金曜日の雨

釜瑪秋摩

第1話 金曜日の雨

 私の名前は樋口圭子ひぐちけいこ。三十二歳。

 とある企業の営業職についている。


 金曜日。

 雨の夜。


 今日も私は仕事上がりに急いで駅へと向かう。

 ピアノを弾いている彼が、新規に取引をする会社の人だとわかっても、帰りに彼が弾いているときには、聞いてから家へ帰っていた。


 なるべく目立たないようにしていたはずなのに、あるとき、曲が終わって帰ろうとしているところを、後ろから呼び止められた。


「いつも聞いてくださって、ありがとうございます。良ければ途中まで一緒に帰りませんか?」


 いつも来ていると気づかれていたんだ。

 仕事ではT社と取引が始まったけれど、実際の担当者は別の人だった。

 この人のことは、良くわからないまま、今日まできている。


「私、JRなんですけど、同じなんですか?」


「はい。僕もJRなんです」


「そうでしたか。では、途中まで」


 改札を抜けてホームで電車を待つあいだ、私は彼に聞いてみた。


「いつもあそこでピアノを弾いていますけど、ほかでも同じように弾いていたりするんですか?」


「そうですね、時々ですが。でも、ほかの場所だと人が多くて弾けないことが多いんですよ」


「そうなんですか? 場所によって違うものなんですね?」


「ええ。この駅だと、この時間帯は空いていることも多いですし、なにより営業所の最寄り駅なので」


 照れくさそうに話す彼の横顔を見ながら、ふと疑問に思った。


「先日、弊社にお越しくださったとき、いただいた名刺は本社の営業部でしたよね?」


「はい。本社の前には、ここの営業所に所属していたんです。ですから取引先もこの近辺が多いんですよ」


「そうでしたか……」


 だったらうちの社の担当も、引き受けてくれれば良かったのに……。


 ホームに入ってきた電車に乗り込み、しばらく仕事の話を続けていた。

 私の乗換駅が近づき、車内の電光掲示板を見あげる。


「あの、私、次で乗り換えなので――」


「樋口さん、唐突ですが、今度は夕飯でもご一緒にいかがでしょう?」


「え? あぁ……そうですね、ぜひ」


 乗換駅に着く直前で、私はなんの気構えもできずに返事をしてしまった。

 ホームに降りて、中にいる彼に頭をさげる。

 ドアが閉まり、手を振る姿が見えなくなった。


 乗り換えのホームまで歩きながら、私はさっき心の中で考えたことを思い返していた。

 彼が担当者じゃあないことが、不満だったんだ。

 仕事上で顔を合わせる中で、人となりを知れたらいいと、仕事にかこつけて自分の願望を叶えようとしていた。


(仕事とプライベートはキッチリ分けて考えていたつもりだったのに……)


 仕事に自分の感情を持ち込むなんて、恥ずかしいことだと思っていたのに。

 私は、しっかり気を引き締めて仕事をしようと、両手で頬を軽く叩いて、自分を叱咤した。


 それからしばらく晴れた日が続き、たまに雨が降っても、残業が重なったり出張に出ていたりで、彼のピアノを聴くことができずにいた。


『今度は夕飯でも』


 それはまるで社交辞令の『また今度』のような言葉だったのかもしれない。

 浮かれていた気持ちを顧みる、いい機会にもなった。


 ひと月があっという間に過ぎ去っていき、また金曜日に雨が降る。

 いつもより早く仕事が終わった私は、少し急ぎ足で駅へと向かう。


 エレベーターに乗ったとき、一番下で、たった今、エレベーターを降りて行った姿にホッとため息が出た。

 フロアに降りたところで、メロディーが流れ始めた。



-完-


♢♢♢♢♢


ジムノペディ一番から三番までを近況ノートに載せています。


よろしければ聴いてみてください。


https://kakuyomu.jp/users/flyingaway24/news/16818093074932149520

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金曜日の雨 釜瑪秋摩 @flyingaway24

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