ピジョン

鍋谷葵

墜落

 君は君の存在を信じるかい?

 君は、君自身の認知を君自身の痙攣ではないと信じるかい?

 思索が暗黒だと理解しているかい?


*


 青々と葉を茂らせるブナの森は、五月の心地よい温もりの中で営為を続けている。彼らは晴天が与えてくれる太陽の光を恒常性から一心に吸収する。この吸収をもって彼らは生命を繋ぐ。そして、これを待って他は未来へ接続される。

 静かな森の頭上を悠々と飛ぶ一羽の鳩も例外ではない。彼は灰色の翼を広げ、空を泳ぐように飛ぶ。もっとも、彼にとってそこが水中であっても、空であっても変わらないのだろう。

 彼は翼をたたむと梢に止まった。羽を休める彼は軽妙な鳴き声を森へと放ると、羽繕いをした。黒い嘴は羽の間に潜っていた針のような松の葉を挟み、地面へ放した。彼はいたずらに羽を広げたり閉じたりすると、痙攣的に首を傾けたり、周囲を見渡した。

 羽休めを終えた彼はいざ飛び立とうと、二三歩後退りた。そして梢まで助走をつけ、空へ向けて翼を広げた。

 彼は空へと還った。

 しかし彼は、彼自身は、梢に置いて行かれた。

 彼が空へ還った刹那、彼は自身の中に他の自分を見出したのだ。

 途端、彼は自身が置かれた環境に恐怖を抱いた。彼の認知は急に震え始め、翼は緊張の中に固まった。流体力学にしたがった彼の動きは、急に自然に反した動きとなった。風景の黒点が自身を黒点ではないと理解したのだ。

 温い光を一身に受ける彼は、極度の混乱の中で訳も分からず嘴を広げた。

 しかし、彼の口は外へ何も出さない。彼の口は外を受け入れた。

 彼は羽虫らを口腔に受け入れ、彼はそれら習慣に倣って嚥下した。喉に絡みつく羽虫らの最期の抵抗は、彼の呼吸を苦しめると同時に嫌悪を与えた。

 彼の動きはさらにぎこちなくなり(それは一枚の紙が高所からひらひらと落ちていくように)、彼の混乱は彼の世界は白く染めた。彼は混乱を静めるため、再びブナの梢へ止まろうと、翼をたたもうとした。けれども彼は翼をたためなかった。彼は空へ対する恐れから(他の自分が与えてくる恐れから)翼の運動を拒絶したのだ。

 運動への拒絶は彼を地上へといざなった。ブナの葉に翼を擦りながら、ゆっくりと、そして着実に地上へと落ちていった。

 土の温もりは彼を安堵させ、彼は翼をたたんだ。

 だが、安堵もつかの間、彼はブナの根本で餌を待っていた黒猫に遭遇した。ただ彼はこの死の遭遇が必然であると、襲い掛かってくる鋭い爪を前にして理解した。

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ピジョン 鍋谷葵 @dondon8989

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