五百年

田辺すみ

地界より

 また春がくる。

 花霞の陽気が何日か続いて、うとうととしかけた耳に小さく鳥が羽ばたく音が聞こえた。半身を拘束している大岩の上に、白い翼が翻る。


 岩から生まれて花果山の猿たちに王とかしずかれていたは、天界で悪さをしたために釈迦如来によってこの五行山の岩の檻へ閉じ込められてしまった。最初の百年は逃れようと足掻いたが全くの徒労であったし、おれは気が付いた。動きを封じられていることが罰なのではない、身の回りに誰も何もいないこと、孤独こそが罰なのだ。大気も大地も動くが、おれに触れるものはいない。美しいものに手が届かない。嬉しいことも哀しいことも語り合える者がいない。永遠の命など役に立たない。おれは生まれて初めて泣いた。


 それからまた何年かが過ぎ、ある日一羽の蝶がふらふらと手元に飛んできた。こんな岩山の奥だから、突風に吹かれでもしたのだろう、翅は色褪せていた。おれはせいぜい胸元を持ち上げて覆ってやり、雨風を避けられるようにしてやった。蝶はゆらゆらと翅を動かしながら暫くそこにいて、やがて倒れて動かなくなった。一体おれは、神仏よりも強くなった気でいたが、こんな小さなものまで守れないではないか。酷い罰だと思った。おれは何も分かっていなかった。


 何かしら生命は、閉じ込められたおれの近くにもずっといたのだ。群れからはぐれた蟻や、気まぐれな蜥蜴とかげ、めげずに糸を張る蜘蛛、どこからかこぼれ落ちた種が芽吹いた草や、風に香る花、季節を渡る鳥たち。おれは彼らの言葉を知らない。だが繋がりを感じることができる。彼らの見た聞いた近くて遠い世界をおれは想像する。彼らはおれに一時でも寄り添って受け入れてくれる。輪廻という、命は回り回って互いのつぐないを助けるのかもしれない。


「綺麗だな、銀の朝焼けみたいだ」

 おれは傍らに降り立った一羽の白鷺に話しかけた。鳥は低く鳴いておれのひたいをつつく。おれは笑った。残念だけどおれは行けない。彼方まで飛んで見てくるといい。また会おう。


 そうして再び春がくる。おれは耳を疑った−人の足音が岩山を登ってくる。日の光を受けて眩しそうな瞳がおれを捉える。

「五百年だ、迎えにきた」

 やっと名乗れるな、私は玄奘。共に救われた身だ、共に行こう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

五百年 田辺すみ @stanabe

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ