case Ⅱ 蝕歴5.333年 神獣殺しについて その1
僕の自殺を食い止めたのは僕自身の意思ではなかった。
僕は確かに椅子に立ち、蛍光灯の紐に首をくくって、眼下の淵へと足を踏み出した。積極的な死、あるいは消極的な生。僕の出した人生の結論である。
されども紐は耐えきれず、重しと共に無様に千切れた。一直線に地に落ちた僕が残したものは、臀部に感じる鈍い痛みと、コーポの201号室から響く巨大すぎる生活音と、頸部を巡るように横断する真っ赤な擦過傷だけだった。残念ながら僕自身の生もまたそこに残されたが、それは紐の柔さがもたらしたものであり、僕が残したものとは言い難かった。
僕を死に向かわせたものの名は分からない。それが端的な言葉で表現できないものであるのは確かだ。希死念慮と生の気概、その天秤を繊細に動かし続ける何か、それは“悪魔”とでも名付けるにふさわしいものであるように思える。幸いなことに悪魔は、今にもう一度僕に死のプロセスを繰り返させようとはしなかった。
こうして僕はまた消極的な生に向かい合った。仕事を辞めて久しい。貯金はもう尽きた。親類は神獣の餌になって失せた。天涯孤独で使命もない。
冷蔵庫には新鮮なきゅうりが一本。これで得られる活力だけの仕事をしよう。それで何かを得られれば、それにすがろう。
へたごときゅうりを頬張った。瑞々しい――きゅうりもそうだが、何よりも生命が潤沢だ。
使命もないのに勃起した。枯れた身体が不意に歓喜しているのだ。重力に逆らい手にした希望だ。それをたやすく捨ててはならない。
タンクトップとステテコを身に纏って外に出た。周囲の電柱からぶら下がる
僕は大通りに出て、コンビニエンスストアにでも行ってみようかと思った。アルバイト募集のチラシでも見たら、陰鬱な気分も和らぐのではないかと考えたのだ。
しかし、辻道をしばらく進んでいた時、遠くから微かに叫び声が聞こえた。
「――この
確かにそう言っていた気がした。供魔霊とは神獣の蔑称である。由来は諸説あるが、彼らがどこからやってきたのか分からない、つまり“
僕は足音を殺しながら、音のする方へと近づいた。思わず勃起していることに気付いた。凄絶な使命の引力に惹かれた順路の生命活動だ。
家々に挟まれた隘路へ進むと、奇矯な動きで人間の死骸に貪りつく褐色の犬のような異形と出くわした。骨の味わいを知らぬのか、肉質の部分だけを懇切丁寧に牙で削いで食らっている。
毛並みは油ぎり、ごわごわとしている。ところどころで束ねられた剛毛の群は、遠目から見るとハリネズミの背中のようなものに見えなくもない。
顔は耳元まで口が裂け、鋭い無数の牙を曝け出している。口の端からは涎が垂れ、地に水滴の斑点を作っている。
眼は存在しない。神獣にとって必要のないものだからである。鼻もまた無い。それが必要とするセンサーは、『
何が、誰が指令を下すのかは分からない。しかし、神獣を正確に操作する何かがあり、神獣らもまたそれに従って標的の元まで寸分違わぬ速度で駆けつける。実に合理的で神秘的な生き物である。
神獣は餌に食らうのに夢中で僕の来訪に気付いていないようだった。事切れた肉体をまさぐる擦過音と獰猛な唸りの声とが閑静の
これだけの騒々しさならば、じきに人が来るだろう。もはや救済は手遅れだが、惨事は最小限の被害に食い止められるかもしれない。あるいは、猛獣の目撃者自身が次の餌となるという要らぬ二次災害が起こるかもしれない。
僕は一歩も動かずにいた。そのうち肥えた獣は振り向いて、僕の体を認めた。『虚ろな審判』が獣に下した命令は、獣自身の滋養にももはや必要のない行動だと思うが、非常に残念ながら、次のような具合である。
即ち、目撃者の捕食こそが、獣の突然なる疾走を説明できる妥当な命令であった。
迫り来る獣を迎えて、僕は思う。僕の生に意味があるとすれば、僕はこんなところで得体の知れない獣に心臓を貫かれたりしないだろう。僕の肉体の内に高邁な精神の宇宙があるのならば、これほどまでに唯物的な死を、柔な肉塊へとバラされるつまらない結末を許したりはしないだろう。僕の死に……。もはや深く考えている時間はないが、僕から言えるのはたった一つだけである。
やはり僕はここで死ぬべき者ではなかった。
僕の唇は自然と動いていた。僕の右手は自然と前方へと突き出されていた。
幼い頃から親に叩き込まれた知識というのは、そう簡単に消えるものではない。
「聡い者は7yenのものを8yenで売ったりはしないものだ。その値がかえって信用を損なうためである。聡い者は7yenのものを6yenで買ったりしないものだ。その値がかえって安心を損なうためである。聡い者は物の適切な価値を知っているのだ。もちろん仏もまたそうである(※1)。然るに、仏への信仰のため生活に必要な1yenを失う者は、仏のこともまた知らぬ。」
※1 仏もまた過度な豊かさを望んでおらず、必要なだけの豊かさがあれば十分ということ。
僕の唱えと共に、たちどころに獣は足を止め、体を強張らせて動かなくなった。獣は平然とその事実を受け入れ、やがて脱力して静止した。自分の身体が思い通りに駆動しないことさえ、意思のない獣にとっては使命に他ならないらしい。
物言わぬ像と化した獣はそのうち誰かに目撃され、スクラップにでもなるだろう。人を汚した適切な罰ではないだろうか。
僕は踵を返して、大通りへと戻った。
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