第5話 最後

 彼女は席を立った。

 トイレなのか他の頒布物を見に行ったのかは知らないが、店番を任せ、離れていった。

 これがチャンス。

 俺は静かにそこへと向かった。

「はじめまして」

「は、はじめまして……」

 会うのは初めてだった。だが俺は知っている。この男がそうなのだと。

 俺は静かに近づいて作品を覗き込むように屈んだ。

「これが新刊になります」

 彼は慣れない様子で説明する。

「あの……」

 俺は弱々しい声で訪ねる。彼は聞き取れなかったようで、声を拾うように顔を近づけた。その時……

 俺はポケットに隠し持っていたナイフの刃を、その男の首筋目掛けて振り抜いた。

 一瞬の抵抗。それは刃が首の皮を引っ張る感覚。それもすぐに終わり、スパッと切り裂かれる。

 だが刃は喉の正面を切り開いたに過ぎない。致命傷には程遠い。

 驚いたのか、痛みを感じたのか、彼は後ろに仰け反って、パイプ椅子にドシンと尻餅をつく。

 微かに飛び出した血液と、振り上げられたナイフを見て、両隣にいたサークル主たちがどよめく。

 俺はすかさず冊子の乗っている長机から身を乗り出し、彼に追い打ちを掛ける。

 彼を押し倒し、馬乗りになってナイフを頸動脈に押し当てる。

 しかしこれでは終わらない。

 俺は刃を突き付けながら、逆の手でカバンを漁り、小さな小瓶を取り出す。

 それを左右の床に叩きつけて割ると、中の液体と共に瓶の破片が散らばった。

 それを確認して、俺はナイフを首に突き立てるようにして体重を掛ける。

 必然、彼は自分の身を守ろうと俺の手を押し返そうとする。

 俺は全体重をかけながら、彼に囁いた。

「別に恨みがあるわけじゃないけど、死んでほしいんだ。いや、恨みがあるのかも」

 彼はようやく頭の整理がついたのか、俺の正体に気付いた様子だったが、声は出なかった。だから俺は続けて言う。

「割った瓶の中には猛毒が入ってて、刺さったら死ぬから。死にたくなければ俺を横に押し投げて、俺を殺してよ」

 自分でもうまく説明できているのかわからない。興奮している。もう頭がいっぱいだ。

 一応意図は理解してくれたみたいで、俺を転がすのを躊躇っているように見えた。

 たぶん今の俺は体重も50kgを切っていると思う。そんな体なんて易易と跳ね除けられるだろう。

 しかし、そうしてしまえば自分が殺人を犯すことになる。不可抗力とはいえ、人の命を奪うという行為は、常人には耐え難いものだろう。

 そして今まさに殺されかけているというこの状況が、思考を鈍らせていることだろう。

 俺が殺すか、俺が殺されるか。その二択に、彼には苦しんでもらう。

「やめて!」

 もう少し苦しませておきたかったが、それももう終わりのようだ。騒ぎを聞きつけた彼女が横から俺を吹き飛ばす。

 俺は簡単に地面を転がり、体中にガラス片が刺さる。

 横目に抱き合う二人の姿を見て、体中が熱くなる。

 それでも立ち上がる元気もなく、意識が遠退いていった。


 これで俺の気持ちは晴れたのだろうか。

 皮は裂け、筋肉は飛び出し、血が体から流れ出していく。俺は潰れたみかんのように、そこに捨てられている。

 どうなることを望んでたのか。俺自身でもわからない。

 結局他人に決断させて、自分の行く末を選ばせようとした。

 それが俺なんだろうな。

 なにも決められない、弱い自分。

 少しでも、彼女の記憶に、残ればいいな……。

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みかん 鳳つなし @ootoritunashi

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