花の香る風に、心解けて
たれねこ
花の香る風に、心解けて
今日もまた朝になる。
四月にはあったはずの、新生活への情熱はゴールデンウィークという休みの間にどこかへと消えてしまった。
だから、今日は一時間目から講義はあるというのに、私は布団の中で二度寝という惰眠をむさぼる。
ここ数日、家を出たのはバイトと買い物だけで、遊びに行く気力すらない。
典型的な五月病――。
それでも不真面目にもなりきれない中途半端な私は、昼からの講義が必修科目なので出席だけでもしなきゃと、もぞもぞと準備を始める。
まずは目を覚ますためのシャワー。
朝ご飯は、もう昼前だし食べなくてもいいか。
化粧は手抜きでベースメイクとリップ、目元だけはちょっとだけしっかりと。髪のセットは面倒なので帽子を被ろう。
服も目に入ったものを無難に合わせる。
女子大生としては、及第点ギリギリで、見る人によっては完全にダメなタイプ。
家の扉を一歩出れば、日焼け止めもちゃんとしておけばよかったと思うほどの、初夏には似合わない陽射しが降り注いでくる。
家の中に戻りたいという気持ちを必死に押し込めて、重たい一歩を踏み出した。
それでも大学に行きたくないという気持ちが、日陰を選びながら普段は通らない道へと足を向かわせる。
そうやっていると道に迷ってしまい、スマホで大学までの最短ルートを検索。
スマホの案内に沿って、静かな住宅街を歩いていると、ふとカフェの立て看板が目に入った。そのせいで空腹を思い出してしまった。
しかし、カフェと言われても、そこはどう見ても普通の一軒家にしか見えなかった。敷地の中をおそるおそるのぞくと、『カフェに御用の方は庭へとお回りください』と書かれたボードが玄関扉の脇に掛けられているのが見えた。
その案内に従って、庭へと回り込むとガーデンルーフの下にテーブルが二つ並んでいて、しっかりとカフェだった。
本当に座っていいのかと戸惑っていると、庭へと続く窓がガラガラと開かれ、「いらっしゃいませ。どうぞお好きなところにお座りください」と、綺麗な白銀髪の老齢の女性に声を掛けれた。
そう促されてはいまさら帰るとも言えず、ここでお昼にしようと覚悟を決めた。
ここがカフェだとしても、一軒家を一部改装しただけの自宅カフェなのは明らかだった。だから、家の中が見えるというのはどこか気が引けてしまい、部屋に背を向けて座ることにした。自然と目に入ってくる庭は、詳しくない私でもしっかりと手入れされていることが分かる。
どうしてさっきまで気を留めずにいられたのかと思うほど、鮮やかなピンクの花を咲かせているツツジ。静かにそっと青紫の花をつけているアヤメ。日陰に隠れるようにイチリンソウの白い花も見える。
深呼吸をすると、緑と花の匂いが感じられる。
そこに先ほどの女性が水の入ったグラスとおしぼり、メニューを持って来てくれた。メニューは明らかに手作りなそれだった。
コーヒー、紅茶にジュース。トーストやパンケーキ、シフォンケーキ。
他にもオムライスやパスタなど、ランチのセットが和食御膳なこと以外は特に何の変哲もないメニューばかりだった。
そして、もうひとつ気になるものがあった。
「あの、すいません」
「はい、なんでしょうか?」
「この期間限定の特別メニューって、どういうことですか? 『たんぽぽ総選挙』って……?」
「ああ、それは孫が考えてくれたイベントで、毎月やっているんです。今月はタンポポを使ったメニューを食べてもらって、どれが美味しかったかお客様に投票で決めてもらおうというものです」
「ちなみに先月はどんな感じだったんですか?」
「先月は桜を使ったメニューで総選挙をしました。桜の花びらを使ったちらし寿司や卵焼き、ハーブティなどをお出ししました」
話を聞いていても、それがどんなものかイメージできなかった。ただ食べたことはないが桜の花は塩漬けにしたりして食べると聞いたことがあるので、そういうのを使ったのかもしれない。
「なんだか面白そうですね。それでどうして総選挙なんですか?」
「それは孫が言い出したんです。いまは人気投票のことをなんとか選挙と言っているから、そっちの方がいいと。それにどれが美味しかったか選んで欲しいということなら、しっかりと味を楽しんでもらえるかもしれないとアドバイスをされまして」
白銀髪の女性はどこか楽しそうで、ここにはいない孫とのやり取りを思い出しているのかもしれない。もしかすると結果に一喜一憂する孫を見たくて始めたのかもしれない。
そう思うと、微笑ましくて、こちらまで釣られて口元に笑みが浮かんでしまう。
「じゃあ、この『たんぽぽ総選挙』でお願いします」
「かしこまりました」
白銀髪の女性は笑顔で頷いて、室内へと戻っていった。
スマホを鞄にしまい、いまは少しだけ暑い五月の陽気を感じながら、花を眺める。耳をすませば、スズメやウグイスの鳴き声が聞こえる。それ以外にも名前の知らない鳥の声に、どこか遠くから自動車や飛行機のエンジン音も混じる。
そんな当たり前でありふれた動物や人間が生きている証とも言える音を気にしたり、楽しんだりする余裕がなくなっていた。
狭い一軒家の庭にあるカフェにいるはずなのに、私の世界と視野は広がっていく。
「おまたせしました」
男性の声に驚いて顔を向けると、灰色の髪とヒゲを蓄えた男性がトレイを手に立っていた。優しい面差しが先ほどの女性とどこか似ていて、直感的に夫婦なんだろうなと思った。
「タンポポコーヒーと、カップケーキになります」
そう言いながらソーサーに乗ったコーヒーとミルクポット、カップケーキが乗った皿をそっと置いてくれ、すぐに室内へと戻っていった。
タンポポコーヒーは初めて見たがコーヒーにしか見えず、ソーサーには角砂糖の代わりに黒糖が添えられていた。カップケーキの生地にはタンポポが混ぜ込まれているのが分かる。
まずはタンポポコーヒーをひと口飲んでみる。
コーヒーと濃い麦茶の中間のような風味を感じた。甘党な私はこのまま飲み進めるのはキツイと感じ、黒糖をひとついれて、さらにミルクも入れる。しっかりと混ぜて飲むと、程よい甘みとまろやかさでどこかミルクティを想起させるけれど、普段飲むそれとも違う味が面白かった。
カップケーキはタンポポの苦みを感じるけれど、生地の柔らかさや甘さで中和されて逆にいいアクセントになっていた。
そして、黒糖とミルクを入れたタンポポコーヒーと不思議とよく合う。カップケーキは一つだけだったので朝から何も食べていなかった空腹と相まってあっという間に平らげてしまった。
半端にお腹にモノが入ったため、空腹感をより感じてしまい、次に出される料理が待ちきれない。
少しして、白銀髪の女性が料理を持ってきてくれた。
目の前に並べられた料理は、本当にタンポポづくめだった。
タンポポの葉のサラダ、タンポポのナポリタン、タンポポの葉のクリームスープ。
どれもタンポポが使われてると言われなければ、知らないまま食べてしまいそうだった。
タンポポの葉のサラダは柔らかくて、マヨネーズと粒マスタードのソースのせいでいくらでも食べられそうだった。
ナポリタンはタンポポの花が散らしてあり、見た目に綺麗なだけだと思ったら、具材にもタンポポの葉が使われていて、そのほのかな苦みがピーマンより自然に馴染んでいる気がした。
クリームスープもほうれん草のようにタンポポの葉が入っていて、優しい味にほっと息が漏れた。
途中、白銀髪の女性が水を注ぎ足しに来てくれた。
「タンポポって、美味しいんですね。知らなかったです」
他に客がいないので、つい話しかけてしまった。
「ありがとうございます。そう言ってもらえると作った甲斐があります」
本当に嬉しそうに笑みを浮かべ、人のよさがにじみ出ているようだった。
「あの、どうしてこのお店を?」
「元々は庭先で仲のいい友人や娘夫婦を招いて、お茶会や食事会をしていたんです。私がお菓子や料理を作って、主人がコーヒーや紅茶を入れる。それを自慢の庭を見ながら楽しんでもらうという感じで。それでもうお店開いちゃえばと言われましてね。そこからは友人の知り合いやご近所さん、話を聞いた全く知らない人も来ていただいています。席数が少ないので不便をおかけしていますけど」
「じゃあ、いまこの素敵なお庭を独り占めにできているのは、けっこうラッキーなことなんですね」
「そうかもしれませんね。お姉さんのように料理も庭も楽しんでくださる若い方は珍しいので私どももとしても、嬉しい限りです」
お世辞なのかもしれないが、本当にそう思っていると思わされる。
この店の不思議な居心地の良さは、誰かを喜ばせたいと思って作られた料理や楽しんでもらいたいと丁寧に手入れした庭――そして、店を営む夫婦の人柄が作る春の穏やかさを感じさせる場所だからなのだろう。
「あとデザートもあるので楽しみにしてくださいね」
そうして予告されたデザートは、生クリームとタンポポのジャムを巻いたロールケーキだった。
食後に投票用紙と鉛筆が渡されたが、私には選ぶことができず全部にチェックを入れた。選べなくてすいませんと笑ったら、白銀髪の女性は「一番嬉しい投票です」と笑ってくれた。
「また次の総選挙にもよかったら参加してください」
「はい。それ以外の日にもまた来ます」
「ありがとうございます。またいつでも来てください」
その声に背中を押され、軽い足取りで大学へと向かう。
明日は講義が昼休みの次のコマがないので、さっそくまた食べに来よう。
次の総選挙はなんだろう。桜、タンポポと来たら、また花なのだろうか。それとも果物だとか別のものだろうか。
いまから来月が楽しみだ。
いつの間にか私の五月病はタンポポの綿毛のように風に吹かれてどこかに飛んでいった。
空を見上げれば、初夏の青い空が広がっていた――。
花の香る風に、心解けて たれねこ @tareneko
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