カリギュラと雨
家猫のノラ
第1話
「雨、降らないね」
目の前にいる彼女は窓の外を眺め、残念そうに言った。
「雨降らないことを残念がるやつなんて現代日本じゃ珍しいだろ」
自分の分と彼女の分にこぽこぽとお湯を注いだ。
「だって私雨好きだもん」
学生時代ずっと長かった髪はかなり前に短くなった。
髪を耳にかける癖が抜けない。
髪が長かった時、転勤が多い両親に連れられて、俺も学校を転々としていた。
中学は横浜で過ごした時間が長かった。
『麗雨くん、好きです。付き合ってください』
確か、名前は夏希。中学一年の終わり、勢い良く頭を下げて告白してきた。
『ごめん、その気持ちには応えられない』
表情は見えないが、少しだけ肩を震わせているのが分かった。
『だよねぇ~!!』
夏希は下げた時と同じくらいの勢いで頭を上げた。
『この後時間ある?あるよね。だって放課後空いてるって答えたんだから。ちょっと私の話聞いてよ』
『それは…』
告白ならすぐ終わると思い、クラスメイトと遊ぶ約束がありつつもそう答えた。なんて、もちろん言えるわけもなかったが、適当な理由をつけて帰るつもりだった。
『こんな可愛い私を振ったんだから、いくら麗雨くんとはいえそれぐらいしてもらわないと』
そう言った夏希の笑顔を見るとどうにも足が止まってしまった。
『私と話したときのことって覚えてる?』
満開からは少し日が経って、散り始める桜の木の下。夏希はそう切り出した。
『全校清掃の時、夏希の班だった』
一年に一回行われる、全学年で学校を掃除するというイベント。美化または福祉委員が中心となって5、6人の班が割り振られた。俺は福祉委員の夏希がリーダーの班だった。
『それは裏工作の賜物だね。職権乱用』
『すげーな…ん?じゃあ』
『そう。私はその前から麗雨くんのことが好きなの』
『…』
『やっぱり覚えてない!!あの三分間は私にとってはすごく大切な思い出なのに』
夏希は責めた口調ではなく茶化した口調で言った。
『ごめん』
『謝らないで。麗雨くんはそういうの覚えないって分かってたからさ』
自分の悪いところに夏希は気づいていた。さらにそれを大した問題ではないというように鼻で笑った。
『…どんな三分間だったの?』
桜の色映りか、夏希の頬は染まった。
『教えない!!』
恥ずかしがる姿と一変して、また先ほどの、思わず立ち止まってしまう笑顔を、夏希は見せた。
『麗雨くんが自分で思い出して!!』
風が強く吹いた。
『その時に、大切な思い出だって思わせるために、私頑張るから』
三年になるタイミングで俺は北海道に転校した。
とうとうその三分間を俺は思い出せていない。
『やっぱ嫌いだわお前のこと』
白い息を吐きながら、蓮はそう言った。
『なんで』
蓮はジャージ姿、俺は学ランにダウンジャケット。
『こう言っても殴ってこないとこ』
『いや時代設定いつだよ。殴らないだろ令和だぞ』
左右に盛られた雪の間、コンクリートが敷かれているであろう場所を並んで歩いた。
突然、右頬に衝撃を感じた。
『俺は殴ったぞ』
『は?意味わかんねぇよ』
『殴れよ』
『殴んねぇよ』
『は?意味わかんねぇ』
電灯の上に雪が積もっていた。
『お前はすかしてんだよ』
『は?』
『まず横浜ってなんだよ、横浜って。神奈川から来ましたって言えよ』
蓮は俺が転校してきた日、自己紹介の時の話を掘り返した。
『詳しく言った方が良いだろ』
『じゃ俺が”横浜”に転校したら上川から来ましたって言えばいいのかよ』
北海道のど真ん中。海を感じることはない土地だった。
『北海道で良いだろ』
『じゃ神奈川で良いじゃねぇか』
一番星が浮かんでいた。
『なぁ横浜って良いとこ?』
『まぁ良いとこなんじゃね』
俺は住んだ街にあまり愛着を湧かない。
もはや無意識に。
『だからかな』
『何が?』
『お前っていっつもどっか遠く見てんだよ』
『え?』
『いやだから、お前は心がここにないって言ってんの』
蓮も気づいていた。
蓮はおしるこ缶を開けた。
『俺いつか横浜行くわ』
『いや俺いるかは分かんねぇぞ』
きっと横浜に行きたい理由に俺は関係なかったんだ。自意識過剰、だった。
『それでも行くわ』
高校三年生になるタイミングで俺は愛知に転校した。
やっぱりあの時、蓮の頬を殴っておくべきだったかもしれない。
『先輩、あんなスカート抑えるなら短くするなって思いませんか?』
この学校では何か一つは部活に入らないといけないらしく、俺はしぶしぶ映画同好会(部)に入部した。
『俺これなんか言わなきゃダメ?』
校舎から少し離れた部室棟の端の部屋。
年に一度顔を見せる同級生は当然のようにいなかった。
『あーでも先輩は短いスカートの方が嬉しいのか』
『勝手に変態にすんなや』
映画に興味があるわけでもなく、いい自習室として入り浸る俺と、その同級生、どちらの方が偉かったのだろうか。
部室に入るといつでもマニアックなオカルト映画がボロいテレビに映っていた。
そしていつでも生意気な後輩、理香は、映画を見ながら俺と話していた。
『雨、止みませんね』
『梅雨だしな』
『普段はがちのインドア派ですけど、なんか雨の日は外に出たいような衝動に駆られるんですよねー』
『なんで?』
『なんか禁止されると手を伸ばしたくなりません?』
『やべーやつじゃん』
『行動に移したことはないんで大丈夫ですよ』
理香は映画に集中する、フリをした。
『外、出るか』
『えっ、いや流石に…ダメですよ…先輩受験生ですよね?風邪引いたら大変じゃないですか…』
『夏風邪は馬鹿が引くんだよ』
『さっき自分で梅雨って言ったじゃないですか馬鹿…』
『なんか言ったか?ほら早く出るぞ』
外に出ると中から見ているより強く、雨は降りつけていた。
ズボンと長めのスカートは灰から黒になり、シャツは透けていった。
『先輩…本当に大丈夫ですか?』
『大丈夫、大丈夫』
髪を束ねていたゴムを外した。
その瞬間、頭上でごきゃという音がして、部活棟の雨どいが折れた。
俺の頭に雨の塊が落ちてきた。
二人共しばらく目を合わせて固まった。
あは。こらえきれないというように理香は笑った。
『先輩、本当に大丈夫ですか』
『笑いながら言うな』
理香はすっかりツボってしまったらしく、腹を抱えて笑っていた。
『は?』
『第一声がそれってひどくないですか?』
突然理香は俺に飛びつき、唇にキスをした。
『先輩、遠距離の彼女とかいます?』
『いないけど』
理香は俺から離れた。
『なーんだ』
『なーんだってお前…、ていうか彼女いると思ってやったのかよ』
部活なんて入らなければよかった。
気づかれない距離を保ちたかった。
『やべーやつなんで』
大学に入るタイミングで上京し、寮に入った。
少しだけ長引いた風邪だけが、理香と外に出たことの証明だ。
「どうしたの?」
タイマーが三分間の経過を告げていた。
「いや、なんでカップラーメンの待ち時間は三分なのかなと思って」
「カリギュラ効果でおいしく感じる時間らしいよ」
「禁止されると手を伸ばしたくなるってやつか」
「そう」
麵をすすりながらそんな会話をした。
やがて麵をすする音は止んだ。
「じゃあ別れよっか」
「うん」
一年半同棲した彼女が朝、別れたいと言った。
俺が返答に詰まっていると彼女は、最後にカップラーメンを食べたいと付け足した。
「なんでカップラーメンだったの?」
「やっぱり覚えてないんだね。私にとっては麗雨との大切な思い出の味なんだよ」
「ごめん」
「ううん。私は麗雨のそういうところが好きなの。
でも流石に疲れちゃった」
彼女もまた、髪をかきあげる癖が抜けないらしい。
一人だけになった部屋は心音が聞こえるほどに静かだ。
俺はまた隅でうずくまる。
カリギュラと雨 家猫のノラ @ienekononora0116
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