地獄でアタシに謝れ
愛工田 伊名電
吐き気が収まる気配はない。視界は朦朧としていて、ノイズがかかっている。何も見えない。吐いたゲロがトイレの底にある。消化されて胃液にまみれている食べ物が沈んでいる。よく分からない、とにかく気持ち悪い臭いがする。腹の底から酸っぱいなにかが這い上がってくる。のどが痛い。最悪の気分だ。頼む。許してくれ。
「おえぇっ」
俺が悪かった。許してくれ、
俺は夢月を殺した。キッチンに立っていた君の背中を刺して、君を殺しちまった。後のことなんか何にも考えちゃいないんだ。ただの一時の迷いだったんだ。俺はバカだ。最悪の男だ。今、とても後悔してるんだ。あの世で謝らせてくれ。ごめんなさい。
「君に死んで詫びたいよ」
俺は天を仰いだ。
「じゃあ、死んでくれる?」
「わァ!」
思わず叫んでしまった。なんだ、今の。夢月の声が、一瞬聞こえた。
「幻聴かな」
「ホントだよ〜。」
「ぎゃあ!」
また、叫んでしまった。なんだ、今の。夢月の白い腕が一瞬見えた。
「幻覚かな」
「ホントだって。」
「うわぁ!」
合計、3度叫んでしまった。
夢月だ。俺の目の前に、殺してしまったはずの夢月の顔があるぞ。目を細めて俺に微笑みを浮かべているぞ。無意識に仰け反ってトイレの床にへたり込んでしまった。
「なんで、なんでぇ、夢月っ」
「あー、アタシ今幽霊なの。」
「え?」
怒涛の展開だ。そして、夢月は毎度の如くヘラヘラしている。この夢月は幽霊なのか?だとすると、夢月は俺を祟り殺すために、この世に留まっているのか?
「俺を祟り殺すのかよ?」
「そんな訳ないじゃ〜ん。」
またもヘラヘラしている。俺の殺害以外の未練があるのか。
「じゃ、なんのために…」
「
「ドライブ」
「ん、ドライブ!」
逆らったら何をされるか分かったものではない。夢月の言う通りにしなくては。
「分かった、行こう。ドライブ。」
「やった〜!」
にんまりした笑顔を浮かべて、夢月はトイレから出ていった。自分を殺した恋人とドライブに行って、夢月は楽しくなるのだろうか。
ちょっと待ったものの、夢月が掃除用具を持ってくることは無かった。俺はゲロの処理を1人でやることになった。なんだよ、面倒臭いな。
やっと終わった。ゲロを多分に含んだトイレットペーパーを流し、俺もトイレから出て、照明を消した。狭い廊下を挟んだ、トイレの向かいにある洗面台へ歩いた。その途中の短い3歩が、夢月を殺した直後よりか、軽い気がした。夢月にもう一度会えたからだろうな。自分で殺したくせに、だ。最低だ。
洗面台で、夢月の血にまみれた俺の手を洗った。水道水が夢月の血をどんどん落として、排水口に流していく。俺の手はどんどんキレイになっていく。が、意外に爪の間の血が取れないので、時間がかかった。
廊下を出て、キッチンをできるだけ視界に入れないようにしてクローゼットに入り、適当なシャツと短パンを選んで、着た。8月は深夜でも暑いからだ。
俺が着替え終わって少し経ったあたりで、夢月が部屋から出てきた。ニヤニヤしながらおぼつかないモデル歩きで、2年前買った白のマキシワンピースをお披露目してくれた。夢月の黒く長い髪に似合っていて、本当に可愛かった。
「やっぱり、可愛いね」
「んふふふ、やっぱり〜?」
「うん、やっぱり」
夢月は嬉しそうだった。
その後、俺と夢月はマンションを出て、駐車場に向かった。電灯はどこにも付いておらず、辺りは暗かった。2人でお金を出し合って買ったハスラーに乗り、駐車場から出ていった。
発車した後、夢月が好きなラジオをAV機器に繋いだ。人気な若手芸人が出ているラジオらしい。夢月に聞いたが、知らないコンビ名だった。生きてる時に教えてくれても良かったのに。
2人とも、あえて目的地のことを言わなかった。気の向くまま、後先考えず、道を進んでいった。20分ほど経った頃、ナビに見覚えのある文字列が映った。夢月との初めてのデートで行った市民公園の名前だ。もちろん、その文字列を発見した俺と夢月のテンションはすぐに上がった。
「ここってさ…」
「うん、ずっと前に夢月と行ったところだ」 「え、だよね!行こうよ!」
「よーし。行こう、行こう」
「てか、アタシら超ラッキーだよね」
「フラフラ走ってたらいつの間にか、だもんね」
「目指してたわけじゃないのにねぇ」
不思議なこともあるものだなぁ。
公園の傍の駐車場に車をつけた。入口に自販機が設置されていたので、俺は缶コーヒーを、夢月はナタデココの缶ジュースを買った。夢月は毎度の如く、注意書きに従って『よく』振っていたので、その真面目さに吹き出してしまった。
「謎に真面目だよねぇ」
「『よく』振ってください、って言ってるんだからさぁ」
「にしたって振りすぎでしょ。」
「アタシの『よく』はコレなのぉ」
その後、俺と夢月は初めてのデートで通った道を辿っていった。
丸い池に沿って植えられている梅の木達。
銀のチューブと廃材で表されたオブジェ。
滑ったらおしりが痛くなる大きい滑り台。
大体の遊具をやり終えると、夢月が言った。
「あ、あっちの、ちっちゃい山の方って行ったっけ?」
「ううん、まだ行ってないね」
「え、だよね!行こうよ!」
「よーし。行こう、行こう」
夢月にはまだまだ元気があるようで、可愛い小走りで俺を置いていった。俺はその時ヘトヘトで、足取りも重くなっていたものだから、小山の上から夢月に急かされてしまった。
「来て来て、はやくはやく!」
「わかってるわかってる…」
「もうすぐ日の出見えるよ! 日の出。」 「そりゃ、急がなきゃな。」
棒に成り果てた足を無理矢理動かし、なんとか小山を登った。そして、俺と夢月は日の出を見た。
今まで、そしてこれからの人生で見る日の出の中で、一番美しい日の出だと思う。山々と家々の隙間から昇ってくる朝日は、俺と夢月を祝福しているような気さえした。
そして何より、朝日を夢中で見ている夢月の横顔は、今まで、そしてこれからの人生で見るどんな美しいものよりも、美しいと確信できた。
俺は今、人生の『幸せの絶頂』にいるのだ。
そう考えた直後、足首に何かが触れた気がした。
「わァ!」
ビックリして下を見てみると、ドス黒く、大きい、人の手が俺の右足首を掴んでいた。握力はとても強く、棒になった足には痛すぎるものだ。
「あ、修くん引っかかったかんじ?」
「なんだっ、引っかかったってぇ」
足首を掴む握力は弱まることは無い。何だ、これは。なんでこんなことになったんだ。
「修くん、『俺は幸せだなぁ』って思っちゃったでしょ?」
「あぇ、うん」
「それが『罠』ね」
「罠ぁ。」
話しているうち、視界がだんだん低くなってきた。さては、地面に引きづり込まれているのか。
「そー、『罠』なの。『幸せだなぁ』って思っちゃったら発動する、『罠』。」
黒い手を引き剥がそうとするうち、いつの間にか俺の視界は夢月の膝ほどまで来ていた。
引きづり込まれる俺を睨みつけ、夢月は
「じゃあね」
とだけ言った。
畜生。クソ。クソアマ。
地獄でアタシに謝れ 愛工田 伊名電 @haiporoo0813
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