おやすみフローライト

凪野 織永

おやすみフローライト


 死とは、人間の一生の最後だ。

 生誕の時が喜ばれるように、毎年誕生日に祝福を受けるのと同様に、死もまた最大限の敬意と弔意を以って見送られるものである。

 生と死は表裏一体。生が言祝がれるように、葬式はその人間の歩んできた人生を象徴するもので、その末期が良いものであれば、あの世で死者も安寧を得られる。

 死に方と弔われ方を彩る。それが、彼にとっての誇りで、生きがいだった。

 ひんやりと冷たい空気で満たされた、薄暗い部屋。男はそこで、手術台のようなベッドの上に横たわる人間を眺めていた。その頬を柔らかく撫でる。まるで子供を宥めるかのように静かで、穏やかな手つきだった。

 触れた肌は、ひどく冷たい。触れた方の男は平熱が低かったし、横たわっている方の男は、体温なんてとうに消え失せていた。

 死後硬直が始まりつつあり、少しずつ人間の柔らかさを失っている体。


「…………」


 男は何も言わない。無造作に伸ばされて一つに結われた黒髪を改めて簪で纏め直すと、白く清潔な手袋を繊手にはめた。

 まずは、胃や腸に残っているものを全て洗い取り除く。弛緩した体から内容物が溢れたりしないようにするためだ。口腔や鼻腔も清潔にし、次に全身を清拭する。体の穴から体液が漏れ出さないように専用のジェル状のものを詰める。これで、なんの変哲もない、眠っているかのような死体の出来上がりだ。

 服を着替えさせて、髪をゆっくりと梳く。肌には死化粧専用の高密度な保湿クリームを塗る。そしてその上に死化粧を施していくのだ。

 筆を滑らせていく度、ゆっくりと、その肌が色づいていく。

 不自然に青白かった顔に赤みが差し、髪は美しく整えられている。

 その瞼は固く閉じられているが、今にも睫毛が震え出し、ぱちりと目を開きそうだった。

 まるで、精巧に作られた彫刻だ。毛穴が閉じた肌は滑らかで美しい。ぴくりとも動かない人間は、じっと見ていると本当に精緻な人形なのではとすら思える。

 いや、そんなわけないか。馬鹿げた考えを振り払うように、男は頭を振る。全ての作業工程を終えると、自分が化粧を施した遺体に向かって合掌した。


「終わりましたかぁー?」


 静謐だった部屋に、突如快活な声が割り込む。肌寒く薄暗く、不気味としか言えないこの場所には不釣り合いな明るい声音だった。


「終わりましたよ、野薔薇さん」


 男性はそう言って髪を纏めていた簪を抜く。ぱさりと黒い髪が肩に落ちた。ヘアゴムで結い直しながら、部屋の扉を開けて女性を招き入れた。


「失礼しまーす……わぁ、いつも通り綺麗な仕上がり」


 野薔薇、と呼ばれた少女にも見える年若い女性は、死化粧が施された遺体を見て感嘆の声を上げる。ショーウィンドウに並んだ人形でも眺めるように、瞳を煌めかせ、ただの少女のような顔で見つめていた。


「わたし、やっぱり供花さんのお化粧好きだぁ」


 僅かに頬を赤らめ、恍惚とした様子で野薔薇は呟き、照れたようにショートボブの髪の毛先をいじってはにかむ。その仕草や言葉使いの幼さが纏っているスーツと不釣り合いに思えた。供花と呼ばれた男は死化粧に集中して体力を使ったのか、少々疲れた様子で彼女の発言に律儀に返す。


「お気に召したようで。もしあなたが死んだら、私が化粧をしますよ」


「それは勿論。わたし、遺書にも『葬儀は供花さんにお願いします』って書いてあるんだから」


 そうですか、と供花はあまり真剣に受け取っていないようでぼんやりと返しながら、懐から名刺を取り出して不備や異常がないか見回す。


「野薔薇さんも確認しておいてください、これからお通夜ですから」


 供花が見せた名刺には、『供花葬儀社 供花ソウカ』と書かれている。野薔薇も、わかっていると言わんばかりの得意げな表情で『供花葬儀社 野薔薇トモシビ』と書かれた真新しい名刺を掲げた。

 供花葬儀社代表取締役、供花ソウカ。何代も世襲され受け継がれ長く続いてきた供花葬儀社の現在の主であり、優秀なエンバーマーであり、死化粧師だ。

 エンバーマーとは死体の防腐処理を行う職の人間、死化粧師はその名の通り防腐処理を終えた死体に死化粧を施す仕事を担う者。供花はそのどちらも自分でこなす。更には葬儀のプラン立てや遺族のアフターケアまで完璧に行えるオールラウンダー、言わば葬儀のスペシャリストだ。

 その化粧の腕と死者に送る弔意、葬儀の丁寧さは有名で、宗教学にも明るく葬儀形態に関わらない手厚い弔いを行う事で信頼を得ている。会社の規模こそ小さいが、それは「狭く深く」を掲げた経営方針故だ。彼が行う葬儀では一定のクオリティが保証される。

 供花葬儀社はそれなりに有名な葬儀屋で、依頼は絶えない。本日行われている通夜も本来なら休日であったはずの供花が請け負ってしまった依頼だった。

 慌ただしくも通夜は順調に終わり、その翌日には葬儀が行われる。まだ葬儀に慣れず手間取っていた野薔薇にお手本を見せるように、供花は手際よく葬儀の手続きを済ませていた。

 火葬の終了を前にして、供花は何度も野薔薇に対して同じことを言い連ねていた。耳にタコができるほどしつこく聞かされた事だ。


「もう一度言いますよ。ここの手順は……」


「さっきも聞いたよ、供花さん。いくらわたしが新人だからって、そんなに念を押さなくてもいいじゃん」


「失礼。野薔薇さんは少々不注意で不謹慎なところがあるので、しつこいくらいが丁度いいかと」


 口では謝っておきながら、供花の口は再度先ほど言いかけた手順を説明していた。


「火葬が終わったら、骨上げ……遺族方に骨を拾い、骨壷に納めていただきます。同時に、肋骨を砕いて欠片を人数分を確保しておきます。いいですね?」


「はーい」


 骨上げとは、遺骨を骨壷に収める一種の儀式だ。収骨とも呼ぶが二つの言葉の意味に差異はない。野薔薇は葬儀社に入って真っ先に教えられた事を反芻する。

 ちらりと見てみると、供花の手には、重々しいハンマーが握られていた。細く白い手にひどく不釣り合いな、無骨な道具だ。

 暫くした後に、すっかり肉が焼かれて削げ落ちた骨が供花達と遺族の元に運ばれる。運び込まれたそれに、野薔薇は僅かに息を呑んだ。

 その骨は、ひどく美しかった。

 透き通った緑と青が混ざり合っていて、深い湖のようなグラデーションを作り上げている。それは背骨に特に顕著で、どんな色をパレットに取り出したとしても再現は不可能だろうという色だ。少し煤けて色褪せて、それでもなお美しい頭蓋骨が網膜に焼き付く。

 人の骨は一人一人色が違う。だから千差万別なのだが、こんなにも美しい骨は——蛍石は、そう滅多にお目にかかれないだろう。

 そういえば、と野薔薇は思い返す。確か、はるか古代の人間は骨が白くて、宝石ではなかった、という話を聞いたことがあった。

 現在、人間の骨は自然界に存在する鉱石、蛍石と全く同じ成分と色味をしている。現在、という言い方をしているが、人類史が始まって以降、確認されている限りずっとそうだ。骨が人間以外の獣と同じように、蛍石ではなくカルシウムで構成されているなんて与太話、信じられるものではない。

 もし本当に太古の人間の骨が蛍石ではなかったとしたら、彼らはなんて可哀想なのだろうか、と野薔薇は憐憫を禁じ得なかった。目の前の遺骨を眺めながら、心からそう思う。


「こんなに綺麗なものが自分の体を構成してるなんて、すごい幸せなのに」


「なんの話でしょうか?」


思わず口から溢れていた野薔薇の呟きに、供花が少し呆れたように冷ややかな視線を向けている。なんでもないよと誤魔化す彼女に興味なさげに空返事を返すと、供花は肋骨を一対丁寧に抜き取って台座に乗せた。

 そして、静かに息を飲む遺族たちに目配せをすると、手に持っていたハンマーを振り下ろす。

 乱暴な手つきではなかった。むしろ、慈しむような優しさだ。敬意と弔意を以て槌は振られているのだ。わたしもこんな風に骨を砕かれたいな、と野薔薇は思う。

 肋骨の形の蛍石。砕かれたそれは、全て正八面体の形に割れ飛び散った。供花はその欠片を一つずつ遺族全員の手に配布する。彼自身の手にも、同じように翡翠のような色をした蛍石が乗っていた。


「説明させていただきます。この欠片は暫くみなさまの手元にて預かっていただきます。管理の方法は如何様にもして構いません。しかし、四十九日後に必ず、これを飲み込んでいただいます。それにて亡くなられた方に最大限の弔意と、あの世と来世での平安、閻魔の沙汰にて無事に極楽浄土に行けるように願うのです」


 供花の静穏な、しかし凛とした声は、静まり返った葬儀場によく響く。

 骨上げの際に関わった人間は、全員蛍石の欠片を四十九日後に飲み込むのが葬儀の慣わし。それはつまり、依頼を受けた葬儀屋としてこの葬式に携わり、その手で骨を砕いた供花も欠片を飲まねばならないという事だ。

 遺族全員が神妙な面持ちで手のひらの宝石を見つめている中、野薔薇はこっそりと供花に近づいて耳打ちをする。


「供花さん、それ、わたしは飲んじゃダメなの?」


「いけません。あなたはまだ葬儀屋の見習いで、ただ見ていただけでしょう。それだけで関わったとは言い難い。遺骨を飲み込む行いも、死者のあの世での平静を願っての意味ある行為なのですから、中途半端に関わるのは一種の侮辱ですよ」


 供花はそう言って、蛍石を清潔な白いハンカチに包み込む。それがもう一度日の目を浴びる事になるのは、四十九日後だろう。


「さて、処理を終えたら事務所に帰りましょう」


「はーい」


「『はい』は伸ばさず。私的な場では良いですが、公私混合はしないように」


「はいっ」


「良い返事ですね」


 供花はそう言うと、軽く野薔薇の頭の上に手を置いて撫でるような仕草をして、それからすぐにはっとばつが悪そうな顔をして手を離した。


「……もっと撫でてくれてもいいのに」


 少し頬を膨らませて拗ねたように野薔薇は言う。供花は呆れたような表情をして、やれやれと肩をすくめた。


「……あなたには、レディとしての自覚が足りませんね。野薔薇家のご令嬢でしょう」


「令嬢って、そんなに偉い家じゃないよ、わたしのところ」


「家柄は関係ありません。あなたは野薔薇さんの家の大事な一人娘なのですから、そう簡単に他人に体を許してはいけませんよ」


 むぅ、と野薔薇は更に頬を膨らませる。それを見た供花は、ひとつため息を吐いた。


「まあ、撫でてしまった私が言える事でもないんですが。……上司である私が手を出したと、あなたのお父様に思われるわけにはいきませんから。御尊父は草葉の陰からあなたを見守っているのですよ」


 それはつまり、あなたと行動を共にしている私も、監視されているようなものなのです、と供花はほんの少し冗談めかして言う。


「あなたはまだ半人前にも満たない。葬儀屋としても、人間としても。だから見学だけに留めていて、だからまだ私のあなたは対等ではない事をよく理解してくださいね」


 野薔薇が頷くと、供花は満足げに微笑む。また彼の手が野薔薇の頭に伸びて、途中でハッとした彼はすぐに手を引っ込めた。

 誤魔化すように頬を掻き、次に懐から小さなジップロックを取り出す。丁重に綿で包まれている中身のものが供花の白い手に取り出される。それは、紫がかった青色の石、蛍石だった。先程砕かれた骨とはまた違う色合いだ。

 野薔薇が首を傾げてそれを見ていると、供花は「四十九日前にお亡くなりになった渡橋様の遺骨ですよ」と言う。

 先ほどの石とは明確に違う、少しくすんだ色合い。しかし、それでもやはり美しい。野薔薇が凝視していると、供花がやりづらそうに眉尻を下げた。細い指先が手のひらのそれを摘み上げる。ただそれだけで、宝石が甘く煌めく飴玉のように見えた。そしてそのまま、蛍石は供花の口元に運ばれる。

 白い歯と、赤い口内。宝石を乗せた舌。口が閉じられ、喉仏が下がる。ごくり、という音で蛍石が嚥下されたのだとわかった。

 宝石を飲み込む。ただそれだけの行為なのに、その所作のひとつひとつが何故だかとてつもなく妖艶で扇情的に思えた。


「……やっぱりわたし、供花さんが好きですよぉ」


「はいはい。私を揶揄う暇があるならもっと私を観察して参考にしてくださいね」


「観察してるから好きなんですー」


 野薔薇の精一杯のアピールに、供花はまるで子供に対応するようにあしらっていた。野薔薇はまだ高校を卒業したばかりで、供花にとってはきっと子供の域を出ないのだろう。


「供花さん、わたしが一人前になったらちゃんと恋愛対象として見てくれますか?」


 最早この言葉自体が一種の告白なのだが、供花は慣れたようにそれを聞き、一つ頷いた。


「……良いですよ」


 少し悲しげな笑みを浮かべた彼の手を野薔薇は掴み、自分の頭に持ってきて、自分の頭を撫でるような動きをさせた。男性らしく大きな掌。蛸の硬さが目立つけれど、それでも心地良い。すぐに振り払われてしまったが、ほんの少し撫でられただけでも野薔薇は幸せだった。


「ふへへ」


 野薔薇は思わず頬を綻ばせて、だらしのない笑みを浮かべる。こういった表情が供花から幼いと思われる所以なのだろうが、嬉しいものは嬉しいのだ。


「もっと供花さんの葬儀、見せてね」


 野薔薇がそう言うと、供花は眉尻を下げる。

 彼は、何も言わなかった。翡翠のような色の瞳に、野薔薇がただ写っていた。




 野薔薇が働く『供花葬儀社』は何代も続いてきた由緒ある葬儀屋で、供花はその主。ここまでは先述したが、この会社にはまだ述べるべき事がある。

 供花葬儀社に依頼をする人間は、多くが供花の腕前を聞いて依頼する。そのため、ほとんど供花ソウカ個人への依頼のようになっているのだ。そのため供花葬儀社の仕事の負担は多くが供花に偏っており、事務員や助手のような存在は何人もいるものの、供花は非常に多忙な身だ。

 そして、葬儀屋の仕事の場は事務所ではなく葬儀場。葬儀で忙しい供花は、必然的に自社の事務所に滞在する時間が短くなる。勿論火葬場やお供え物など諸々の準備もあるのだが、それはあくまで下準備でしかなく、葬儀場の前段階でしかない。事務と実務も割合が半々だとしても、密度は実務に偏っている。

 そのため、その日の葬儀の後処理を終えて、疲弊した表情を微かに見せる供花が事務所に帰ったのは、日の暮れ初めだった。普通の社員は既に定時で帰宅の準備を始めている。


「ただ今戻りました」


「ただいまぁー」


 供花と野薔薇が声を合わせる。野薔薇は葬儀中は見学していただけだが片付けを手伝ったので声に疲労が滲んでいた。


「おかえり。ソウカ、戻ってきて早々悪いが、客人だぞ」


 二人を出迎えたのは、供花葬儀社の職員の一人、事務の他に遺体の湯灌なども請け負っている四華花六だった。撫で付けてある白髪混じりの髪に、目元の小皺が彼の老いを示しているが、彼の実年齢からして十分若々しく見える容姿だ。ちなみにだが、四華花は供花の母の弟、つまり彼の叔父にあたる。

 供花と四華花は血縁関係があるものの、彼が野薔薇に言っていたように公私混同をするつもりは互いに無いようで、二人の間では事務的な会話が繰り広げられていた。四華花の口調は堅くないが、それは全員に分け隔てなくなのでその馴れ馴れしさは彼にとっての公なのだろう。


「客人ですか……お名前は?」


「渡橋様だ」


「一月前に依頼をなさった方ですね。応接室に?」


「当然。特に何も訊かずお通ししたが、多分アフターケアだろ。はよ行ったれ」


「言われずとも」


 少しだけ軽口を交わしながら、供花は応接室に向かう。当然のように野薔薇も付いて行った。

 失礼します、とノックと共に応接室の扉を開けると同時、革張りのソファに座っていた中年の女性が立ち上がり供花にお辞儀をする。その隣では、まだ小学校低学年ほどの幼い少年が不貞腐れた表情で膝を抱えていた。


「本日はどのような用でしょうか、渡橋様」


「すいません、供花さんには葬儀でお世話になったばかりなのに……」


 女性は申し訳なさそうに眉尻を下げて、隣の子供に視線を移す。


「この子が、蛍石を飲みたくないって言うんです。もう四十九日経ったから飲まなければならないのに、嫌だって」


 ああ、と供花は納得したように呟いた。子供の小さな手には、紫がかった青色の蛍石が包まれている。一月ほど前に亡くなった渡橋の遺骨なのだろう。思い出してみれば、葬儀が終わった時に供花が飲んでいた遺骨と同じ色をしている。

 供花は静かに子供に歩み寄り、床に膝を付いて子供と視線を合わせる。きょとんと見開かれた大きな瞳に供花の穏やかな笑みが映った。


「お名前は?」


「……みつせ」


「みつせくん。いいお名前ですね。私はソウカです」


 少年はまだぶすくれた表情をしていて、ぶっきらぼうに供花の問いに答えていた。


「どうして飲みたくないのか、教えてくれませんか?」


「……だって、これはお父さんなんでしょ?飲んじゃったら、お父さんがいなくなっちゃう」


 少年はそう言って宝石を胸元に抱く。

 親離れなんかできない年頃の少年。彼にいきなり「父は死んだ」と言っても理解できないのは当然だし、死んだ父との唯一残ったよすがである遺骨をずっと手元に留めておきたいと思うのも不自然ではない。

 その心情を理解しているのであろう供花は、共感するように微笑み、そしてその手をみつせの頭に乗せた。

 いきなり頭を撫でられたみつせは目を丸くして、しかし乗せられた手に頭を委ねている。おとうさん、と彼の口が動き、目尻に涙が浮かんでいた。


「あなたのお父様は、天国に行こうとしています。そこで無事に天国に辿り着けるように、そしてあなた達を待てるように、願掛けとしてその宝石を飲むんです。さもなければ……」


「さもなければ?」


「……あなたが、一生後悔するんです」


 それは、決して脅すような口調ではなかった。ただ淡々と事実を告げる言葉だった。

 だからこそ、だろうか。側から聞いているだけの野薔薇も、恐ろしいと思った。忠告のようで、悔恨のようで、底知れない真意がその一言に詰められているように思えた。ただただ、実感がこもっていた。


「みつせくん、お父様の事は好きですか?」


 みつせは頷く。首がちぎれそうなくらいに勢いよく。


「なら、やはり飲み込まなければならないのです。それは私達生者が、死者に手向けられる供花なのですから」


 私のようには、なってはいけませんよ。

 供花の唇がそう動く。声には出していなかったが、確かに野薔薇はそれを見たのだ。


「……わかった」


 みつせが覚悟を決めたように、手のひらの宝石を見つめる。瞳は涙で滲んでいた。しかし、彼は目を逸らさない。


「……またね、お父さん」


 そう呟く、いや、あの世の父に語りかける。勿論返答はないが、別れの言葉を口に出すことに意味があるのだ。

 みつせは蛍石を飲み込む。少し苦労しながら嚥下した後の彼の表情は、どこか晴れやかだ。


「ありがとう、ソウカさん」


 みつせはそう言って頭を下げた。供花は微笑ましげに目を細めると、みつせの頭に手を置く。まるで、子の頭を撫でる父のように。


「あなた達が暫くここに来ない事を、あなたのお父様共々祈っています」





 夢を見た。

 意識がやけにはっきりとしていて、今見ているものが夢だとすぐにわかった。いわゆる、明晰夢だ。試しに頬をつねってみると、まるで綿でも掴んでいるように感触がなくて、それは今自分が見ている光景がやはり夢だという確信を裏付ける。

 大量の正八角形の蛍石が散らばる中、供花は立っていた。彼の足元を避けるように蛍石は落ちていて、ああ、遺骨を踏んではいけないからな、とやけに透徹した思考で思う。

 ぐるりと周囲を見渡すと、そこに存在するのは無明の闇。光すら吸収する漆黒。

 不思議と、供花はそれを不気味だとは思わなかった。むしろ、慣れ親しんだもののようにすら思える。

 黒は、葬儀の色。喪服の色。供花がいつも纏っている色。

 黒は、死の色。つまり、表裏一体である生も同時に象徴する色。

 死は終わりではない。始まりでもない。魂が長い長い輪廻を巡る中で、幾度もその色を迎えるのだ。鯨幕のように、交互に生と死を繰り返す。それが生物だ。それが魂だ。

 だから、黒色は恐れるものではないのだと、供花は思う。


「……ねぇ」


 突如、背後から少女の声が聞こえた。びくりと肩を跳ねさせ、しかし驚きを気取られぬように平静を努めて振り返ると、そこにいるのはどこか見覚えのある少女だった。短く切られた黒髪。撫でやすそうな形の頭。

 その手のひらには、一つの蛍石。誰かの遺骨が乗せられている。


「その胸の、飲まないの?」


 少女はそう言って、供花の胸、ちょうどネクタイで隠れているあたりを指差した。彼女の掌の宝石はするりとこぼれ落ち、地面に落ちる。

 供花が触れてみると、そこにはあるはずのない硬質な感触が二つ。正八角形の石の。問いつめるように、少女が続ける。


「見送って、弔って、あげないの?」


 その瞳は、蛍石と同じ色をしている。瞳の奥に燃え盛るような熱情が、灯火が、そこにはない。ああ、この少女は、彼女ではない。供花はそう察した。


「……僕は」


 供花は息を呑みながら、静かに返答する。

 いや、それは問いに対する答えではなかった。ただの、独り言だ。


「僕はまだ、赦されていない」


 切なげに、しかし同時に懐かしげに、彼は微笑む。視界が狭窄して、蛍石の輝きが薄ぼんやりとしたものになっていく。少女は、供花を愛おしげな目をして見送っていた。




「……こほ」


 小さな咳だった。ぐっと喉の奥に押し込めてこらえているかのようだ。それに気がついた野薔薇は、咳の発生源であろう供花に目をやる。


「供花さん、体調悪い?」


「いえ。歳ですかね、最近少し咳が出て」


 気まずそうに口元を押さえながら供花は言う。良く見てみれば顔色もあまり良くない。

 もしかして、最近の無理が祟ったのだろうか、と野薔薇はホワイトボードに貼り付けられた予定表を見る。葬儀の依頼とは当人が死んでしまった後に来るものなので前もった予約はなく、予定表はもの寂しい。しかし、逆に言えば事務仕事が少ないという事。事務仕事が少ないという事は、実務……つまり葬儀が多いという事だ。


「無理はだめだからね」


 野薔薇は供花に凄みながら、人差し指を突きつけた。彼が無理をしていないか監視していなければならないが、その前に自己体調管理を徹底してもらいたい。


「無理なんかしてませんよ。さあ、今日も仕事です」


 供花は、青が混ざった翡翠のような色の瞳を僅かに細め、長い黒髪を簪で結い上げた。


 野薔薇トモシビは、供花ソウカに恋をしている。

 愛している。恋慕を寄せている。懸想している。思慕している。

 年相応に恋をして、しかし年に不相応な大きな情愛を持っている。

 出会ってから数年間、その想いの灯火は弱まることを知らず、むしろ時を経るごとに強まっていっている。

 二人が出会ったのは、野薔薇の父の葬儀だった。

 彼女の父は熱心なキリスト教徒で、葬儀の時も火葬ではなく土葬にするようにと遺書に書いてあった。

 死因は溺死。趣味の釣りで海に赴き、そして落ちてしまったらしい。

 父は泳ぎは不得手ではない。ただ海に落ちただけなら泳いで這い上がるだろう。しかし、不運な事に、彼は海流の影響でテトラポッドの隙間に吸い込まれてしまったのだそうだ。救い上げられた時には、既にぶくぶくに膨れ上がった水死体になっていた。肌は人間らしい色を失い、不格好に膨張して、父だと判別するのも難しかった。いや、その肉塊を父だと理解したくなかっただけかもしれない。

 とにかく、父は死んだ。キリスト教の弔い方をしてやりたかったのだが、ここは仏教が主流の日本。火葬が一般的で、土葬をしてくれる葬儀屋も墓地も少なかった。

 そんな時に、母が目をつけたのが供花葬儀社だった。代々長く続く葬儀屋で、宗教や弔い方問わず、遺族の求める葬式を完璧にこなしてくれると評判がよかった。その会社が葬儀も墓地の紹介もしてくれると聞いて、母はいたく喜んでいた。

 そして、葬儀の時に供花と初めて会ったのだ。

 第一印象は、「お人形みたいなひと」だった。

 日焼けもしていなければシミひとつない陶器のような肌に、それと対照的な濡鴉色の髪。黒の喪服を纏っている事もあり、全身が無彩色だったが、瞳だけは蛍石のように色鮮やか。透き通ったアリエルグリーンのような色。作り物のように綺麗な彼は、どこか浮世離れした雰囲気を纏っていた。

 葬儀の間、父に弔意を表すと共に、時折供花を横目に見ていた。それは、本当に父が望んだ葬儀をしてくれるんだろうかという疑念の目だった。当時の野薔薇は、自分が世界に対し穿った見方をしていると思い込んだ、ただの捻くれた子供だった。だから、若く繊細そうに見える彼に期待を抱いていなかった。

 しかし、その懐疑は良い意味で完全に裏切られる。

 供花は父が望んでいたであろう葬儀を滞りもなく行った。更には、父に施された死化粧までもが完璧だったのだ。醜かった父の死体は修復され、まるでただ眠っているかのような、または父の眠り姿を人形に映し取ったかのような仕上がりになっていたのだから。

 キリスト教の葬儀では火葬を行わないから、代わりに肋骨を何対か抜き取って砕いて飲むのだと、そう言っていた。父の死体は、肋が一対無い事なんてわからなかった。

 美しいと思った。

 外面が美しいだけではない。所作や言葉遣い、他人への接し方。ついには施す化粧まで美しいものだから、美しいひとが生み出すものは必然的に美しくなるのかとすら思ってしまったほどだ。

 きっと、その時には、野薔薇は供花の虜になっていたのだろう。

 高校を卒業後、野薔薇はすぐに供花葬儀社へ入社した。

 野薔薇は、父の葬儀の日からずっと彼から目を離せないでいた。

 そして、そんな彼女の目は供花の変化を見過ごさない。

 体の動きが鈍くなっている。関節や体の節を痛がるような素振り。食欲の減衰。そして、触れられることを避けるようなった。風邪を引いたのかと一瞬思ったが、嫌がる彼の額に無理やり触れても発熱している様子はない。

 極め付けは、明らかな睡眠不足。今までコンシーラーで隠されていた隈だったが、隠しきれなくなってきている。これは身だしなみに気を遣う彼らしからぬ事態だ。

 彼女なりにそれとなく探ってみても、不調の原因はわからない。ただ、彼が何かに思い悩み、心身共に疲弊しているらしい事がわかるだけだ。

 供花は、いつでも完璧であろうとする人間だ。自分の弱みを他人に見せる事は、万に一つもありえない。野薔薇がいくら追及したとしても、絶対に口を割ることはないだろう。


「……とゆう訳で、どうしよう、四華花さん」


「どうしてそれを俺に相談するんだ」


 デスクの前で隠す気もない渋面を作っている四華花が不満げにぼやく。


「だって、供花さんの事昔から知ってるんでしょ?」


「そら、ソウカのやつがちっさい頃からの知己ではあるがな……俺はあいつの親でもなんでもないんだぞ」


 そう言って四華花は呆れたようにデスクに向かい合う。どうやら何かの書類作りをしているらしい。やはりわからないか、と半分諦めかけて踵を返した野薔薇の背中に、けど、と言葉がかけられる。


「けど、ソウカが何に悩んでるかの心当たりくらいなら、あるかもしれん」


「なら」


「しかし、話せんな」


 期待をばっさりと断ち切るように、四華花は言う。


「あいつの心境はあいつにしかわからない。俺がとやかく言ったところで憶測の域を脱さない。ところがどうだ、憶測だろうが原因を言ったりしたら、お前猪突猛進にあいつのところへ行って追及するだろう。それがあいつの傷を抉るかもしれないなんて、露ほども考えずに」


 四華花は眉を顰め、ココアシガレットに齧り付く。彼は元喫煙者だったらしく、禁煙したもののその名残で棒状の菓子をよく食べているらしかった。


「……期待させるだけさせといて、それはないんじゃないですか」


 野薔薇は珍しく怒気を纏わせている。しかし、まだ年若い女である彼女が凄んだ所で四華花はどこ吹く風だ。


「知るか、自分で考えろ。学校でも習ったろ、宿題は答えを写しただけじゃやったとは言えない。答えだけ見て分かった気になるなって。俺は答えにはなれるが本当の理解はそれじゃ得られない。お前が本当にソウカの事を理解したいなら俺に頼るな」


 四華花は簡潔に言うと、もうこれ以上言うことはないとばかりにデスクに向かい直した。


「ならもう、実力行使しか……」


 野薔薇は呟きながら廊下に出る。人がいないそこはひんやりとどこか冷たい空気が流れていた。


「何を行使するんですか?」


 肌寒い廊下で、供花の声が響く。彼の腕には分厚いファイルが抱えられていて、事務仕事中なのだとわかった。野薔薇の奇妙な独り言を聞いていた彼は胡乱げに首を傾げている。


「……供花さん」


 野薔薇は、小さく彼を呼んだ。彼女が纏う雰囲気に異様な何かを感じたのか、供花は少し眉を顰めて、一歩後ずさる。

 かつ、かつ、と野薔薇が一歩供花に近づく度、足音が反響した。野薔薇は首元からネクタイをするりと外す。

 ハニートラップでも仕掛けるかのように、その動きは妖艶だ。舌なめずりをする。ネクタイを握り直す。その一挙一動が先ほどの幼い印象を抱く野薔薇とは全く異なっている。その変質に、供花は少なからず動揺を見せていた。照れだとか欲を煽られたとかではなく、ただ単純な当惑。

 野薔薇は彼に、まるで蛇が絡みつくように体を寄せる。供花の細い首筋に指をなぞらせ——そして、解いたネクタイをそこに巻きつけた。


「っな……⁉︎」


 供花の足を引っ掛け、同時に肩を押すと存外簡単に供花はバランスを崩し、地面に倒れる。野薔薇は彼の腹の上に馬乗りになると、供花の首に巻いたネクタイをきつく絞めた。

 かふ、と肺と気道から空気が搾り出されるような音。突然、殺意も何もなく本当に突然に扼殺されそうな状況に陥った供花は、しかし冷静に野薔薇の目を見た。

 新たな酸素を取り込めないから言葉をうまく発せないようだが、供花の瞳は彼が言いたい事を雄弁に語っている。そして、野薔薇はそれを理解できる。あまりに異様な状況だが、二人の会話は成り立つのだ。


「か、ぐ……何故……」


 酸素を求めるように供花の手が宙を泳ぎ、そして首から伸びたネクタイを掴んだ。成人男性である供花と年若い女性である野薔薇とでは膂力に差があるが、供花は酸素不足でまともに体に力を入れられないようで、抵抗はほんのささやかなものになっている。


「なぜって、供花さんがわたしに話してくれないからでしょ?」


 当然の事のようにきょとりとした表情で、野薔薇は言う。供花は憤然とネクタイを掴む力を強くした。


「そんな、理由で……!」


「供花さんの言いたい事わかるよ。『そんな理由でこんな暴挙をしてはいけません。何が目的はわからないですが、とりあえず冷静になりなさい』でしょ?」


 首を絞められてまともに言葉を紡げない供花が、図星を突かれたようにぎくりと体を震わせる。そのかんばせは苦悶に歪められても尚美しく、そして不可解そうにしていた。

 不快気だとか命が惜しそうにしているだとか、そういうのではない。ただただ、野薔薇が供花の首を絞めるという行為を何故行っているか理解ができず、首を傾げているだけだった。

 その、恐ろしいまでの自分の命への執着の薄さ。


「供花さんさ、わたしや四華花さんがいくら言っても不調の理由を話してくれないでしょ?だったらさ、ここで気絶させて病院に行かせた方が早いんじゃないかって思ったの」


 供花が怪訝そうに眉を顰める。野薔薇の言っている事は理解したが、共感は欠片ともできない。そんな表情だった。


「それ、で……手の痕がのこらないように、ネクタイです、か……」


 首にあからさまに手形が残っていたりしたら、確実に事件性があるとして野薔薇が疑われる事だろう。供花は野薔薇を訴えるような事はしないという謎の確信があるが、刑事事件とみなされて警察の捜査が入ったりしたら面倒だ。

 供花は薄く微笑む。考えましたね、と褒められている気がして、野薔薇はその笑みを深めた。

 そして彼女は、供花の首に絡みつくネクタイを一層キツくした。何かを言おうとした供花が、あ、と掠れた声を出した。半開きになった唇から指を捩じ込み、口を無理矢理に開けさせる。

 それは医者の真似事だった。喉が腫れていたりしたら何かの病気である事は確定だし、そこを追及してしまえば彼も言い逃れできない。そう踏んでの行動だったが……野薔薇の目は、供花の口の奥に何かを見つけた。

 腫れではない。喉の奥から微かに反射した光を放つそれは、腫瘍なんかよりもずっと美しく、そして、見慣れている。


「供花さん、これ……」


 野薔薇が疑念を確信に変えるために発しようとした言葉を遮るように、供花は彼女の手を振り払う。一瞬の油断のせいで腕が払われ、締め付けが緩んだ。供花はネクタイを抜き取るように外すと、咎めるような目で野薔薇を一瞥する。


「どのような目的があって、それが私のためだと思ったとしても、いきなり首を絞めるのは如何なものかと」


 供花は苦しげに咳き込みながら苦言を呈し、ふらふらと立ち上がった。


「けど……」


「わかりましたね?」


 連ねられようとする言い訳を断ち切るように、有無を言わせない口調で供花が凄む。


「……はい、供花さん」


 野薔薇は、あくまで供花の部下にあたる立場だ。それを抜きにしても彼女が彼の首を絞めたのは事実だし、野薔薇は弱みを握られている状態にある。

 供花は穏便を好む。そして野薔薇に対して、まだ彼女が未熟な人間である事を考慮して、少し対応を甘くしている。だから野薔薇が何をしようと警察に訴えに出る事はあるまいと踏んでの暴挙だったのだが、それでも彼が出るところに出れば犯罪として処理される行動を起こした事には変わりない。野薔薇は目的のために愛する人間の首を縊る事は厭わないが、それが世間にとってどんな風に捉えられるか位はわかるのだ。

 つまり、野薔薇は供花に従うほかなかった。




「……供花さぁん、今日の依頼はー?」


「本日は三河さんのご遺体の湯灌とエンバーミングです。六さんも同行するので」


 供花は書類に目を通しながら淡々と言う。

 野薔薇が供花の首を絞めた事件以降、二人の関係に特に変化は生じていない。締め痕はスーツの襟で隠れているし、供花自身も大事にする気はないようで、まるで何事もなかったかのような対応をしていた。

 けれど、変わらないのは人に対する接し方だけ。やはり供花はだんだんとその動きを鈍くしている。まるで全身に鈍痛が走っているかのように緩慢な動き。


「死亡確認は今日の九時。一人暮らしの自宅にて異臭騒ぎで死体が発見されて、死因は失血。手首を斬った後水をためた浴槽につけていたようです。事件性は認められない自殺ですね。明日に通夜を行うので、今日の午後までに処置を終わらせて遺族方との打ち合わせを行います」


 供花はメモに書き取りながら足早に説明をした。三河という男性の自殺と思しき突然死はニュースで軽く報道されていたので野薔薇も軽く知っている。自殺。孤独死。言い方は悪いが、この職業であれば特段珍しい事でもない。

 遺体は現在病院に安置されていて、防腐処理を終えたら供花葬儀社の設備で安置をするらしい。実家が遠く、病院にもそう長く置いておけないので電話口で相談してそう決めたようだ。

 特に付いてこいとは言われなかったけれど、付いてくるなとも言われなかったので野薔薇は当然のように供花に付いていった。車の運転席に座った四華花がちらりと野薔薇を見て、けれども何も言わずにアクセルを踏む。


「……ソウカお前、いつにも増して調子悪そうじゃないか?」


「大丈夫です、六さん」


「姉さんと義兄さんが死んだ後、お前の面倒見たの誰だと思ってる? そんなんお見通しだ。言っとくが心配とかじゃない、お前の体調不良で仕事に支障が出ないかって話をしてるんだ」


 四華花はぶっきらぼうに悪態をつきながら、助手席に座る供花を横目で見た。供花の顔色は明らかに悪い。元々から白い肌は血の気を失って青白く、時折呼吸をするだけで体を強張らせている。


「平気です。父さんと母さんの誇りにかけて、仕事に支障はきたしませんから」


 四華花は更に眉間の皺を深くする。仕事では、って事はプライベートでは平気じゃないって事だろうが、と小さな文句が聞こえた。


「……供花さんの両親って、どんな方なんですかぁ?」


 野薔薇は訊く。完全な興味だった。口ぶりから彼らが死んでいるであろう事は察しがついていたが、不謹慎だとかそういった気遣いは全くない。実際、供花も特に気にしていないようで、供花は口元に手をやり、瞑目して思い出すような素振りを見せて、そして、穏やかな微笑みを見せた。


「葬儀屋としてこれ以上なほど素晴らしい人達だったと記憶しています。葬儀に携わる全ての物事に敬意を払い、最大限を尽くす。私の憧れです」


 供花はそう言って微笑を野薔薇に見せた。アルカイックな、人間として完成された美である事を錯覚させるほどの美しい笑み。


「生きては……ないですよね」


 一応確認を取るために野薔薇は問う。首肯したのは四華花だった。


「ああ。こいつが中学生になったばかりくらいの時に二人揃って死んださ」


 供花の代わりに四華花が答える。続けて、葬儀場での火事だった、とワントーン落ちた声音で言われた。


「姉さん達は、遺族全員の避難誘導のために最後までそこに残ってた。自分達もさっさと逃げちまえばよかったものを、遺骨が収まった骨壷を優先して火葬場に取り残されて。姉さんは帰ってこなくて姉さんと思しき骨片がいくらか回収されただけで、義兄さんは個人の判別も難しいくらいの大火傷負って即死せずじわじわ死んでったのに、最期の言葉は『骨壷は無事か?』と『ソウカをよろしく』だったもんだ。喉まで焼け焦げて呼吸をするだけでも激痛だったろうに、ほんとイかれてるぜ」


 四華花は指でとんとんとハンドルを叩きながら、苛立ったように語る。命あっての物種って言葉知らないのか、と彼は呟いた。語り口調こそ冷淡だが、なんとなく、彼は二人に生きていて欲しかったんだな、と野薔薇は思う。


「私は当時将来の事を考え始めたばかりでしたから、それをきっかけに葬儀屋を志したんですよ」


 あくまで穏やかに、供花は言った。中学生の時に両親を失って、彼らが殉じた職務を憧れとする事でその死を消化したのだろう。野薔薇は死の悲しみを供花への憧れと恋心で塗りつぶした。きっと、それと同じだ。幼い心に身近な者の死は相当に堪える。だから別の感情で誤魔化す事が最大の心の防御だったのだ。少なくとも幼い野薔薇はそうだった。


「……供花さんは、ご両親の事大好きだったんですねぇ」


「ええ、勿論。人生の最期を彩る役目は誇らしいもので、それに我が身を捧げた彼らは葬儀屋としてこれ以上ないほど優秀でした」


 親としても立派でしたよ、と供花は懐古するように微笑み、目を閉じる。葬儀屋としてでなく、親子としての思い出があるのだろう。それは供花だけの思い出で、野薔薇にも、血縁者である四華花にも共有できないものだ。


「無駄話はそこまでで。着きましたよ」


 話し込んでいる間に、遺体が安置されている病院まで着いていたらしい。どこか覚束ない足取りの供花が車から降りる。気遣わしげな二人の視線を受けて、誤魔化すように彼は微笑んだ。作ったような、無理をしているような笑みで。


「憧れがあるからこそ、この程度の不調で休んでいる場合ではないのです」


 髪を簪で纏め上げた彼は、滲む冷や汗を拭いながら繊手に手袋を嵌めた。




 遺体の防腐処理は、供花の手腕と四華花のサポートによりいつもより早く終わった。四華花は供花が葬儀社を継ぐまでの数年の間、今の供花のように働いてた事もあり、慣れた手つきで供花を手伝っていた。

 湯灌も防腐処理も終え、暫くの暇ができる。供花葬儀社の安置所まで運び込むのは遺族に遺体を確認してもらってからだ。遠方に住んでいる遺族が訪れるのは夜になるらしいから、数時間の余暇が空いた。


「どうします? 事務所帰りますか?」


「今から戻っても行き帰りの時間含めたら長い時間は居れないだろ。こっちで待機しておいた方がいい」


「そう、ですね……」


 供花が浮かない表情で四華花の言葉に答えた。壁にもたれかかった立ち姿はあまりに弱々しい。

 彼の体調は、見るからに悪化している。遺体の防腐処理中は作業に集中していたからかそうでもなかったのだが、終わった途端にみるみる内に血の気が引いていっていた。


「供花さん、その顔色は休んだ方が……」


「動物同治」


「え?」


 供花が唐突に口に出した単語に、野薔薇は面食らう。俯いたまま、供花は続けた。


「体の部位……例えば、肝臓が悪いとします。それを治すのに、他の動物の健常な肝臓を喰らう事が治療に有効である、という考え方です。眼球なら眼球を。肺なら肺を」


 淡々と、恐ろしいほどに無感情な声音で、供花は説明をする。


「それはつまり、取り込んだ物質の性質を、体が真似るという事です。健康な内臓を食べたらそれを真似て健康になる。全てが模倣」


 なら、と供花は下げていた頭を上げて、戦慄に強張った表情をしている二人の顔を見回した。

 緑と、青と、紫が混じり合った美しい色。そこで野薔薇は気がつく。

 以前までの供花の瞳の色と違う事。

 そして、その色が蛍石に酷似している事。


「なら……蛍石を取り込み続けてそれを模倣した人間は、蛍石になってしまうのでしょうか?」


 その一言を皮切りにしたように、突然供花が地面に頽れた。意識のない人体がリノリウムに投げ出される重い音。ぷつりと糸が切れたように、倒れてしまったのだ。


「ソウカ? おい、ソウカ!」


 一瞬呆気に取られていた四華花がいの一番に供花に走り寄る。同じように呆然としていた野薔薇も、それに追従するように供花に触れた。

 彼の体は、ひどく冷たかった。まるで死体のように人間らしい温もりがない、無機質な温度。同時に、硬質な感触がした。死後硬直が起こった死体でも絶対にならないような、まるで、宝石でも触っているかのような。

 そこまで考えて、野薔薇は恐る恐る供花の手に触れる。白い手袋を被った、細い手。いくら節張っているといってもあまりに不自然な、人間らしい柔らかさが一切消え失せている手。

 まさか、と思った。

 一瞬よぎった思考が現実になっていないように、ただ願いながら、ゆっくりと手袋を外す。

 そして、その下に隠されていた供花の手を見て、野薔薇はやけに冷静にそれを見つめていた。

 緑と、紫と、青。それが混ざり合い、グラデーションを成している、透き通った美しい宝石。


 供花の手は、蛍石に変化していたのだ。





 人間とは模倣をする生き物だ、というのが供花の持論だ。

 親の姿を見て子は育つ。憧憬を胸に人は大人になる。誰かの行動を見て人は学ぶ。

 動物同治も、その模倣の一つなのだというのが供花の考え方。長期間にわたってあるものを摂取し続けたら、それの形を体が勝手に模倣する。仕方がない事だ。

 そして、供花はおそらくこの世で一番と言っていいほど大量に蛍石を飲み込んできた人間だ。日々葬儀屋として奔走し、幾つもの葬儀に関わってきたから、その分飲み込む遺骨の量も常人とは桁違い。

 数ヶ月前から、体の蛍石の模倣は始まっていたのだ。


 意識が暗闇から浮上する。その瞬間、関節から広がる鈍痛に呻き声を上げた。


「起きたか」


「……六さん」


 ぼんやりと不明瞭だった視界が焦点を結び、上からこちらを覗き込んでいる叔父の姿を捉えた。その表情はいつもと代わりないように見えるが、よく見れば眉尻がほんの少し下がっていて、付き合いが長い供花は心配してくれたのだなとすぐにわかる。

 彼の姿の向こうに見えるのは、白く清潔な天井。ベッドサイドの機械類から、病院の一室である事はすぐに理解した。


「お前、こんな大事を俺たちに相談せず、病院にもきてなかったのかよ」


 四華花が眉を顰め、不愉快そうに供花に言った。


「……言ったら、あなた達は絶対に入院を勧めるでしょう?それでは駄目なんです。私は一人でも多くの人間をあの世に見送らねばならないんです」


 まるでそれが義務であるかのように、強迫観念に囚われた様子で供花は慄く。いや、実際にそれは義務なのだ。供花にとって、絶対に成さなければならない事なのだ。


「だからって、こんな風に倒れたら結局同じだろ。暫く入院してもらうぞ」


「いえ、すぐに事務所に戻ります」


 供花はベッドから立ち上がり、置かれていたスーツのジャケットを掴んで頼りない足取りで進む。僅かに動く度に関節から軋むような音が鳴って、供花が痛みを堪えるように体を強張らせていた。


「やめろ! それ以上動いて腕がやられでもしてみろ、お前は二度と死化粧なんてできないぞ!」


「わかってますよ! けれどもう手遅れです!」


 二人の低い叫び声が交錯した。なに、と四華花が呆然と呟く。


「自分の身の事は自分がよくわかってる……とは、言いません。けれど感覚でわかるんですよ。僕の腕は、既に人間の腕じゃない。神経の末端に至るまで全て、蛍石になっているんです」


 供花はそう言って、右手を差し出す。爪の先まで宝石の輝きを放っていて、もはや人の体の一部とは思えない。誰かが作った彫刻作品のような宝石。二の腕のあたりから人間の肌の色が混じってきているが、そこまで蛍石に変化するのも時間の問題だろう。脈動と共に、じわじわと宝石が侵食して、供花の体が変質していっているのだから。


「病院は人が治療を受けに来る場所であって、人が健康になる事を強制する施設ではありません。だから僕は、治療を受けない事を選択します。どうせ治らないんだから、残された時間を有用に使いたい」


 供花は毅然と言う。放置していたら蛍石化が心臓や脳まで及んでしまうかもしれないのに、その蛍石と同じ色の瞳に恐怖は一片も混じっていなかった。

 ただただ、愚直なまでの使命感……いや、違う。罪悪感、だ。

 四華花は知っている。彼を突き動かしているのが、贖罪である事を。


「ソウカ、お前……姉さんと義兄さんがそんな事を望んでいるとでも思ってるのか?」


「思ってないでしょうね。けれど、これが僕ができる最大の手向け。あの時の我儘の代償ですよ」


 供花は、微笑む。自虐的に、自嘲的に。笑みの形をとった、自責のように。


「確かに、お前は四十九日にあの二人の骨を飲まなかった。それは弔意を表さず、極楽浄土行く事を願わない……いや、その権利を奪う、残された側の人間のタブーだ。……だからって、あの二人がどうなったかなんてわからないじゃないか。あんな善人だった二人が地獄に落ちるわけがない。自分の親を信用しろ」


「父さんも母さんも信用はしてますよ。あの二人の行いは紛れもない善行でした。あの二人の本質は明らかな性善でした。それなのに僕は、二人の死を拒絶し、遺骨を飲み込まなかった! 葬儀屋としてあるまじき罪を僕は犯した。二人は、どんなに僕に失望した事でしょう!」


 供花は絶叫する。気がつけば、一人称が「私」から「僕」に変わっていた。幼い頃から彼を見ていた四華花は、それが供花の、『供花葬儀社の供花ソウカ』ではなく『ただの供花ソウカ』としての本来の言葉であることを理解している。

 供花は他人に素の自分を決して見せようとしない。葬儀屋としての仮面を常に被っている。だからこそ、「僕」という一人称を使っているのは異常なのだ。彼の憧れの仮面が剥離している証拠。


「僕は罪を償わなければならない。父さんも母さんが殉じた職務に、僕も同じように身を捧げる事でようやく贖罪は完遂されるのです」


 だから、と供花は一つ息を吸い込む。

 供花にとって両親が敬愛すべき同業者である事と同時に、四華花も私淑している人物だ。死せる人を見送る時に最大限に敬意を送るのと同じで、尊敬するものには表敬を躊躇わないのが供花のポリシーだ。しかし、供花は生まれて初めてそれを返上した。


「邪魔するなよ、叔父さん」





「……供花さん」


 もたれかかっていた壁から離れて、野薔薇は供花を呼ぶ。ジャケットを羽織りながら歩く彼は横目で彼女の姿を捉えると、粛々と業務的に訊いた。


「ご遺族との打ち合わせは?」


「わたしと四華花さんで終わらせた。明日がお通夜、明後日のお昼から葬儀」


 言いながら、より詳細な情報を書いたメモを彼に渡す。供花はそれを一読すると、丁寧に畳んで胸ポケットにしまった。


「何があろうと、三河さんの葬儀だけは終わらせますよ」


 その言葉で、野薔薇は胡乱げに目を細めた。そんな、三河さんの葬儀だけで手一杯みたいな。その葬儀で、最後みたいな言い方。


「……終わらせる、気なんですね」


 野薔薇の言葉に、供花は返さなかった。




「三河様に弔意を表して……」


 尚香を終えた三河の葬式で、閉式の辞を供花は口にする。


「それでは、皆様に棺の釘打ちをしていただきます。その後は霊柩車にて火葬場まで運ばせていただきますので、その際は遺族、親族方はついて頂き、骨上げを行ってもらいます」


 マスク越しのくぐもった声がマイクで拡声され、葬儀場全体に広がる。供花のマスクは決して風邪などではなく、頬まで進んだ体の蛍石化を隠すためだ。


「供花さん、平気?」


「何がですか? それより、霊柩車は」


「もう来てますよぉ」


 野薔薇が心配する言葉をかけても、何事もないかのように供花は振る舞う。

 そんな訳がないのに。今だって、全身の痛みを耐えるかのように歯をキリキリと食いしばっているのに。額に流れる脂汗が決して「平気」ではない事を物語っているのに。

 野薔薇の気遣わしげな視線に気がついたのか、供花は一つ溜息を吐いてまたせかせかと働き始める。


「遺影や骨壷の包みの準備もあります。突っ立っている暇はありませんよ」


 供花は激励の言葉を残して裏手に消えていく。

 確かに、供花の言う通り道草は食ってられない。まだまだ業務は残っていた。

 火葬場まで同行し、炉に入れられる棺を見送った時、訳もわからず寂寞とした感情に囚われた。蛍石になってしまった供花の体は、どうやって弔えばいいのだろうかと考える。

 野薔薇はまだ葬儀屋として未熟で、だから供花の葬儀は四華花が行う事になるのだろう。彼の葬儀に自分は携われなくて、もしかしたら彼の骨を、蛍石を飲み込むことも許可されないかもしれない。

 せめて、私が一流になるまで死なないでほしい。

 栓なきことと知りながら、そう考える事をやめられなかった。

 遺体が炉で焼かれ、骨のみになるのを待っている間。ずっとぐるぐると考え続けて——思考に水を差すように、突如巨大な警報音が耳をつんざいた。


「っ、何……⁉︎」


 ジリリリ、と轟音。学校での避難訓練でしか聞いたことのない警報音に不安が煽られる。周囲では同様に事態を飲み込めていない遺族達がざわめいていた。


「皆様!」


 動揺の声も、警報すら塗り潰すような、今まで一度も聞いたことがないくらい焦燥を含んでいる供花の大声。


「ご遺体を火葬中の炉から火事が起こりました! 皆様、迅速に避難してください!」


 供花は立ち竦んでいた職員に激を飛ばし避難誘導を指示する。ピクトグラムが描かれた緑のマークは素知らぬ顔で発光していた。

 一様にみんな同じ避難口に駆け込んでいく。葬儀社の職員も、遺族も分けて立てなく、唐突に現れた死の恐怖に慄いていた。そして、そんな中で供花は人波に逆らっていく。


「なにしてるんですか」


 呼び止めて、彼の手を握った。悲しいくらい冷たい宝石の手に、野薔薇の体温が移っていく。


「三河様の遺骨を回収します」


「出火元の、何百度もある炉の中に? 自殺行為以外の何物でもないですよ」


 そんな事を知らないくらい、あなたは無知でも素人でもないはずだ。頼むからやめてほしいと、そう願いを込めて言った。しかし、供花はそんな野薔薇の考えなんて知らないとばかりに首肯する。


「ええ。炎の中だろうか、遺骨は回収しなければ」


 当然の責務のように、彼は言ってのける。


「私の体は今、半分以上が蛍石になっています。普通の人間より耐火性能は高い」


「だからって、人間の部分も残されてる! 絶対に死にますよ、少なくとも残されている人間の部分は」


「構いません。父さんと母さんと同じ事をするまでです」


 供花は無慈悲に告げて、野薔薇の手を振り払う。野薔薇の静止の言葉を一瞥で制して、炉がある方へ歩いて行った。毅然と、決死の面立ちで。




 燃え立つ炎が、じりじりと身を燻す。

 だと言うのに、自分が焦げているという感覚はひどく薄かった。蛍石に変化している部分に感覚はない。だから、「熱い」も「痛い」もないのだ。

 顔の半分や胴体はまだ生身のままなのでどんどんと焼けていくが、その部分を覆うように、体の蛍石化が進んでいた。まるで自分を外殻で包んで守ろうとしているようだと一瞬思うが、実際は外のみならず中身も侵食しているのだから所詮は錯覚だ。

 しかし、錯覚であろうと思い違いであろうと、通常なら寿命を縮めるだけのものであろうと、今この炎の中では蛍石は防護壁になっている。それだけで、供花にとっては十分だった。


「……ここだ」


 供花は呟く。百度を超える熱気が喉に入り込んだ。咽せそうになって、同時に走った疼痛で蛍石化が肺まで進行しつつある事に気がついた。

 先ほど、三河の遺体を投じた炉の前。全身を襲う、蛍石化故の関節痛を堪えて、炉を開けた。

 そこにあるのは、完全に肉が燃え剥がれた遺体。三河さん、と言おうとして、供花は咳き込む。

 その頭蓋骨を拾い上げる。それから、肋骨を何対か。それが今の供花に抱えられる全てだった。




 燃え盛る炎の前で、手を組んで祈る。供花が無事に戻ってくるように。誰よりも、その炎の近くで。

 熱気が肌を撫でる。黒煙が曇天に吸い込まれていく。熱いけれど、熱くなかった。その温度に集中なんてしていられなかった。ずっと祈っていた。消防車はまだ来ない。ふと炎が揺らめいて、そして、人影がぼうっと現れる。


「……供花さん!」


 野薔薇は叫んで、彼に駆け寄る。煤けた頭蓋骨と肋骨を抱えた彼は、先程よりも蛍石化が進んでいた。顔を覆っていたマスクは燃え尽きているが、もはやそれでは隠せない程に顔に蛍石が進んでいる。


「熱いので、触れないでくださいね。何か布はありませんか」


 供花がそう言いながら地面に膝をつく。慌てて野薔薇は自分のジャケットを脱いで地面に敷いた。その上に置かれた骨は、問うまでもなく三河のものだろう。


「供花さん、もうすぐ消防車が来るよ。早く助けを……」


 消防車のサイレンが遠くに聞こえる。間も無くここまで到着するだろう。供花の手を握ろうとして、けれど両手を挙げてそれを避けられた。ぽつり、と空から落ちた雨粒が供花の手に触れた瞬間蒸発する。


「いいえ、野薔薇さん。私はもう一度炉に戻ります」


「……え」


 供花の言葉に、頭が真っ白になった。

 今、彼はなんと言った。

 もう一度、あの炎の中に身を投じると言った。

 先ほどの一粒を皮切りにしたように、急激に雨足が強まっていく。


「……なんで」


 子供のような響きを帯びた言葉だった。供花は柔らかく微笑む。まるで、幼い子供を見ているように。


「骨を全て回収できたわけではありません。腕も脚も背骨も残っている。頭蓋骨だけでは不十分なんですよ」


「全部なんて欲張りすぎです! 遺族の方達も、人の命を犠牲に骨を集めてほしいなんて思ってない!」


 駄々を捏ねるような絶叫に、供花は目を細めた。悲しげに。


「……その言葉、父さんと母さんに言って欲しかったなぁ」


 供花は野薔薇の頭を撫でる。雨によって冷まされてなお、その掌はひどく熱い。けれども、それが彼の体温のようで、縋りつきたくなる。 目頭も同時に熱くなって、誤魔化すように俯いた。


「知ってます? ……骨が少ない骨壷は、悲しいくらい軽いんですよ」


 元々骨だけになった人間は軽いのに、さらに骨がなくなったら、それが人間だったという事実すら忘れてしまいそうになって。それを抱え上げた時に思わず死を拒絶してしまって。それほど、虚しいものはなくて。

 母はおそらく彼女であっただろう骨を残して消えていった。父は棺に入っても到底その死に顔を見せられないような凄絶な死に様だった。

 悲しかった。自分の両親は死ではなく消滅を迎えたような、そんな気がした。魂が輪廻を巡る事もなくなってしまうのではないかと思ってしまった。だから、わずかに残った二人の存在証明を、暫く手放せなかったのだ。

 縋ろうとした野薔薇の手を優しく引き剥がしながら、供花は踵を返した。葬火の元に、戻っていく。

 最期に、彫刻のような、けれども人間くさい美しい笑みを残して。


「……さようなら、野薔薇トモシビさん」




 四華花六は、煙草に火をつける。

 両親を亡くしたソウカを引き取るまでずっと吸っていた煙草だ。銘柄も全く同じ。あの頃より値段は上がったが、その煙は全く変わらない。子供には悪影響だからやめたが、一人になると無性に吸いたくなる。

 一人きりのオフィスで、窓を眺めて佇んだ。長らく使われていない灰皿には、火をつけた煙草が一本。燃やしたは良いが吸う気にはなれなくて、嗜好品であるはずのものはただ煙を撒き散らす棒に成り下がっている。

 窓辺に差し込む陽光は暖かい。心地の良い気温だ。

 こんな日は、姉と義兄の葬儀の日を思い出す。

 暑くも寒くもなく空気はからりと乾いていて、緩やかな風が心地いい、そんな日だった。

 いっそ、雨が降ったら良いと思った。世界の終わりと見紛うほどの豪雨が、何もかもを呑み込まんと降り頻ればいいと。

 それならば、自分も、ソウカも、身も世もなく泣けたのだろうかと、そう思うから。

 自分の親の葬儀だというのに、ソウカはいやに冷静だった。まだ中学生の子供だ、親の死に泣き縋っていてもおかしくない。事実、そうなっている子供を葬儀屋である四華花は何度も見てきていた。

 しかし、ソウカは静謐な瞳で蓋を開けられない棺を見つめていた。何も喋らず、受動的に佇んでいた。

 葬儀が終わってしばらくして、ソウカは親の墓をずっと見つめていた。供花と書かれた、冷たい墓石を。


「……かえらないのか」


 話しかけておいて、後から随分残酷な問いだと気がついた。「帰らないのか」だったら、親がいない閑散として家に行かないのか、というソウカにとって残酷な現実を突きつける言葉。「還らないのか」だったら、両親の後を追わないのかという自殺教唆にも等しい言葉。

 意図的ではないにせよ含まれた言葉の意味を知ってか知らずか、ソウカは一瞬四華花の方を向き、そしてすぐ視線を墓石に戻す。


「かえらない。かえりたくない。……かえっちゃ、いけない」


 幼さの残るテノール。俯いたままゆるゆると紡ぎ出された言葉は、どこか義務感じみていた。


「……叔父さん」


 甥子は、あまり会った事も会話した事もない、ぶっきらぼうな叔父を見つめた。薄い翠の、意思の強い瞳。


「僕を、葬儀屋にしてください」


 その頼みを、断れる筈がなかった。

 たった一人の姉と、その姉が愛した男の忘れ形見だ。彼が両親の軌跡を追おうとしているのを、どうして止められるだろうか。

 四華花は、無理だった。その姿があまりにも似ていたから。ソウカが憧れる彼らの姿に。

 それが死に向かうものだと知っておきながら、止めることはできないのだ。できなかったのだ。

 気がつけば、窓の外では雨が降っていた。酷い豪雨だ。誰かの死を天が悲しんでいるような、そんな雨だ。


「……葬儀屋になりたいってんなら、見送られる側になんなよ、馬鹿息子め」


 四華花は、自分をソウカの師だと思っていた。部下でもあり、叔父であり……第二の父であると、思っていた。

 ソウカの憧れは止められないけれど、どうか死んだ父ではなく、今生きている自分の歩いた痕跡を追って欲しいと願っていた。

 けれど、やはりソウカは自分の子ではないのだ。四華花六は彼の憧れになり得なかった。彼の父に足り得なかった。

 それが、ひどく虚しい。

 雨が降る。降る。降る。

 窓を開けて、振り込む雨水に構わずに、篠突く雨に向かって叫んだ。

 これが、彼に何もしてやれなかった自分ができる最大の手向だと言わんばかりに。


「あの世で姉さんと義兄さんと仲良くやれよ!」





 暗闇の中にいた。ずっといたような、けれどもさっき訪れたばかりのような。馴染み深く、同時に見知らぬ闇い空間。


「……あ」


 供花は、ゆっくりと身を起こす。全身の痛みがない。手袋を外してみれば、そこにあるのは蛍石などではない白い手だった。自分を包んでいたはずの葬火も、今はない。


「……死後の世界、か」


 何もない場所だ。地面に立っているような感覚がない。しかし浮遊しているような感覚もない。酸素があるのかわからない。自分は今呼吸をしているようだけど、真空の空間で呼吸の真似事をしているような気もする。自分の呟きさえも周囲に反響しているような、けれども無限に吸い込まれていっているような感じ方をする。

 取得できる情報の全てが不明瞭。しかし、そんな奇妙な場所、奇妙な状況におかれながらも、供花は冷静だった。いや、受動的だった。ここには何もないと感じるのだ。自分に益するものも、害するものも全て、存在しないように思うのだ。

 無明に身を委ねる。暫し瞑目してみるが、眠気は一向に訪れない。一瞬にも何十日にも思える曖昧な時間を過ごしても、食欲も睡眠欲も何も起こらなかった。


「……ソウカ」


 誰かの声が、聞こえた気がした。

 聞いた事がある気がする。

 いや、そんなものではない。もっと、自分の根幹にいる誰かの声。


「ソウカ」


 誰だろうか。思い出せない。いつの間にか、自分の存在すら模糊としたものになってしまったのだろうか。


「——ソウカ!」


 焦ったように名前を叫ばれて、ようやくはっきりとその声を認識した。思わず周囲を見渡すが、やはりあるのは闇だけ。


「……父さん、母さん?」


 口に出して、先ほどの声が両親のものであると気がついた。姿はない。前に声を聞いたのは十年以上前の事だ。しかし、それが彼らの声だという確信があった。


「ソウカ」


 手を差し伸べられた気がした。何も見えないのに、なんとなくそれを感じ取る。それだけは、感じ取れる。

 同じように手を伸ばそうとして、事あるごとに頭を撫でてきた父の大きな手を、仕事に使う薬品で荒れていて、しかし暖かかった母の手を握ろうとして——それを掴もうとした瞬間、反対の方向に四肢がちぎれてしまいそうな力で引っ張られた。

 ソウカ、と必死に呼ぶ声。同時に、まだだ、と諌めてくる知らない声。

 何故、二人の元に行けないのか。その疑問と全くの同時に、答えが自分の中で浮かんだ。


「嗚呼、なるほど——」


 納得した。きっと、あの日、あの罪を犯した日から、こうなるのが定めだったのだろうなと、他人事のように思った瞬間。

 供花ソウカの存在は、彼岸と此岸の狭間に埋没した。




 死とは、人間の一生の最後だ。

 生まれた時が喜ばれるように、毎年誕生日に祝福を受けるのと同様に、死もまた最大限の敬意と弔意を以て見送られるものである。

 生と死は表裏一体。生が言祝がれるように、葬式はその人間の歩んできた人生を象徴するもので、その末期が良いものであれば、あの世で死者も安寧を得られる。

 死に方と弔われ方を彩る。それが、彼女の憧れであり、使命であった。


「……ただいまぁ」


 無人の家に、野薔薇の声が響く。

 あの火葬場の事件以降、野薔薇は見学のみでなく実務も任されるようになった。供花に代わり葬儀社の管理をしている四華花から様々な教えを乞いながら、供花以上に優秀な葬儀屋になるべく彼女は日々奔走、邁進している。

 結局、供花は戻ってこなかった。回収された三河の遺骨は頭蓋と肋だけだ。それだけでも遺族達はひどく感謝して、そして供花の死を悼んでいた。正確には、消防隊や警察が捜査をしても供花の遺体は見つけられなかったから一応は行方不明の扱いなのだが、事実上の死亡だろう。

 実際、彼の縁者である四華花は彼の生を諦めていた。ただ火事のせいだけではなくて、蛍石化している体も含めて、もう生きてはいないだろうと。

 四華花は平然と振る舞っていたが、誰の人の目にもつかない場所で、本人すら零している事に気が付かないのではと思ってしまうほどに小さな嗚咽を漏らしていた事を、野薔薇は知っている。

 あの事故から一ヶ月と少し。……いや、野薔薇はあの日からの日付を正確に数えている。

 四十九日だ。火災の日から数えて、既に四十九日経過している。


「ねえねえ聞いてよ、今日のご遺体は損傷が酷くて。四華花さんに色々教わったのにさっぱりで」


 野薔薇はそう言いながら自室の扉を開けた。夜の闇の中、何も見えない閑散とした部屋。

 自分の師匠となった四華花は、煙草を吸うようになった。嗜好品を味わうのとは違う。野薔薇の前では全く吸わない。吸うのは、彼の周囲に誰もいない時だけだった。まるで、孤独を実感するように。


「四華花さんもスパルタだよ。……けど、一流なのは確かなんだよね」


 そうですね、と同意の声が聞こえた気がして、野薔薇は口角を上げる。


「ねぇ……そうでしょ?」


 野薔薇は笑みを浮かべながら、部屋の電気をつける。家具は本棚とベッドしかなく、ひどく質素な部屋だ。しかし、その壁に飾られているものが部屋に落莫とした印象を抱かせない。

 野薔薇は恍惚と頬を赤めながら、壁を見て甘い声音で囁いた。


「……供花さん」


 壁には、巨大な蛍石が展翅されるように縫い付けられていた。

 翡翠のような緑と、深海のような青と、夜闇のような紫が混じり合い、光を放つ美しい鉱石。

 そしてその宝石は、人間のような形をしていた。

 所々欠け、煤けてはいるものの、確かに人の——供花ソウカの形を模しているのだ。 

 瞼を閉じ、まるで眠っているかのように、彫刻のような精緻さと美しさで。

 彼は確かに、そこに存在していた。

 野薔薇は彼を眺め、うっそりと語りかけながら、その艶美さに心奪われる。

 いや、もっとずっと昔から、美麗な彼に心奪われていた。彼女がしているのはただ、彼を見つめて一つ瞬きをする度に、愛を深めていっているだけ。自分の恋情の確認のための行為だった。


「供花さん、供花さん、供花さん……。ねぇねぇ、わたしね、すぐに供花さんみたいな葬儀屋になってみせるからね」


 気がつけば、彼の前に座り込んで数時間が経っていた。寝食すら忘れて、野薔薇は彼に魅入っていたのだ。

 時間の経過に気がつくと、一気に眠気が襲ってくる。どんどんと重くなっていく瞼に身を任せて、最後まで彼の姿を視界に収めながら、彼女は神に祈るように呟いた。


「だから、わたしがあなたを弔える日まで——」



 おやすみ、フローライト。

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おやすみフローライト 凪野 織永 @1924Ww

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