リンボの涯

紫陽_凛

地獄へ

 生きていたころの語桐ユートンに、「いつか日頃の女癖と盗癖がたたって殺される」と告げたら、きっと鼻で笑うだろう。――実際に目の前で死んでいるのだから笑えない。そして彼は死んだゆえに笑うことができないため、なおさら若汐ルオシーは笑えなかった。知人の遺体を前に笑うことができるとしたら今目の前で転がっている語桐くらいのものだろう。「こいつとうとう殺されたぜ?」

 まだ温かくて赤黒い血は、殺されて間もないことを示していた。同時に下手人げしゅにんは執拗に彼の身体を刺したあと、語桐の長い黒髪をばっさりと切って持ち去っていた。おおかた殺し屋が(どの女か知らないが)女の依頼を受けてやったに違いない。女の恨みを買うことにかけてはこの色男の右に出るものはなかった。ざんばらになった後ろ髪を撫でて、若汐はかれの死にざまをみつめた。

 頸動脈を一撃、心臓のあたりをひと突き、防御した様子がないところをみると心臓に一撃入った瞬間に即死していたかもしれない。頸動脈はついでだろう。こんなときでも冷静な自分に嫌悪しながら、若汐はゆっくりと彼の腕を持って、その体を背中に負うた。

 かれをつれて海へ行こう、と思ったのである。


 海に行くにはこの場所からだと足でまる三日はかかる。遺体と共ならばなおのことだ。若汐は紫紺の服にかれの血をにじませながら、ゆらりと立ち上がった。盲人の男が渡し守をやっている。やつに十分な金品を渡してやれば、川を下って海へつくだろう。

 夜は深い。

 若汐は自邸へ寄って、一度背負った語桐を下ろし、寝静まった親の寝室へと這入って、母の抽斗から瑪瑙めのうの首飾りを拝借した。語桐が言っていたことには、「嘘と盗みに必要なのは、平常心と、嘘をつかないことだ」という。

「嘘をつかないとは」

「自分に嘘をつかないことさ」

 こうした語桐の振る舞いはむらの皆の知るところであったので、若汐はこのおとことの交友関係を親に禁じられていた。しかし、若汐が語桐との関係をなんど断とうとしても、語桐のほうからやってきて、毎日変わらぬ胡散臭い笑みを向けてくるのだった。


「おれにかまうな」

「ルオシー、お前のことを構ってやれるのはおれだけだぜ」

「そんなことはない」


 だが実際、名家の一人息子として生まれた若汐の周りには玉の輿を狙う女どもが集まるくらいで、友人と呼べるものは語桐くらいのものだったのは否めなかった。


 若汐は手の中の首飾りの冷たさを感じながら――からだから匂う血の臭いが両親の鼻につく前に――自分に嘘をつかず、必要な分だけの財貨を持って家を出た。そして再び語桐の遺体を背負いなおし、まだ薄明にも至らない紺青の空を見上げて、河岸を目指した。


 盲いた渡し守を叩き起こし、その寝起きのじじいに瑪瑙の首飾りを握らせた若汐は、「二人分だ」とだけ告げて船を出させた。渡し守は、たいまつに火を点けると、片手でかいを、もう片方の手でたいまつを掲げ、小舟の船頭に乗り入れると、若汐を促した。促されるまま乗り込むと、爺は問うた。

「もうおひとかたはどちらに」

「ああ、おれの背で眠っている」

「なるほど」

 そうして船が出た。



 若汐に嘘を教えたのは語桐のほかにいない。十七の時分まで嘘など知らなかった若汐は、三十を数える今となっては息をするように嘘を吐くことができた。どれもこれも語桐のせいだった。


 語桐が若汐の女を盗んだことがあった。十九の頃、結婚まで考えていた女だった。見知った裸の肉体にしなだれかかった女のせなを見た時に感じた虚無のことを今も若汐は忘れていない。

「盗まれた方が悪いのさ」

 しらじらしく語桐は言った。そんな風に「憎まれよう」とする語桐をさえ、若汐は憎むことができなかった。女が恥じいって去った後の、なまなましい後朝きぬぎぬのあとに、語桐は煙草を吸いながらその吐息を若汐にふきかけた。長い黒髪が、逞しい肩の上に流れて落ちた。

「憎んでみろよ、ルオシー」

 語桐は若汐を引き寄せてその手のひらを自分のみぞおちに押し当てた。

「じゃなきゃつまらん。おまえは邑いち、いや世界いちつまらん男だ。人を憎むことも愛することもできない」

 若汐は女の匂いの残る寝台の上で語桐を殴った。語桐も殴り返してきた。もつれ合う体はやがてそこへ熱を孕んでいき、気づいたら押し倒した語桐の背を犯していた。その黒髪をわしづかみ、強く引き寄せたとき、かれが笑った。

「ルオシー! おまえは人間だ、人間だ! はは、もっと地獄に近いところに落ちて来いよ、なあ、なあ!」

 語桐はぎらぎらと目を光らせて若汐をあざけった。若汐はその後頭部を掴んで、枕にかれの顔を押し付けた。

 語桐と肉体関係を持ったのは、それっきりだ。他人と――それもおとこと、関係を持ったのも、それきりだ。



 だが語桐の女癖の悪さはとどまるところを知らず、若汐は女に言い寄られるたびに語桐に女を奪われた。 

 若汐に近づくと語桐に手を付けられる、そんな噂が立った。

 お陰でこの歳になるまで、一度も女を抱いたことがない。抱いたのは語桐だけだ。


「これもおまえの望んだことだったんだろうか」

 背負ったままの語桐に問いかけるも、永遠の眠りについてしまったかれには届かなかった。美しい横顔に蠅が一匹ゆっくりととまった。若汐はその蠅を手で払い、冷たくなった友からかおる死臭をかくすために上着をかれに着せ掛けた。


「海までとおっしゃいましたが」

 渡し守が言う。

「海で何をなさるので」

「二人で海を眺めようと思います」


 若汐はよどみなく答えた。一日と一晩のあいだ――渡し守と交わした言葉はこれが最初で最後だった。血の香りがしたのだろう。かれは賢い、と若汐は思った。


「おれには入る墓がない」というのが、語桐の昔からの口癖だった。家がないものに墓がないのは、この邑では当然のことだった。

「だから、おれの死んだあとはたのんだぜ。できれば、死んだあとは海に行きたい。おかはいやだな。腐っていくのを見られたくない」

「そんなこと、頼まれるわけがないだろう」

「おまえしかいないんだよ」

 語桐は笑って、若汐の胸に拳を押し当てた。

「おまえしかいないよ。おれの相手をしてくれるおひとよしは」




 ああ、おひとよしだ、と思う。

 血で汚れた紫紺の服を見て、それからおぶさっている友を連れて船を降りる。渡し守は船をもとの場所へはこぶために去っていった。


 若汐はそのまま渚へと足を向ける。背中に負った友を下ろして海へ送るためである。腐るのは嫌だ、できることなら海に流してくれ、そのかれの数少ない願いをかなえるためだけに、若汐はここまでやってきた。

「おひとよしだって笑えよ」

 瞼を下ろした語桐は応えない。ゆるやかな砂丘を降りていくと、二人分の体重で足跡が深くなる。語桐はすっかり硬くなり、重くなり、そして冷たくなっていた。

「すべておれに教えておきながら、後始末までさせるなんて、意地が悪いぜ」


 ざんばらの髪を海風が撫でていった。腰まで海に浸かった若汐は、背中の遺体を放そうとした。

 しかし、語桐を背負えるようにして運んだために、語桐のからだはそのまま硬直し、若汐のからだを抱くように、縋りつくようになっていた。なかなか、離れなかった。

「……ユートン」


 嘘を吐くときは自分に嘘をつかないことだ、という言葉が不意に思い出された。若汐はようやく、彼がつねに、どこかしら、嘘をついていたのではないかという可能性に思い至った。

 しかしすべては過去だ。そして二度と戻らない昔の話だ。語桐はもういない。


「お前が嫌いだ」

 

「もっと地獄に近いところに来いよ」

 応えるように語桐が脳裏で叫ぶ。かつてと違う冷たい体を引き寄せて、若汐はゆっくり目を閉じた。


「地獄へ行こう、ユートン」


 一歩、また一歩、歩みを進めていく。語桐もろとも沈みゆくかれの表情を見た者はいない。

 そしてついに若汐が陸にあがることは、なかった。





 



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