モノローグインマイハート
清野勝寛
本文
夢を見た。懐かしい夢だ。俺はまだ学生で、何かわからないけれど来週のテストがだるいとか、いつの間にか誰それと誰それが付き合ってただとか、新作ゲームの最新情報を共有したりだとか。格好良いバンド発掘するために掲示板見て回ったりとか。あぁ全てが、全てが懐かしい。懐かしいなぁ。
あまりにも懐かしくて、目が覚めた時は流石に少し寂しかった。
いつからだろう、一日が短く感じるようになったのは。
※
「あれ、センパイ今日はなんかずいぶんとねむそっすね。また意味もなく夜更かしっすか?」
絡んでくる7つ下の後輩ミネタをうるせーと一蹴し、自販機で缶コーヒーを2つ買う。片方を手渡すとミネタはあざーすと毛ほども恩を感じてない口調でそれを受け取り爪で蓋をこじ開ける。
「そういえば、ミサキセンパイが今度の会議の件で話あるって言ってましたよ。あの人なんで最近俺経由でセンパイに連絡してくるんですかね?」
流石に違和感、あるよな。あぁ面倒くさいことになった。時折ミネタが羨ましくなる。適当に生きてそうなこの男には、まるで悩みなんてまるでないだろうから。
「了解、後で電話入れるわ」
「直接いきゃいいのに。嫌いなんすか?」
「逆だバカ。嫌われてんの」
「え、マジすか? なにゆえ? 割りと仲良かったすよね?」
それは、あまり考えたくない。
答えに詰まると、ミネタはまいーやと興味なさげにスマートフォンを取り出した。気を遣ったのか天然なのか判断は出来ないが、こいつのこういう所に少しだけ救われてるのは事実だ。癪だが。
ミサキとは同期だった。十人いた同期達も、七年この職場で過ごすうちに俺とミサキの二人だけになった。ミサキはあまり積極的に話す方ではなかったが、七年も一緒にいたからか最初に比べるとずいぶん打ち解けたように思う。ミサキは極端に職場の男との接触を避けているようだった。今は昔と違って、社内恋愛だとか寿退社なんてものに理想を抱いている女は少数派だそうだから、多分ミサキもそんな感じなのだと思っていた。まぁかつてを知らない我々にとってはそうなんだくらいの話ではあるが。
※
「気が付いたらうちら二人だけになっちゃったね」
ある深夜、月末の忙しさにかまけているとミサキがぼそりと呟いた。顔を上げ周囲を見渡すと、確かに他の奴らはいつの間にかいなくなってて、俺とミサキだけになっていた。上のやつも下のやつも声くらいかけていきゃいいのに。自分に仕事振られるのが嫌だからって音もなく帰りやがって。
「いや、ちゃんと皆あんたに声掛けてたって。適当に返事してただけでしょ……ってそっちじゃなくて」
いけない心の声が。漏れだした俺の声にミサキが勝手に答える。
「そっちって何が?」
忙しなく動く両手。こちらを見ることなく言葉を続ける。
「同期。皆夢だとか結婚だとかでさ、今何しているんだろうね。何年も顔突き合わせていたのに、皆辞めたら連絡とかって取らなくなっちゃうし」
「ああ……」
「ああって……羨ましいとかないわけ? 毎日働いてさ、ちょっとばかりのお金でちょっとばかりの趣味をちょっとばかりの休日に楽しんでって、あたしの人生こんなもんかーってな具合にさ、悩んだり……とか?」
「それもひとつの形だろ。何、実は結婚願望あったの?」
ミサキの手が止まる。そりゃまあ。でも。
「出会いとかないし」
ぼそぼそと吐息交じりに一声。堅物な女だとは思っていたが、そんなことはなかったらしい。七年目の真実。
「本当に欲しいならそうすりゃいい。婚活サイトなり、街コンいくなり。お前が本気出したら、なんでもすぐ上手くいくって」
って、なに偉そうに講釈垂れてるんだ俺は。俺こそ休日はパチンコ競馬、買った金は煙草と酒に消え。人に誇れるものなんて唯の一つもない癖に。
少しだけ感傷に浸っているうちに、ミサキの方から音が消えたことに気付いた。いつの間にか作業をする手が止まっていた。俺も、ミサキも。
やがてミサキはバンと机を軽く叩き、立ち上がった。
「もう、やめ! なんか仕事の気分じゃなくなっちゃった。ねえ、どうせ暇でしょ、飲みにいこうよ」
ぎょっとした。七年も一緒にいると、バグみたいなイベントが突然始まることもあるらしい。
「……珍しい、普段職場飲み絶対来ないのに」
「いいじゃんたまには、同期会! 二人しかいないけど」
まだ了承していないが、ミサキは既に帰り支度を始めている。諦めて俺も今日は終わりにしよう。明日の俺が頑張ってくれる筈だ。
※
「おい~つぎのみせよやくできたのかよぉ~?」
俺にしな垂れ掛かるミサキをなんとか支えながら、とりあえず駅の方面によろよろと歩いている。こいつ酒に弱いくせに酷い酔い方をしやがる。延々とぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐち。悪口から始まり世を嘆き、自分の境遇を嘆き、他人を一頻り羨んだ後は蔑んだり。ぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐち。酒だってジョッキ二杯目の途中だった。そりゃ職場の飲み会には顔出せないはずだ。とてもじゃないが人に見せられる姿じゃない。
「行くわけないだろ、明日も仕事なのに! タクシー代くらい持ってんだろうな!?」
「うへぇありませ~ん」
七年目の真実。あまり知りたくない顔だったが。こりゃどうしようもない。一万円握らせてタクシーにぶち込もうかとも考えたが、ふと。
目の前にネオン。煌びやかな装飾の建物。直後、頭の中に悪い考えが浮かび、心臓が跳ねる。嘘だろ、相手はミサキだぞ。
「どうしたのぉ?」
立ち止まった俺の肩にぶらぶらとぶら下がったまま。ミサキの目は明いていない。頭がその感情に支配されていくと、途端に先ほどまで感じなかったミサキの体温、柔らかい身体、酒臭さに交じった芳しい匂いに思考が侵されていく。そうだ、することだけ済ませてさっさととんずらすればバレないだろう。翌朝けろっとして顔を合わせれば、それで終わりだ。鼓動が早くなる。俺は何も言わず、薄暗く輝く建物に入った。
※
結果、俺は止まらなかった。部屋に入ってから追加で酒を飲ませると、ミサキは呻き声しか出さなくなった。その状態のミサキの服を脱がせ、ミサキに夢中になった。自分の中にこんな感情が隠れていたとは思わなかった。いや、よく言う話か。男は皆狼、俺も例外ではなかった。割り切ってからは、気持ちが楽になった。罪悪感だとかそういうものはどこかへ弾け飛び、唯只管に彼女を求めた。何年も触れてこなかった人肌を、ミサキの体温を感じるうちに、心臓の奥の方が苦しくなっていく。言葉では形容できないどこか優しい感情で頭の中が一杯になり、それらが触れ合っている箇所で弾けて、目の前がチカチカと輝いた。それの繰り返し、永遠。ミサキから時折漏れる嬌声が体の中心を火照らせて、また心臓が苦しくなっていく。そうだ、俺は昔、こんな感情をどこかで感じたことがあるはずだ。いつだったろうか。愛しい、ああそうだ愛しい。これはそういった感情に近いような気がする。ミサキが愛しい。身体が触れ合った結果、七年もの間自分でも気が付かなかった感情に気が付いた。俺はこの女が愛しい、抱きたい。もっと、もっとだ。火が点いた花火は燃え尽きることなくいつまでも激しく明滅を繰り返し、月明かりに反発して爆ぜる。身体の中を縦横無尽に駆け巡る劣情は塞き止められていた水の流れが決壊したかの如く、俺から溢れ出て、そしてミサキに注ぎ込まれる。止まれない、止まるはずがない。何故なら俺は愛している、愛していたんだ、この女を。
※
もっとだ。もっと、もっと。愛している。それがすべてだ。
※
もっとだ。もっと、もっと。
※
「……めて」
どれくらいそうしていただろうか、感情のままミサキを抱き続けていると、不意にミサキの方から、意味のある声が聞こえた気がした。
「あ……や、やめて……おねがい……」
ミサキは泣いていた。俺は、ミサキと離れることは出来なかった。
「やだ……ごめんなさい……やめて……ごめんなさい」
ミサキは俺を拒絶していた。当たり前だ、俺とミサキはただの同期。ただ、一時気の迷いで、俺は一体何をしてしまったんだろう。
我に返った……という言い方は、この場合適切なのか。わからない。ただ、俺は冷静に一言、ごめん、とだけ言って、ミサキから離れた。薄暗い室内に、ミサキの嗚咽だけが鳴り響く。
そういえば、とふと思い至った。以前もこんなことがあったような気がする。俺の身勝手な行動で、誰か、大切な人を泣かせたような、そんな記憶がある。二人の息遣い。荒い息が整ってくると、ミサキの嗚咽も弱弱しくなっていった。
「ごめんなさい、あたし、記憶、なくて……」
「……いや。俺の方こそ……でも、」
ここで、ミサキに自分の想いを伝えればよいのではないか。一瞬、そんな考えが頭を過る。
「なに……?」
「や、なんでもない。俺も、酔ってて、その勢いで……」
一瞬で、その考えは消え失せる。何故なら、あれほど満たされていた、ミサキに対して感じていた愛情が、自分の身体から全てなくなっていたからだ。ただ、快楽に身を任せていただけ、或いは、本当にただ酔っていて勘違いをしていただけ。俺はその事実にまた絶望した。
俺はそこらに転がるタオルを手に取り、身体中に点いた俺とミサキの汗と体液を拭きとり、服を着る。
「ねぇ」
ごそごそと音がする。振り返ると、ミサキは身体を起こしていた。少し声が掠れている。俺のせいだ。
「あたし、もう冷静だから。酔いとか、醒めたから言うんだけど」
薄明かりの中、ミサキの顔は見えない。俺は心臓に槍を突き立てられているような気持ちでミサキの言葉を待った。
「あんたってさ、あたしにそういう気持ち……あった?」
何と答えるべきだろうか。たった今ミサキへの想いはただの性欲であると自分で理解したところだというのに。ミサキは、彼女は、今何を思っているのだろうか。俺は、なんて答えるべきなんだ。分からない。分からない。
※
夢を見た。懐かしい夢だ。俺はまだバリバリの会社員として数名の後輩を従えて仕事をしていた。最初はたくさんいた同期達もいつの間にか夢だとか家庭を求めて会社を去り、気が付けば俺と、もう一人。あぁ全てが、全てが懐かしい。懐かしいなぁ。
あまりにも懐かしくて、目が覚めた時は流石に少し寂しかった。
「センパイ、今日は珍しく眠そっすね? いい年なんだし、もうそろそろその意味もなく夜更かしするの、やめた方がいいっすよ?」
「うるせー、いいから飲み行くぞ」
「またすか……? 今月多くないすか? 奢りだから良いけど」
ミネタはそう言ってエレベーターを先に降りる。開スイッチを押しておいてやるみたいな気の遣い方をそろそろ覚えてもらわないといけない。俺もこいつも、もう若くはないのだから。こいつに後輩が出来た時に、示しがつかない。
「お前、なんか忘れられない思い出とか、そういうのある?」
「なんすか急に、そりゃありますよ、15の時に兄貴から勝手に借りた原付で事故起こして死にかけたりとか、昔付き合ってた女に三又されてたとか……結構金つかったんだけどなぁ」
思ったより重い過去が出てきて驚いたが、本人はもうなんとも思っていないのだろう、いつも通り飄々とした表情でお通しを食べている。
「そういうのってさ、誰かと共有したりしてるか?」
「何言ってんすか、するわけないでしょこんなひどい話」
注文した酒が届く。軽くコップをぶつけてから一口。じんじんと脳まで沁みていく。
「あぁ、まぁ……そりゃそうか」
時折、思う。
記憶は誰かと共有していないのなら、夢と大差ないのではないかと。
俺の思い出は、記憶は、彼女と共有してもよいものなのだろうか。
「あ、もしかしてなんかまたおセンチな話すか?かんべんしてくださいよいい年こいたおっさんがうじうじと~」
「お前ももう少ししたらわかるさ、年をとったら感傷的になんだよ。今まで全然泣けなかった映画で号泣したりとか」
「難しく考えすぎなんすよセンパイは。いいじゃないすか、完璧な人間なんていないんだから、それよりも未来のことっすよ。そろそろ名前は決まったんすか?」
それはまだ、もう少し迷ってから決めるさ、二人で。
だからこれからも、この記憶は俺だけのものだ。
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