことはなかったから。だから感謝さえしていた、自分の怠惰さに、無気力さに。大過なく高校生活を終え、大学に入った。誰も知らないところではないけど、かと言って有名かと聞かれたら首を傾げるような女子大学に私は入学した。私は今まで通り講義の勉強もサークル活動もほどほどに無気力にこなした。友達は何人か出来たけれど、彼女たちが私のことを友達と思ってくれているかはわからない。だから私は大学にある小さな池の眺められるベンチに腰掛けていつも一人でパンを食む。前世から決まっているようにクロワッサンとメロンパンが毎日の昼食。私は食が細いのでこれでも満腹になるくらいだ。木漏れ日が太陽に曳航される雲とお似合いで、つい私は読書か勉強をしたくなる。その日、わたしは教科書しか持っていなかったので、内心うげえと思いつつページを繰っていった。艶やかな椿の群れが鮮やかな匂いで互いに交歓していた。睡蓮はまもなく花を咲かせるだろう。日差しが母の掌のように穏やかで午睡には相応しかった。私は例に洩れず身体が軽くなり、教科書をぱたりと閉じて目を瞑った。

「気持ちいい?」

少し幼げなもつれたような声で誰かが聞いてきたので、私は反射的にうんと頷いた。声の主は何故か嬉しそうに良かった!と言った。天使だった。背丈は私より少し小さいくらいで、白いカーディガンを纏い、水筒を提げている。大きな瞳に笑うと小さな八重歯が覗くのが印象的だった。髪はショートで清純。少し寝ぐせがついていたのが却って好意的に思われた。直ぐにわたし達は意気投合した。不思議なことに彼女を講義で見かけることはなかった。確かに今思えば講義を受ける天使の姿を思い浮かべられないけれど。昼休みにひょっこり現れ、図書館で勉強して、あの「無気力」がやってきた時にとてとて彼女がやってくるのがわかった。彼女は何故か生姜湯を作るのが上手で、水筒に入れてある蜂蜜入りのあったかいお手製の生姜湯を飲んで休憩するのが日課みたいになっていた。私たちは正真正銘の友達だった。どこへ行くにも一緒だった、講義とか勉強時間は別だったけど。あの日も私たちは講義終わりに正門前で集合して、駅前のスーパーの3階でプリクラを撮った。下手でも上手でもない私の字で「ズッ友」と書かれた小さな二葉の写真を分け合い、彼女は後生大事そうにポシェットに閉まった。そして帰り道に彼女は触覚を出して捕縛されたのだった。きっとポシェットの中身も散乱してしまったのだろう、警官から見せられた彼女のプリクラは土で端が汚れていた。彼女はおっちょこちょいだから、粗方散乱した彼女の持ち物をポシェットに直している間、触覚を出したままだったんだろう、そこを通りがかった警官に見咎められた。私はそんな彼女の頼りなく小さな背中が怯えで震えるのを想像して胸が締め付けられるように痛んだ。彼女が捕らえられてから、胸騒ぎがして何度も夜中に跳ね起きては荒い息を吐いた。窓を見やればフェンスを彩るような紫陽花の群れに激しく雨が打ちつけていた。私はしかし彼女のことを何もしらない、平凡な普通の女の子だった。ディズニーのヒロインみたいに奇跡が起こって彼女が救われるなんてのは、所詮絵空事に過ぎなかった。機関に送る再三の面会申請は悉く却下された。研究者は彼女が私と交感することによる新たな作用を見たがったが、畢竟私が天使の心理を動かしうるほどの能力を持たないことがわかった途端、極秘研究という名目で私を追い払った。仕方ないので私は大学の講義を受け、少しだがサークルにも顔を出すようになり、夜はバイトに明け暮れた。そして私はあることに気がついた。「無気力」が消失している、ということに。

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