第4話 イベント

 今日、文学フリマというイベントがある。

 そこに彼女は俺への愚痴やら悪口やらを書き綴った小説もどきを頒布するそうだ。

 俺は彼女のファンたちの絶好のおもちゃと化すわけだ。

 それを想像しただけで吐き気がする。

 そんな自傷行為をしてまで、情報を入手するくらいには復讐心を燃やしていた。

 どうやら彼女の横に座るのがその愛しの男の子らしい。




 イベントには大勢の人がごった返す。人波に呑まれるのは得意ではない。

 けれどその人波に紛れ込むのは得意である。

 俺は体調不良を理由にもう何ヶ月も仕事をしていない。親も疲弊した俺の姿に同情したのか、ただの義務感か、文句も言わず養ってくれている。

 滅多に家から出ない子どもが出かけてくると言うと、母は心配と安堵の混ざりあった、なんとも言えない表情で送った。

「行ってらっしゃい。夕飯作って待ってるから」

 本当に待っているのだろうか。

 母親でさえ信用ならない。

 もとから俺は家族をどこか遠くに感じていた。

 愛を見つけられなかった。育ててくれたことは感謝しているが、それ以上になんで産んだんだという気持ちが強かった。

 いっそのこと毒親とかで劣悪な家庭環境であれば、自分を殺すのにも躊躇わなくて済んだかもしれないのに、と「普通の親」であることが残念でならなかった。

「行ってきます」

 声の出し方も忘れて、使わないことで弱りきった声帯から微かに出た音は、母親にギリギリ届いたのか、俺の声に手を振った。

 ガチャンと閉まるドア。

 空は鈍色に重く、今にも泣き出しそうに真っ暗だった。それでも俺は傘を持たずに歩き出す。

 駅までの道は普通に歩けば30分ほどか。衰えた足は歩を進めるのを嫌がる。 

 道も半ば、バイパスの信号を待つ。右に左にと車の往来。目が回るような感覚。帰りたくなった。

 けれどここで帰ったら、俺は一生苦しみ続けることになる。

 この拷問から脱するために、これは必要なことなのだ。

 意を決して足を前に出す。やはり動く。

 どうってことはないみたいだ。きっと俺の人生なんて、全部どうってことないことなのだ。

 だからこんな重苦しい気持ちも、目眩も吐き気も、苦しみも全部、人にとってはどうってことないことで、ありきたりなことなのだ。

 自分ばかりが苦しいと考えるからいけないのだ。

 みんなみんな苦しんで、もがいて生きている。それが当然のように。

 だからこうしてもがく俺の行動も、当たり前の出来事なんだ。

 信号を待つ。信号が変わる。歩き出す。人とすれ違う。人が過ぎ去る。

 そうやって生きている。

 だから人を殺すのだって、生きているうちの一つなんだ。


 駅まで来て、スイカを持っていないことに気が付く。ずいぶんと長い間使っていなかったから忘れていた。

 切符ってどうやって買うんだっけ?

 どこの駅で降りればいいんだっけ?

 券売機でもたつく。後ろに人の気配。手に汗がにじむ。お札がうまく入らない。もう嫌だ。

 逃げ出したい気持ちを全身で受け止めながら、やっとの思いで切符を買い、足早に改札口に向かう。

 後ろに並んでいた人が睨んで舌打ちをしたように聞こえた。

 俺はホームへ上がると、端の方へ逃げた。

 なにから逃げていたのか、どこへ逃げるつもりなのか。なにもかもわからないけれど、とにかく隅の方へ。

 周りから見れば挙動不審もいいところだろうなあ、と客観視すると、少し落ち着きを取り戻した。

 大丈夫。大丈夫。俺は大丈夫。

 日本という国は治安がいい。だからこれくらいの人間がいたところで駅員に声をかけられたりなんかはしない。

 周りを見渡せば一人くらいおかしな人間は見つかる。

 障害を持っているのか、人間であることが馬鹿らしくなったのか、そんな行動で迷惑をかけている人間なんてよくいる。

 そうはなりたくないなと、昔は思っていた。

 だから老害になり下がる前にとっとと死んでしまいたいと思った。

 長く生きていたってろくなことはない。それだけ選択する機会が増えるということは不幸が増えるということなのだから。

 早くに死んで社会に貢献したいと思ったのだ。

 それでも俺が死ねなかったのは、両親から親より早く死ぬことだけはするなと言われたことと、1人目の彼女に言われた言葉が強く残っていたからなのだろう。

 俺なんかを好きになってくれて、俺なんかといっしょに死んでくれようとしたあの子のために、少しは生きていようと思えた。

 けれどその人だってもう人妻だ。名字も変わり、今は幸せに生きている。

 俺のために死んでくれなくてよかった。

 幸せになってくれてよかった。

 自分の知らないところで笑顔で過ごしてほしい。そう思える人だったな。

 俺は電車に揺られながらそんなことを思い涙が零れそうになる。

 これはどんな感情からなのか、自分にもよくわからなかった。


 イベント会場に到着し、俺はスマホを開いた。

 彼女の卓はどこなのか確認をする。

 イベント開始から今は2時間程度といったところか。

 まだ彼女は自分の席にいるだろうか。

 無闇に近づいて存在に勘付かれてはいけない。俺は慎重に歩を進めた。

 場所を確認するとそこには彼女とその意中の男が仲よさげに座っていた。

 人波のせいか嫉妬のせいか、胃液が迫り上がってくる。

 必死に苦水を呑み、見つからないように物陰に身を潜める。

 それから何分経っただろう。

 見たことのない笑顔を振りまく彼女に、殺意のようなものが芽生えた。

 それと同時に俺は嬉しくもあった。

 やっと終われる。

 終わる理由をくれた。

 すべて終わる。

 このときが、俺のクライマックスだ。

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