夕陽が沈んだ後の世界で

村崎沙貴

  

 夕陽は痛い。私を刺してくる。でも、沈めば暗闇が訪れるのだ。

 もう二度と。そんなことを語り合ってニヒルに笑みを交わせる相手を、ずっと、求めていた。



 校舎の隅、山の緑に抱かれた野球グラウンドに面する方角にある小さな書庫。人の背丈をゆうに超える使い込まれた戸棚に、黄ばみで見事なグラデーションを作る紙ファイル達。歴史の重みすらどうでも良い、くだらないと冷めた目で通り過ぎて。彼女のもとへ向かう。

 煩わしいセミの声、暑苦しい部活の掛け声に背を向けて最奥のソファに座っているのを見つけ、黙って頭を下げるのだ。

 彼女も私と同じ、この学校の一生徒だ。それでも当たり前に、私が行く頃にはこの定位置で待っている。そして、さもこの部屋の主のように存在感を放っている。

 外界の音が感じられながらも、それらは全て閉め出されているような空間。きらきらと舞う埃や私達の言動など、微かで僅かなものだけが、完全なる静止を否定していた。ただただ、ポツリポツリと互いに言葉を紡ぐ。そのうちに、窓の外が橙にうすく染まって、やがて、闇色に侵食されてゆく。下校のアナウンスに追い立てられて校舎をあとにする時間帯には、街明かりが、沈んだ空を遥か上方に追いやっていた。


 単調で機械的な日々の中、書庫での時間だけが少し異質だった。


「私の受けたいじめ、教育委員会までいったんだ」

 サラリと告げられた言葉に固まったのは、もう大分昔の話になる。

 書庫の外での彼女は本当に明るい人だ。一対一でないと会話に入れない私と違って、いつも集団の中心にいる。だから、思いもよらなかった。

 度重なる悪口、仲間外れ、持ち物への被害。重々しい過去を、彼女は平然と打ち明けた。でも私は、その瞳と声の奥が冷え切っているのを感じ取れた。

 気さくに振る舞って、周囲の人々と喋って、笑って、笑って、笑って。それに疲れたら、人のいない場所で死んだ目をして息をつくのだろう。ソファに身体を投げ出して、糸の切れたマリオネットのように手足をだらんとさせているのかもしれない。……やっぱり、私とは大違い。私もマリオネットなら、常々うつむき、糸の張りを通して伝わってくる指令に淡々と従っているのだろう。人形のくせにさも感情があるかのように装ったり、糸を切って休んだりはできない。

 それでも。

 結局のところ、逃げ出した先に明るい未来など待っていない。これをよく知っている点で私と彼女が同類であるということだけは、疑いようがなかった。


 辛い世界の色は、夕陽に似ていると思う。怒りと苦しみが撒き散らした鮮烈な色。それでいて、流れる血よりはもっと、憂いを混ぜ込んだ色。傾きゆく、いつかは終わりが来る。わかっていても、良い未来などひとつも想像できない。自然と、彼女を連想させた。


「私、演劇が、駄目なんです」

 中学まで、劇団に入ってて。そこでちょっと。

 私はそれだけしか言わなかったが、彼女は掘り下げようとしなかった。

「一回いじめられたら、一気に自己肯定感下がるよね。わかってても、簡単には戻せない」

 それだけ、呟いた。私はコクリと頷いて、俯く。

 虚空を見つめていると、少しずつ景色の輪郭がぼやけ、物理的な視界が心の風景と溶け合って、徐々に置き換わってゆく。

 

 明るくて礼儀正しい人であれ。世の中にまかり通るくだらない教えを忠実に守った仲良しごっこ。暗い顔をしていると、的外れで無神経な、心配の皮を被った好奇に晒された。不快を軽減する為に、もう既に心から忘れ去られた表情を必死に、張りぼての形だけ引っ張り出し続けた。心と身体が軋んで擦れていくのを感じながらも、解放されることより周りの怪訝を恐れて耐える道を選んだ数年間。しかし、限界が来てしまった。

 逃げ出した先で笑顔を失くすと、いくらか楽になった。離れると、気が静まった。私はつくづく、大事なものを手に入れることよりも、不要なものを切り捨てることの方を選んでしまう質らしい。その証拠が、今の無気力な孤独だ。熱中できるものもない、進級のたびに友達とはそれまで。私はそんな人間だから、仕方がないのかもしれない。

「いらない」と、今日も心が叫んでいる。何がいらないのかは、わからない。

 今までに切り捨ててきたものは、数え切れない。逆に、ちゃんと大事にしたものは、思いつかない。


 激動が心をを焼き尽くす世界は私の中で終わりを告げた。私は凍りついた夜に行き着いた。そして、私は孤独だと、薄い、それでも確かに本物の微笑で語り合える相手に出会えた。

 暗闇の世界。それは冷たくて、硬質で、静的で、平凡な正義や情熱をガラス越し、無感動に眺める世界。



 立ち直った世界の色は、朝陽に似ているらしい。朝露が反射する木漏れ日ほど爽やかではなく、悲しみや切なさの名残で潤んだ色。でも、この先の未来は明るいのだと、胸を膨らませている。

 そこに行き着くのはいつになるだろう。そもそも、こういうことを教えてくれたのは誰だったか。私自身が生み出した幻想だろうか。それでも。辛い世界が夕陽色なら、その後の夜を乗り越えた世界が朝陽の色をしているのは道理だろう。私はそう、信じている。

 ただ、今だけはこのままで。苛まれても、希望が見えなくても、ここでの時間がちょっぴり好きだから。


 この書庫での時間は、静かで、空虚で、孤独のように冷たい。それでもどこか、夜の底をひたひたと冷気が満たすように、世の基準で見れば決して良くはなく、でも確実に、私にとっては悪くない何かで満たされている。

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夕陽が沈んだ後の世界で 村崎沙貴 @murasakisaki

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