待ち合わせはさよならから一番遠い場所

にわ冬莉

約束

 その約束は、今思えば途方もなく難しく、罪にも似た指切りだったのだ――。



「今更……そんな」

 美代は目の前に立っている人物に、酷い言葉を投げかけてしまう。それに気付き、ハッと息を飲み口元に手を当てるも、もう遅い。

 しかし言葉を投げかけられた男の方は、さして不機嫌になる様子もなく黙って頭を下げた。

「戦死したというお手紙が届いたのですよ? なのにっ」


 確かに受け取った。

 春森幸彦はるもりゆきひこは戦死したと、死亡告知書が届いていたのだ。今でも箪笥の奥にしまってあるから間違いない。それなのに、


「戦争が終わった後、北に向かいソ連にいました。やっと解放され、戻ってきたのです。面目ありません」

 生きて戻ったというのに、なぜ謝らなければならないというのか。美代は首を振り、幸彦の肩に手を置いた。


「おかえりなさい。よくぞご無事で。……だけど」


 幸彦は姉の婚約者であった。

 姉、八千やちと幸彦は、幼いころから親同士が決めていた許嫁で、しかし物心つくころにはお互いを好いていた。愛情など二の次でお見合いが当たり前だった時代、二人は両想いでの結婚をするはずだったのだ。


 しかし……

 時代がそうはさせてくれなかった。


 幸彦には赤紙が届き、兵隊としてお国のために戦うこととなる。そして家族はそれを、名誉なこととして「死んで来い」と送り出さなければならなかったのだ。


「父も母も、空襲で亡くなったの」

 美代がそう言うと、幸彦は目を伏せ、小さな声で

「ご愁傷さまでした」

 と言った。

 確か幸彦の家も、両親と妹が犠牲になっていたはずだった。

 そして……

「姉は……八千は」

「聞いています」

 幸彦はじっと床の一点を見つめ、小さな声でそう口にする。

「自分のせいです」

 立ったままグッと両の手を握り締め眉間にしわを寄せる。

「いえ、幸彦さんのせいでは、」

 首を振る美代の言葉に被せるように、幸彦がもう一度、言った。

「自分の、せいです」


*****


 国と国が争う。

 それは一体誰が決めたことだ?


 昨日まで遠い空の下の話だった「戦争」が、急に目の前に現れる。そしてただ、言葉や見た目、産まれた場所が違うというだけの誰かを、「敵である」と認識するのだ。

 憎くもない相手を、憎み、行きたくもない戦場に、行かされ、あまつさえ

「お国の為に

 と言われ送り出されるのだ。


 何故、死ななければならないのか?

 国の為というのであれば、、ではないのか?


 ──実際、戦場では沢山の人間が死んだ。

 銃で撃たれた者もいる。地雷で吹っ飛んだ者もいる。そして、死への恐怖から、死を選ぶという矛盾を成した者もいる。病気に、飢餓、凍死……なんでもありだ。地獄の方がまだ優しいかもしれないと、何度も思った。


 怪我をした個所から蛆が湧き、体が蝕まれていく感覚。

 死んだ仲間が腐り、放たれる異臭。

 咲く花は故郷で見たあの花と同じなのに、まるで別のものを見ているかのよう。

 そのうちだんだん、感情というものを手放し、麻痺していく。

 自分が自分ですらなくなるように、喜怒哀楽が薄れ、何も感じなくなる。

 友の死も、敵の命も、自らの痛みも、全部がどうでもよくなり、死神の姿だけが恋しい。


「こんな戦争に、意味などない」

 そう口にすれば即刻袋叩きに遭い、死ねるだろうに……それも出来ない。


 生きたいのか。

 そうでないのか。


 懐に隠したすり切れた写真を見れば、そこには愛しい家族が写る。家族のために、八千のためにと何度も飲み込んだ錆びた鉄のような血の味も、いつしか失われていた。


 それでも。

 生き残ってしまったのだ。


 そして祖国へと帰ってみれば、すべてが変わり果てている。

 親は死に、妹も死んだ。

 戦地へなど行ってもいない家族が、全員死んでいた。

 空には同じ白い雲が浮かんでいるというのに、まるで別世界であるかのように自分だけがはじき出された感覚に陥る。


 それだけじゃない。

 幼いころからずっと一緒だった、八千。戻ったら結婚しようと約束していた、八千。絶対に生きて戻ってと耳元で囁いてくれた愛しい人まで失ったのだ。

 八千は空襲を逃げ切り、妹の美代と共に幸彦の帰りを待っていたという。

 両親を失った悲しみを乗り越え、ただひたすらに幸彦の帰りを待っていたのだという。


 そんなとき届いた死亡通知書。

 幸彦の家族が皆亡くなっていたため、巡り巡って婚約者である八千の元に届けられたらしいが、それ自体が誤報であり、わざわざ八千の手元に届けるなど、余計なお世話だったのである。

 その紙切れさえ届かなければ、きっと八千は生きていた。

 生きて、幸彦を待っていたはずなのに。


 自死──。


 八千は自らの命を絶ってしまった。

 生きてくれさえすれば……。

 そうしたら、新しい明日が待っていたのだろうに。


「許されるのであれば、線香を……」

 ぽつりと言った幸彦を、美代が家に上げる。

 やつれた体。重く沈んだ声。表情のないその顔は、まるで死人のようだ、と美代は思った。


「姉は……本当に幸彦さんの事ばかりでした」

 線香をつける幸彦の背中に向かって、美代が言う。

「両親が火に焼かれ死んだ後も、気丈に振舞ってました。幸彦さんが戻るまでは頑張って生きなければと、ただそればかりで。でもあの日、死亡通知書が届いたあの日を境に、変わってしまった」


 その時のことは鮮明に覚えている。

 取り乱し、泣き叫び、手が付けられなかった。感情というものはここまで大きく激しいものなのかと初めて知った。


「私は止めたのです。でも……姉は命を、絶ってしまいました」

 ふぅぅ、と息を吐き出し、合わせていた手を解くと、幸彦が美代に向き直る。


「……あの、こんなことをお聞きするのもなんですが、幸彦さんはこれからどうなさるのです? まさか姉のようなことにはっ」


 絶望の向こう側にあるのは、いつだって暗闇と静寂だ。

 けれど、その静寂は安らぎをもたらしてなどくれやしない。どこまでも息苦しく、纏わりついて離れない黒い靄でしかないのだ。


「私は……」

 膝の上で拳を作り、絞り出すような声で幸彦が話し始めた。

「私はここを発つ前に、八千と約束しました。必ず生きて戻る、と。だから、何があっても死ねないと思い続けてきました。それは八千も同じだったはずです。あの日、約束の場所で……生きようと、誓い合ったのですから。例え私が戦争で帰らぬ身になったとしても、八千は生きて、幸せになってほしいと頼んだのです」

 目を閉じ、俯く幸彦。


「ええ、姉はずっと信じていました。幸彦さんが生きて戻ると。でも……」

「今更、ですか」

「いえ、そんなつもりは」

 美代が視線を外した。風が吹き、肩で切りそろえられた髪が揺れる。


「私はこれからあの場所に行きます。八千に……会うために」

「幸彦さん……」

 美代が唇を噛んだ。

 幸彦は深く頭を下げると立ち上がり、どこかに去ってしまった。



『たとえ私が戻らなくても、八千は生きて、幸せになるんだよ』


*****


 ここらは辺り一面焼け野原だったんだ、とバスを降りた時に誰かが言っていたのを聞いた。


 この地を離れて二年。

 更に戦争が終わりを告げてから、二年。

 焼け野原だったはずの地には、夏草が揺れている。

 かつての風景とはだいぶ変わってしまったものの、こうしているとまるで……人と人との殺し合いなどなかったかのような優しい風が流れている。


「そうだ。ここだ……」


 何もない原っぱの真ん中。

 一本だけ大きく伸びていた楠木はもうない。

 残された切り株だけが、かつての場所を指し示す鍵となっていた。


 ここで待つのだ。

 あの日の約束を果たさなければいけない。


 八千は来る。幸彦は信じていた。ここで、再会を果たせるのだと。

 楠木の切り株に腰を下ろす。空には、雲。今ここにいる事実が、幸彦には痛かった。生きて、ここにいる。それが望んだ未来だったはずなのに……。

 どのくらいそうしていただろう。ふと、視線を上げると、そこに八千の姿が見える。

「八千……」

 名を呼ぶと、八千は困った顔で幸彦を見つめる。

「来てくれたんだね、八千」

 腰を上げると、八千は小さく首を振った。まるで幸彦を拒んでいるかのように。


「八千は、死にました」

 苦悶の表情で、告げる。だが幸彦はそれを否定した。

「いいや、八千。君は私との約束を忘れてはいなかった。そうだろう?」

 目の前にいるのは、八千だ。そう、確信する。そうだ。


 八千と美代は双子だ。とてもよく似た姉妹だった。

 腰までの長い髪をなびかせた八千と、肩で切り揃えられた短い髪の美代……。


「八千は……幸彦さんの帰りをずっと待っていた。でも、八千の元に届いたのは、たった一枚の死亡通知書だった」

「ああ、そうだね」

「八千は泣いて、泣いて、そして心が壊れたのです。自らの命を絶とうと、包丁を持ち出した。それを止めようと、八千と揉み合いに。そして……、死んだ」

 ああ、と幸彦が息を漏らす。

「だから美代に……。そうだったのか、八千」


「違う!! 八千は死んだの! あの通知を受け取った時、もう八千は死んでいたのです! 生きる意味などなくなったから! 美代は……美代は生きようとしていた! もう一度、ここから始めればいいじゃない、って! なのにっ、なのに私を止めようとした美代を……私が美代をっ!」

 幸彦が駆け寄り、抱き締める。

「八千!」

「美代はっ、美代は――ああああ!」

 膝から崩れ落ちる八千を支え、幸彦は言った。


「私は約束を守った。つらい思いも沢山したが、こうして八千の元に生きて戻れた。そして八千、君も生きていてくれた。いいんだ。それで充分なんだ」

 幸彦が八千の背を撫でる。


 どれだけ言葉を並べても、事足りない。

 どれだけ強く抱きしめても、間に合わない。


「八千、私たちは生きなければいけない。どんなに苦しくとも」

 それが、残された者の務めだ。


 命あるものは、生きなければならない。

 いつか、別れを告げるその最期の時まで。


 雲の形が決して同じにはならないように、人も、時代も流れゆく。

 二人の足元で、ひなげしが小さく揺れた――。




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