秋月琴音の立ち止まり

京野 薫

天気予報とわたし

 5月にしては季節外れの暑さになるでしょう。

 危険な暑さになるので熱中症にお気を付け下さい。

 

 そんな今朝の天気予報を実感させるような日差しの刺す朝7時15分。

 駅のホームでようやく空いたわずかな日陰に身体を滑り込ませると、私は何度目かになる深いため息をついた。

 そして、ちらちらと腕時計を見る。

 

 ああ……あと4分くらいで電車が来るんだ。

 この電車に乗ると、問答無用で会社のある駅まで一直線。

 そんな事を思ってふと気付くと、自分の呼吸がすごく浅くなっているのに気付いて、慌てて深呼吸する。


 そう、私……秋月琴音あきづきことねは会社に行くのがとっても憂鬱だった。

 理由は単純。

 職場のチームでの大きな案件を終わらせたせいで、燃え尽きた感が強かったのだ。

 でも、休む間もなく次の案件。

 それに対して自分がビックリするくらい負担に感じているのが分かり、余計に胸の中に重い何かが「ボコッ」と出てくる。

 

 私が頑張らないと。

 そう思って突き進んできた。そして、突き進む。

 でも、そんなやる気と裏腹に電車が来ない今の時間を噛みしめるように過ごしている。

 電車、来て欲しくないな……


 10回目になるため息をついて、何気なく顔を上げた私はホームに滑り込んできた電車に乗り込む。

 人の流れが味方したのか、車内で押し流された先は窓のすぐ近くだったので内心小さくガッツポーズ。

 外の景色見るの、好きなんだ。

 ちょっとは救われた。


 気付くと窓の外の過ぎゆく建物ばかり見ている。

 気持ちが沈むと何故か、視線が固定される。

 それが自分の気持ちをすり減らしていくようでしんどい。


 またため息。

 流れる景色って元気ないときはかえって疲れるな……

 そう思い目を閉じようとした私は、ハッと目を見開いた。


 車窓の外に見えた、名前も知らない街の名前も知らない……お店?

 それに目が釘付けになった。

 真っ白な壁に夏の海のような深い青色の屋根。

 近くには何かの看板が見えてた。

 

 そんなに大きなお店じゃない。

 多分個人経営だろう。

 でも……たまらなく胸がドキドキした。

 何てお店だろう……今まで気付かなかった。

 電車の中ではタブレットで仕事の資料か、スマホゲームか、それでなければ憂鬱な気分を紛らわせるべく目を閉じていたので気付かなかった。


 行ってみたい。

 さっそく携帯で調べようと画面を開いた私の目には、現在の時間。

 7時40分。

 職場の駅に着くまで後20分。

 駅からは10分歩くと職場。

 

 頭切り替えないと……今からはお仕事の私。

 でも……あのお店を調べられるのはお昼休みまでお預けか……。


 あのお店、ランチとかやってるのかな?

 そう思った途端、心臓が大きく跳ねた。

 心臓の音が身体の外に漏れ出して耳に飛び込んでるみたい。

 血管が酷く脈打つ。


 そう言えば最近、有給取ってなかったな……

 でも、ずる休みなんて大学出てからしたことない。

 みんなに迷惑かけちゃう。

 もし、私が休んでそのせいでトラブルになったら……

 やっぱり出勤しよう。

 あのお店は今度のお休みに行こう。

 

 でも……

 ああ、どうしよう。

 意味も無く車内をキョロキョロ見回す私の耳に「次は鈴生すずなり。鈴生」という声が聞こえた。 


 あのお店、最寄り駅は鈴生って言うんだ……


 

 ああ……やっちゃった。

 

 鈴生駅の人がほとんど居ない寂しいホームの、これまたペンキのアチコチ剥がれたベンチにぽつねんと座って、私は呆然としていた。

 

 職場に「朝から熱が下がらなくて……」と言う連絡を入れた。

 対応してくれた後輩の声がいつもと変わらず優しいのに、まるで私を糾弾しているように感じて、やたら小声で早口の報告になってしまった。

 でも、賽は投げられた。

 もう後戻りは出来ない。

 大変なことしちゃった……

 まるでドラマで見た逃亡者の様に周囲を見回す。

 

 もし、誰かに見られたら……

 急に不安になったけど、そんな気持ちと裏腹に見事に誰も居なかった。

 

 腕時計を見たら8時40分。

 世の中のほとんどの会社は仕事が開始。

 そう思ったとき、急に私の周りの光がキラキラしてるように感じて、周囲を見回した。


 綺麗……

 

 何の変哲も無い寂れた駅のホーム……なのに、まるで衛星放送で見た異国の景色の様に鮮明な色彩に見えた。

 ふんわりとした心地よさのままに顔を上に向ける。

 景色が……透明だ。

 

 色があり、物体がある。

 全然透明なんかじゃない。

 そのはずなのに目に映る全てが透明な光に包まれて、透けそうなくらいに澄んで見えた。

 

 世界に私ひとり。

 目に映る全てが私の世界。

 そんな風に感じて鳥肌が立った。

 仕事に行ってるときはもちろん、お休みの日だってこんな風に見えた事なんて無かった。

 世界ってこんな色してたんだ……


 そう思った途端たまらなく嬉しくなって、ニッコリと笑顔になるとベンチに座ったまま大きく伸びをする。

 そして「ふう!」と、わざと声を出して息をつく。

 目の前の光とホームの屋根が作る影。

 その陰影も素敵。

 思わず携帯のカメラで2枚ほど撮る。

 生まれて初めてお仕事サボっちゃった記念だ。


 先ほどまでの罪悪感はどこかに行っちゃった。

 ずっと有給も取らずに頑張ってきた。

 彼氏や彼女と食事や遊びに行ってる同僚や先輩後輩の分も頑張ってきた。

 このくらい……いいよね!

 いそいそと腕時計を見る。

 9時10分。

 

 わあ! まだ全然朝だ。

 この綺麗な世界は始まったばかり。

 

「よし、あのお店を求めて……琴音の長い旅が始まった」


 人が居たらとても言えないような恥ずかしいことをわざと言ってみる。

 自分が趣味で書いてる小説の主人公になったみたいな高揚感。

 実際に気分は異国の旅をするようだった。


 誰も居ない改札を出ると、周囲を見回す。

 ホントに人居ないな……そして空が広い。

 

 高い建物が無い。

 それだけで空が驚くほど広い。

 浮かぶ雲は1つの世界が隠れてるみたいに雄大。

 自分があの雲の上を歩いているイメージを浮かべてみる。

 ひたすらに白い雲の景色。雲の世界。

 そこに点のように存在する私。

 この街の中にもまるで私と言う点しかいないみたい。

 何せ車さえもほとんど通らないって凄いよね……


 静寂ってこんなに気持ちよかったんだ。

 微かな風が周囲の木々を揺らす。

 遠くで小鳥のさえずり。

 もっと遠くで誰かの運転する車のエンジン音。

 あとは静寂。

 そして、透明な光に包まれた澄み渡った……それでいて全部の色が鮮明に見える世界。

 それはまるで学生時代に単館上映で見た外国映画の1場面のよう。


 「何もない」ってすごい贅沢だったんだ……

 

 私は腕時計を外してバッグに仕舞った。

 携帯も。

 今日は時計を忘れてみよう。

 時間を手放してみよう。

 そしたらどんな景色が見えるかな……

 

 お腹が空いたらその時にお店に入ってご飯を食べよう。

 お店はどこでもいい。

 良さそうな所に入ってみよう。

 疲れたら、どこかに座ろう。

 この頬を撫でてくれる様な風を感じて。

 日が明るい間は気の向くまま歩こう。 

 日が沈むまで。

 時間なんていらない。


 ふと、朝の天気予報を思い出した。

 嘘つき。

 こんなに気持ちいい天気なんて今まで知らなかったよ。



 日が沈んで夕闇がうっすらと染めている車窓の景色を見ながら、私はフワフワするような多幸感に身を委ねていた。

 

 結局あのお店は見つからなかった。

 でも全然残念じゃ無かった。

 また探せる。

 今度はお休みの日にゆっくりと。

 それまではお仕事頑張ろう。

 

 明日からはまた新規の案件との戦いだ。

 携帯を見ると後輩からのラインだった。

「体調大丈夫ですか? 秋月先輩ばかりに負担かけてすいません」と言う文章が泣き顔のスタンプと共に送られていた。

「ごめんね、もう大丈夫。明日からよろしくね!」と、送ってホッと息をつく。


 あの透き通った世界。

 今度は有給取って、歩いてみよう。

 鈴生の街を。

 今度はあのお店に行けるといいな。

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