恋人

一ノ瀬 薫

恋人

 地下鉄の車内には、もうそれほど人はいなかった。彼はボンヤリ暗い窓の外を見ていた。昨日の夜、デスクの引出しの中を整理していた時に純子の名刺が出てきたことを思い出した。

 地上に出ると、少しばかり冷たい風が吹いていた。暑さの去った今頃に、いつも夏彦は戸惑う。

 なにか自分がちがう所にいるような感じがするのだ。それはたとえば仕事を変わったときとか、誰かを好きになったときとかそうした時の変化ではなく、ちがう世界に突然投げ込まれるような感覚だった。

 駅で夏彦は乗り換えの出口には向かわず、街へ出た。


 ほんの二、三年位前までは、街をぶらつくのも退屈しのぎにもなったが、今はもうそんな気にもならなくなった。年をとったというほどのものではないだろうが、一日一日の印象が薄く、過ぎてゆく毎日をただ眺めているようだった。

 夏彦が純子を思い出したことにとらわれるのは、そんな風に過ごしてしまった報いではないのかと言う気すらするのだ。

 知り合って七、八年は経っていたと思うが、思い出しただけでも、純子とは五、六回しか会っていない。

 いい友達になれたろうな、と思い耽りながら、星がまばらに見える夜の空を夏彦はボンヤリ見ていた。

 いずれは、ここから自分も消滅するのだ。それを考えると、自分のために人の出会いを奪う事だけはやめよう、と夏彦は思った。


 街はネオンと行き交う車のヘッドライトで明るかった。

 彼はとある店に向かって歩き始めた。そこは夏彦の友人に連れられて行って知った。

 その店は、わざわざ分かりにくいところにあってしかも宣伝をしない。

 今はちょっとした店でも、サイトの一つも作って集客をするのだろうが、それでも店は客の絶えることが無かった。

 客席は入り口で靴を脱いで上がり、十畳敷きに5つ古いちゃぶ台があった。空いている畳の上に酒や肴をおいて飲み食いする客もいた。

 厨房の前のカウンターには長椅子があるだけなのでそこはみんなで詰めて座る。二十人も入れば満員のところに倍も入っている時がある。しかし、揉めたところを見たことがない。

 どの客も良い気分で飲みたいのは同じだからだろう。


 夏彦はじゃがバターを頼み、出来立てのそれでビールを飲み始めた。

 しばらくして、一人の女が入ってきた。

 若いがどこか落ち着いたところのある雰囲気だった。

 板張りのカウンターの前に座り、こちらを見てニッコリ笑った。愛想はいいが水商売という感じでもない。

 待ち合わせだろうと軽く会釈をした。

 すると意外なことに女の方から話しかけてきた。

「常連の方ですか」

「よく来ることは来ます。週に2回は」

「はやってるんですね」

「意外にね」

「意外に、ですか」

 アルバイトの早坂は、カウンター越しにそう言って笑った。

 女もそれを見て、ふふと笑った。

「なんとなくぶらぶらしていて見つけたんですが、不思議ですね、こんな隠れ家みたいなお店があるなんて」

「だからいいんですよ、誰にも会いたくなくて来る。もちろん友人と来るのもいいけれど、今じゃここに連れてきてくれた奴も僕は誘わない」

「でも、誰も文句はいわない」

 女はこちらを向いて、頬杖をついたまま言った。

 夏彦はうなずいた。

「勝手に話をして、あるいは飲んで帰る。煩い奴は追い出される」

 煩い人はいませんよ、と早坂は付け加えた。

「じゃあ、私はあなたとこうして話をしたりしてもかまわないんですね」

 女は言い、夏彦は笑った。

「おかしいですか」

 怪訝な顔で女はたずねた。

「そんなこと言われた事がないな。礼儀正しい人だね」

 夏彦は言った。

「一人でお酒を飲みに来たのが初めてで、作法がわからないんです」

「作法はないが無礼な酒飲みは多いから、あなたは上等だ」

 そんな話をしているうちにお客が入って来た。女は離れているのを気にしているようだった。

「隣に来ませんか、僕が行きましょうか」

 女は慌てて私が行きます。とやってきた。

 まあ、一杯飲んでください、と夏彦はビールを女のグラスに注いだ。


 女の名前は偶然だがジュンコだった。夏彦が名乗ると教えてくれた。

 字が違っていたが、夏彦はほんの少し寂しい気持ちになった。こんな風に飲む事だってできたのだと思ったからだった。

 そんなことを思っていると、ジュンコは彼のコップに黙ってビールを注いだ。

「ジュンコって、いい名前だなあ」

「そうですか、なんとなく古臭いでしょう、今どきそんな名前を付ける親はいないですよ」

「それを言うなら夏彦だって古臭い」

「夏彦はいいですよ、彦っていうのはいい男を意味する字だって聞きましたよ、そう考えれば夏のいい男ですよ」

 夏はあんまり似合う柄じゃないんだがな、と夏彦は苦笑いを浮かべた。

「ジュンコさんはどんな所で育ったの」

「田舎です、海はありましたが他には何も無いところで。浜によくいきましたが友達もいなかったので、一人でぼんやり波を見てました」

 ジュンコはカウンターに両手でほお杖をついて何やら思い出しているようだった。

「初恋は海のある街か」

「そんないいものじゃなかったですよ」

 夏はまだしも冬は殺風景で人なんかいませんでしたから。今考えると何が楽しくて行ってたんだろう、と言ってジュンコは首をかしげた。

「そういうことってあるな、自分のことでもよくわからないことは結構あるよ」

 俺だって中年になるとは思わなかったからな、と夏彦はつぶやいた。

「中年じゃないですよ。まだ青年」

「なにも出ないぞ」

「本当のことですよ。そんなこと言っても似合わないです」

 ジュンコはそう言って、夏彦の肩を軽くたたいた。

 店はにぎわい始めたので、彼らは少し大きな声で話すようになった。

「出ようか」

 夏彦はジュンコに言った。


 外は風が少し吹いていてジュンコは自分を抱くように腕を抱えた。夏彦はそれを見てなんとなくいいな、と思った。

「どこへ行こう」

「決めてないんですか」

と、ジュンコはあきれたようにおかしそうに言った。

「実はこの辺はあそこ以外に知らないんだ」

 そう言って夏彦はあてもなく歩き始めた。ジュンコもその隣を歩いた。

 冬になりかけの空気はどこかさわやかで、気分をしっかりさせるが、夏彦には気分にもあてがなく、自由なような頼りないようなそんな感じだった。

 初めて会った女を誘って店は出たがどうしようという気もなかった。

「どこか、行く先思いつきましたか」

とジュンコはたずねた。夏彦は曖昧に頷きながら言った。

「ところで、君は何者だ」

 ジュンコはまだ、学生ですよ、と答えた。

「今頃は忙しいのかな。」

「全然」

 じゃぁいいな、ちょっと付き合ってくれないか、と夏彦は言った。

「どこへ、です」

とジュンコが聞くと、

「行って見たいところができた。何もないんだが」

そう夏彦は言ってジュンコを見た。

「どうせする事なんか何にもないんですから、付き合います」

「いいのかい、初めて会ったのに」

「そんなこと関係ないんじゃないですか。」

「君は見かけによらず、無鉄砲だな」

「誘っておいてやめさせようとするって、どういうことですか」

 夏彦はそれもそうだ、と笑ったが、しかし心配してるんだと言った。

「心配しなきゃいけないことがありますか」

「わからんね、僕も男だから安全は保証できない」

「私も女だから保証のかぎりではありませんよ」

 ジュンコがそう言い返すと夏彦は、やっぱり中年だよ、怖がらせる事もできないで怖い思いをする、と言った。

「だいじょうぶ、襲ったりしないですから」

と、ジュンコはと笑った。

 夏彦は当たり前だ、男の沽券にかかわると苦笑すると歩き出した。


 純子が一人だったらどうしたろうか、と考えた。

 自分が口説いて恋人にしただろうか。夏彦は少し考えたが、しなかっただろう、と思った。

 今でも若く元気な純子と友人でいたにちがいない。純子はそういうことのできる女だった。だから悲しかった。

 この悲しさはきっと肉親でもなく恋人でもなく、どんな関係の人間でもこの先感じる事の無い悲しみだろう。正確に言えば悲しみというより傷みに近かった。


 夏彦はジュンコを連れて通りまで出るとタクシーを拾って、とある町を運転手に告げた。ジュンコは車の中で押し黙っている夏彦をそっと窺って、どうしたのだろうというように困惑していた。

 あの、とジュンコはいい、夏彦は我に還った。

「ああ、ちょっと色々と思い出してた」

「これからいくところに関係があるんですか」

 うん、と夏彦はうなずいた。

 ジュンコは少しはにかむようにして言った。

「実はさっき話した田舎の浜辺ではじめてキスをしたんです」

「ほう。初恋の人と?」

「いいえ」

「意外だ。結構もててたんだな」

「そういうんじゃないんですよ。幼馴染とたまたまそこで話をしていたんですが旅行かなんかで来たカップルが抱き合ってキスをしているのを見てしまって、私たちもやってみようかというんで、しちゃったんです」

 それを聞くと、夏彦はなかなかいい思い出じゃないか、と微笑んだ。

 二人を乗せたタクシーは対向車のヘッドライトを浴びながら夜の道を流れるように走った。


 夏彦は夜の道が好きだった。仕事で遅くなったときなどタクシーの中でボンヤリ外を眺めていると、落ち着いた。

 どこかに運ばれていくのは、そんな感覚が好きだった。

 ジュンコは夏彦に言った。

「私、こうして男の人と車に乗るのは初めての経験です」

「そう言われると緊張するな」

 夏彦がそう言うとジュンコは吹き出し、

「夏彦さんが緊張すること無いじゃないですか」

 夏彦はまあそうだな、と笑った。

「君は恋人はいるのか」

「そりゃあいますよ」

「それは、いいことだ」

「といいたいとこですが、別れたばっかりです。」

「それでか」

「何が、です」

「一人であの店に来たわけさ」

 ジュンコはあいまいに頷いた。

「彼と飲みに行くことはあんまり無かったですよ。話すことは好きだったけれど、どこかにいつも二人で行くってことはあんまり好きでなかったから」

「わからんな、好きなもの同士で出かけるのは楽しいだろう」

「そうならなかったから、別れたのかもしれないですね」

 そういわれて、夏彦は返す言葉が無かった。きっとこういうところが相手の男とはうまくいかなった原因だろうと思った。

「何で黙ってるんですか」

「話題をあやまったな、と思って」

 ジュンコはもう彼のことは気にしてませんよ、私も最後はそんなに好きじゃなくなっていたんで。

「君から別れたのか」

「もういいだろうって感じですね。別れようか、そうだねって感じです。」

 寂しくなかったのか、と夏彦は言った。

「二人でいて何もないほうが寂しいです。今のほうが楽しい」

 夏彦はなんとなく昔の事を思い出して、そうか、と言った。


 確かに一人でいることの自由さや開放感があった。誰か決まった女と付き合うことが長くはできなかった。

 夏彦はそういうわけで一人でいることのほうが多かった。

 タクシーが街道から小さな駅前のロータリーに来ると、夏彦は向うにある駐車禁止の標識の前で止めてくれ、と言った。ささやかと言っていいほどの街灯が細い商店街の道を照らしていた。

 夏彦はジュンコとタクシーを降ると商店街を歩いて行き、小さな十字路の一角にある公園に入った。ジュンコは大人しく、しかし何か珍しいものを見るように、辺りを見回した。

「こんなところに連れてきて悪かったかな、つまらない何も無い所なんだ。」

 ジュンコはそう言った夏彦を見て首を横に振った。

「思い出があるんですね」

「いろいろあったような気がする。はっきりしないんだが」

 夏彦は座ろう、と言って小さな公園には不似合いなほどがっちりした木のベンチを見て言った。

「何か思い出してください」

ジュンコは、言った。夏彦は少し上を見ながら、フーンと息をついた。

「ここで、ある女の子とよく話をしたんだ。恋人じゃなかった」

 友達だったと夏彦と心の中で確認した。

 ジュンコはうなづいていた。

「彼女には夢があった。そういう話をしたんだ。きっと恋人にも話したろうな、いい奴だったんだ」

「その子もいい子だったんですね」

「ちょっと変わっていたけれど、いい子だった。なんとなく遠い親戚の子みたいな感じだな。数えるくらいしか会えなかった」

「恋人がいたからですね」

 ジュンコは言った。夏彦は何も言わなかった。

「いい子ですよ」

 とジュンコはもう一度言った。

「俺は、彼らはずっと付き合っていくとなんとなく思っていた。実際、長く付き合った」

 でも、別れちまった、と夏彦は静かに言った。

「そうですか」

「彼女から別れたらしい。彼は参っていたな。俺にも経験がある。どんなに必要かわかってなかった。そういう時、女は別れる」

 ジュンコは夏彦に訊ねた。

「夏彦さんは昔付き合った人のことを思い出しますか」

 タバコに火をつけて夏彦は煙を細く口からたなびかせた。

「あまり思い出すことはないね」

「好きじゃなくなるんですか」

「なんとも思わなくなるのかな。だから思い出すこともない」

 ジュンコは不満そうな顔をした。

「寂しいじゃないですか、なんとも思わないなんて」

「誰が寂しくなるんだ。相手も俺も忘れるだけだろう」

 夏彦は両膝に肘をついてそう言った。

「今は好きな人はいないんですか」

「急だな」

「今好きな人がいるのなら、なんとも思わないのは納得いきますからね」

 なるほど、と夏彦は言った。

「いてもいなくても、なんとも思わないよ」

「そういうもんですか」

「人はどうかわからないけどね、たぶん俺はそんな感じだ」

 公園の灯りは二人をボンヤリ照らしていた。遠くで車が走る音が繰り返し小波のように聞こえていた。

「さっきの人は彼と別れてどうしたんです」

「一人でいたよ」

「夏彦さんは付き合おうとは思わなかったんですか。夏彦さんは好きだったんだと私は思うだけど」

 ジュンコはそう言って微笑んだ。

「どうかな」

 夏彦と言っただけでジュンコの問いには答えなかった。


 風が少し吹いていた。そろそろ風が冷たくなってくる季節だった。

「そろそろ、行くか」

 彼は立ち上がった。すると、ジュンコは夏彦の手つかんでもう一度ベンチに座らせた。

「なんだい」

「やっぱり好きだったんでしょ」

 夏彦は目の前の滑り台の辺りを見ていた。ジュンコは空をみて暗い空に微かな星の光を見つけた。その時夏彦は、苦しいものを吐き出すようにため息をつくと言った。

「好きだったのかもしれない。でも、付き合わなくてもいいんだ」

「彼女も夏彦さんを好きだったとしても?」

「向こうはどうかわからないが、俺は好きだなんて事は言いたくなかった」

 まあ、無責任なだけなんだよ、と夏彦は何かをごまかすように小さな声で言った。

「わかんないなぁ」

とジュンコはごねるように言った。

「まあ、そんなこともあるんだ」

 ジュンコがまだ何か言いたそうにしていたが、彼は、もういいだろう、と笑った。そして、

「もう帰ろう」

とジュンコに手を伸ばした。

 ジュンコは夏彦を見ると当たり前のようにその手を握り、立ち上がった。


 夏彦は駅前でジュンコをタクシーに乗せて、自分はぶらぶらしてゆくと別れた。

 運転手に金を渡し、今度あの飲み屋でまた話でもしようと言った。

 車を見送り、時計を見ると30分ほどで始発が出る時間だった。

 朝の光に空は満たされ始めていた。夏彦はそれを見上げ、眠くなりかけた頭を左右に振った。雲は遠くで光を映してその向うには青い色が広がっていた。

 そろそろ寒くなる季節なのだと夏彦は思った。そして、何か暖かいものでも飲もうと、バスターミナルの向うにあるコンビニに向かって歩き始めた。


 夏彦は冷たい空気を感じながら、もう純子について誰かに話すことはないだろう、と心の中でつぶやいた。

 彼女は自分の中で波のように幾度も静かに寄せては返すに違いない、夏彦にはそれが分かった。

 そして、純子のいない時間がこれからずっと続くのだと思った。

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