虚ろのレヴィアタン

山川 湖

メイルシュトロームの幽霊に関する噂

case Ⅰ 蝕歴2.495年 般若坊の出没について

 仄暗い空の模様に、名を奪われた一人の武人。

 本堂に続く参道を駆け抜ける裸足の男は、かつて将軍に仕える武士として名を轟かせていた。

 先日に通達せらる戯圓公符ぎえんこうぶにより名声は失ったが、未だその快速は衰えるところを知らない。

 鬱蒼とした森は漏れた月光で斑らに彩られていた。その明るみだけを前途の頼りに、彼は疾駆した。

 足音に混じる獣の咆哮。義骸きがい神獣しんじゅうが野に放たれて久しく、その土地に平穏はない。武人もまたそれを承知で、鞘に添えた手は離さない。

 梢から飛び立った怪鳥『白雷しらい』は、飛来ざまのくちばしを武人の刀に叩き落とされ、地に転がる鉄塊となった。

 潜伏のため辿り着いた本堂は戸が開かれ、本尊を明らかにしていた。

 殊勝な心などとうに捨てたと思っていた男も、さる悲劇を前に、神仏に祈る敬虔さをいささか手にしたよう。彼は堂の外郭へと続く階段を一段踏みしめ、立て膝の様相で合掌をした。

 それがかの超常の嚆矢となったかは、杳として知れない。

 一瞬の瞑目の後、彼が見たのは、視界いっぱいのだった。夜を照らす、本尊に重なるその光は、瑞兆とでも言うに相応しい奇怪な現象だった。

 しかし目を凝らして見ると、それが仏像に重なって放たれたものではないことは明瞭だった。彼も一瞬の目眩しの後、すぐその事実を認識するに至った。

 光は像の手前から起こるものだった。

 そして、それが強調するのは、光よりもむしろ、の濃さであることが分かった。

 そこには、一つの人影があった。眩しいほどの光に毫も照らされないその暗黒は、彼と同じ程度の大きさで人の輪郭を縁取っていた。

 影は告げた。

「万理は真実ではない。」

 武人は鞘に手を当て、臨戦のために少しだけ腰を落とした。

「何者だ?菩提府ぼだいふの回し者か?」

般若坊はんにゃぼう。」

「……」

「それがわつぃの名である。」

 武人は剣を抜き、切先を影に向けた。

「お初に相見える、和尚。生来の不精につき名誉も知らぬ、切って捨てていくぞ」

「無礼者、早まるでない。」

 影は鷹揚にそう言って手を掲げた。たちどころに武人の身体は硬直し、ぴたりと動かなくなった。罵倒をしようにも口もまたびくともしない。物言わぬ石像のような様相の男を前に、影はゆっくりと手を下ろした。

「わつぃは言伝に来た。」

「……」

「君の一進一退を決めたあの神話は、まやかしである。」

 滔々と語る影を、男は苦悶の表情さえもできずに黙って見続けている。

「しかしそれは予期せぬことではない。」

「……」

は作られた神話である。」

「……」

「自らの作り上げた神話を自らで破壊するために。」

「……」

「君はその駒となるであろう。これは避けられないことだ。君の意思とは無関係にそれは進む。」

「……」

 影は両手を広げ、最後に次の言葉を告げると、光の消失と共に己も失せた。光もまた影もまた、地上の渦巻きに飲み込まれるように、空間に吸い込まれて消えた。

「イトネズミを葬りなさい。」

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