第9話 隠れ茶室
その後行くあてもなく京都の街を歩き、気づけば河原町商店街に行き着いた。
人気のない 飲食店の裏口に行ってへなへなと萎れた。未来は空白だ。無計画で、一文無しで、宿もない。何よりも生きる気力を失っている。
これまで忠実に国家のスパイとして生きてきたが、自分も所詮は国の都合の良いように開発されたハムスターなのだ。
人が近づく足音がワタクシの寄りかかるゴミ箱の前でピタリと止んだ。見上げると、見慣れた顔がのぞいている。アンビエント国の上司だった。
「逃げられると思ったか。お前の体にはGPSが埋め込まれている。」
上司の感情のない声に身震いした。
ワタクシは恐怖のあまり逃げ出した。商店街のアーケードによじ登り、河原町通をひたすら北へ北へと逃げた。アーケードは河原町三条で終わりだ。ここで屋根から飛び降り、河原町通を右に曲がる。それから三条通を鴨川の方へ走った。鴨川が見えた時には、もうすぐ後ろまで上司が迫っている。
ここで逃げ切るには、三条大橋から川に飛び降りるしかなかった。右足首が酷く痛む。もう走るのは限界だった。政府の人間に連れ戻されるくらいなら、鴨川に身投げしたほうがマシだ。
意を決して川の流れに飛び込んだ。4月とは言え、水温は想像を超える冷たさである。そんな感覚も次第に失われ、鼻に口に喉に鴨川の水が流れ込み意識が遠のいた。
まだほんの薄っすらと意識が残っていたのだろうか、それとも死後の世界に行き着いたのだろうか。見分けがつかなかった。フワッとした温かみのある何かがワタクシの体を包んだ。次の瞬間、息ができることに気づいた。水中から出たのだ。そのまま視線は垂直に上昇し空へと昇っていくのがわかる。あぁ、ついに死んだのだろうな。天へ昇っているのだろうか、人間があれほど憧れている天国という場所へ向かっているのだろうか。
目は半分も開かず、耳に水が詰まって周りの音はあまり聞こえない。しかし微かに誰かが自分に話しかける声がする。
「スピード出るで。しっかり掴まってや。首んとこ掴んでええから。」
左右には茶色い鳥の羽の中に紫色が美しく輝いているのが見える。カモのようだ。
「すみません、あの、その、ワタクシまだ生きてるんでしょうか」
「生きてんで、そんな簡単には死なれへんのや。」
カモは続けて聞いた。
「どないしたん、えらい追われてるやないか」
「えぇ、どんなに逃げても無駄なんです。いつも監視されているから...」
「酷いことする人間がおんねんな。」
「助けていただいたこと、感謝します。でも、このままだとあなたも危ない。今もきっと奴らに追跡されてます。」
「ははは。そんなら心配いらんで。ええとこ連れてったる。」
カモは自信げに言った。
その後、しばらくの間カモは沈黙した。京都市の上空から見える景色は絶景だった。京都中の桜が満開で、街全体が桜色に染まっている。左下には御所、右には大文字山、前方には下鴨神社が見えている。カモはどうやら鴨川の真上を北上しているようだった。鴨川が大きく二手に分かれる場所を過ぎると、方向を変え西へと向かった。そして何やらお寺の集まる場所が見えると、高度を下げ始めた。
しばらく沈黙を守っていたカモが口を開いた。「着陸すんで」。カモは寺の中庭に降り立った。
日は沈みかけていて、庭のキリシタン燈篭の灯りがやさしく地面を照らしている。
庭から和室の中を眺める初老の男性が床の間に軸を掛けていた。
「和尚様、来たで〜お客さんもおるわ」
カモは友達のように声をかけた。
和尚様はゆっくりとこちらを振り返り穏やかな笑みを浮かべている。
「あぁ、朱雀か。珍しいなぁ、こんな時間に。寒そうやわ。上がってや。」
和尚様はワタクシの存在に気づいているようだが、驚きもせず迎え入れようとしてくれた。
庭から縁側にのぼると、朱雀と呼ばれるカモが奥にある和室へと案内してくれた。
「まだ体が乾いてへんなあ。火鉢の前座ったらええわ。」
火鉢にあたると、感じたことのないジンワリした暖かさに包まれた。
和室の中には正方形の穴があって、その中に赤く静かに燃える炭が重なっている。和尚様は何も言わずに、大きな茶釜を持ってきて、その炭の上に釜をかけた。
日本の寺院の中に入るのも、和尚様と呼ばれる人間を見るのも初めてだ。
「残り物やけどこんなもんでよかったらどうぞ。」
そう言って和尚様がワタクシと朱雀の前にお椀を置いた。
蓋を開けると柚子の香りがふんわりと香り、湯気が顔を覆う。何やら、美味しそうな里芋の揚げ出しに湯葉あんかけ。一口食べると体中の血液がどくどくと勢いよく流れ出した。生き返った気分だ。
茶釜の湯が、ジリ、ジリ、ジリと鳴り始めた。辺りはもう真っ暗で、真冬の静粛な茶室によく響く。
ワタクシは考えた。
この寺は不思議だ。ワタクシのようなならず者を快く受け入れ、もてなしてくれる。何か裏があるのではないか。それから人間が鳥と当たり前のように話しているのも不可解だ。そもそもワタクシが人間の言葉を話すことに何故この和尚さまとやらは疑問を持たない?自分の中の常識を逸脱した現象が起きている。
そんなことを考えていると、ジリジリと鳴っていた釜はジーーーと1つになった。和尚様は釜の蓋を開けて、茶碗にお湯を注ぎ、何やら緑色の粉末を湯でかき混ぜてワタクシに差し出した。
もしや、これが噂のマッチャというものか。きっとそうだ。ひとくち飲むとまろやかで口当たりの良い泡に驚いた。不思議なほどに甘くてやさしい。
しまった。気が緩んだのかいつの間にか眠ってしまったようだ。目が覚めると朝になっていた。ワタクシは4畳半の狭い茶室の布団の上にいる。何やら隣の部屋から会話が聞こえてきた。昨日助けてくれた鴨の声と、他に知らない声の主が2人いるようだ。
「なんやて?魔物が北から入った?」
「ほんとよ。アタチ、昨日鴨川疏水で見たんやから。」
「それ、あかんやつちゃうの?」
「玄武がおったらそんなん入ってこられへんやろ?」
「それがさ玄武のやつ最近見なくてさ」
「まさかあいつ、またおらんようになったんか?」
何やら深刻そうな雰囲気だった。
しかしいつまでもここにいるわけには行かない。お礼を言って早くここを出なければ上司に場所をつきとめられる。
ワタクシは勇気を出して隣の和室の襖を開けた。
「お、おハムさん起きたか。体調はどうや」
昨日助けてくれた朱雀が声をかけてきた。
「お、おはようございます。とても助かりました。これ以上いるとご迷惑になりますのでそろそろ失礼を...」
「何や、迷惑ってあれか。監視されて追い回されてるってやつか?」
「は、はい。ワタクシの体にはGPSが埋め込まれていて...」
「それやったらほんまに大丈夫やって」
「え?」
「この部屋は隠れ茶室や。電子機器は一切通じひん。もちろんGPSもや。な、和尚様!」
朱雀はちょうどここにやって来た和尚様に問いかけた。
「大昔のことやけどな、修行の邪魔になる言うて茶道が禁止された時代があったんや。その時に昔の人が隠れて茶ができるように作ったんがこの部屋や」
「試しに。ほら」
和尚様はそう言って自分のスマホを見せてきた。確かに圏外になっている。
「ワシもどういうわけかわからんが、昔の人の想いがいまも根強く残ってるんかもな。ここでよかったらいくらでもいてもろて構わへんで」
外へ行ったところで捕まるのも時間の問題だ。ワタクシは和尚様の言うことを信じてみることにした。
「なあ、朱雀、このネズミはん、何ですの?」
朱雀の隣に座っているトラ猫が聞いた。
「ネズミちゃう、おハムさんや。な?」
ワタクシは自分のことを何と紹介したら良いのか戸惑った。スパイとして本名を明かすわけにはいかない。咄嗟に出て来たのは旧友から呼ばれていたあだ名だった。
「あの、申し遅れました。ワタクシ、ハムーニャと申します。」
「何や、ハムーニャ言うんか。こいつは白虎。京都の西の方角担当や。そんでこっちは青龍。東の方角担当や。」
「白虎さんと、青龍さんですか。よろしくお願いします。」
「そんでな、ワイらの仲間はもうひとりおるんやけどな...」
朱雀は言葉を詰まらせ、白虎がフォローした。
「今日も9時に集合のはずやってん。やけど玄武のやつ、来いひんわ〜。」
「玄武は気難しい性格でな、たまに失踪すんねん。そんでアタチたち困ってんねん」
白虎がだるそうに言う。
どうやら玄武という北の霊獣が消えたらしい。これが後々、京都の街を揺るがすきっかけになるとは知る由もなかった。
京都の守り神は元スパイ〜もふもふ霊能力者ハムーニャの京都亡命物語 うらら @hamchansensei
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