第17話 さよなら市民プールの天使


 そして12月のレッスンの日がやってきた。いつものスーパーに先生を迎えに行く。町はクリスマスと年の瀬なのか少し道が混んでて遅刻しそうになった。


 思えばもうすぐレッスン開始から1年である。私の上達は相変わらず少しだけではあったが、その日の先生は私がビード板ありでも25メートル完泳を達成できると見込んだのか、いつもよりレッスンの進行を早めているのが分かった。


 プールは人は多くなかったが、なぜか珍しく女性が多かった。とはいっても中年以上の女性だったが、友人と一緒に来ているらしき一組がいた。


 そして……ずっと離れたレーンに、なんと私が勝手に呼んでる「天使」がコーチと共にいて熱心に練習していた。

 ビード板を持ったままクビを上げてのバタ足泳ぎをしている。

「あれ、メチャクチャキツいんですよ」

 先生が教えてくれた。バタ足は頭を下げると腰と足が持ち上がりその姿勢の方が推進効率が良い。逆に下げると効率が落ちる。それは私も苦しい中バタ足して分かったのだが、「天使」は笑顔でそれをやっている。素晴らしいものだった。


 初め不純で変態な動機で始めたプール通いだったが、「天使」のおかげで水泳の楽しさ、素晴らしさを知るようになった。もちろん競泳水着の女性はあいかわらず好きだが、それはエロスの面だけでなく、そのストイックなスポーツの面でも深く素晴らしく感じるようになった。


 そして私は先生に促され、プール歩行を切り上げて25メートルビード板バタ足完泳に挑んだ。


 私は鼓腹気味なのでゲップが詰まって泳げないクセがあるのがわかっていた。でもそのゲップはだいぶ出切っていた。あらかじめゲップを出すためのいろいろな工夫もしてきた。


 息を整え、水泳眼鏡の曇りを拭き、私は潜って壁を蹴り、挑戦を始めた。


 なかなか上手くスタートできた。


 5メートルラインを超えた。少しずつ息が浅くなる。


 それでもがんばって10メートル。息が苦しくなってくる。


 15メートルを超えた!でも私の腰が沈み、頭が浮いて体勢が苦しくなる。


 それでも20メートル超える! 今日は前回苦しめられたゲップが出ない!

 いけるかも! いや、いきたい!


 あと5メートル!!



 そこで私の肺はすっかり空になり、脚も動かなくなった。


 ギブアップ……。


 立って先生を見ると先生も残念そうな顔だった。


 あと少し、たった4メートルが遠い……。でも私の体力は限界だった。



 そのあと、プールは点検に入った。水から上がってベンチでレモン水を飲んだ。疲れているせいか、500ミリリットルを私はすぐに飲み干した。

 天使はどこかにいなくなっていた。採暖室だろうか。


 点検が終わり、また挑戦する前に先生はビード板を抱いて背泳ぎバタ足をするように言った。じつは私はそれのほうが楽なのだ。息もしやすい。なぜだかよくわからないけれど。


 さっきより気楽にビード板で背泳ぎ姿勢をとり、スタートした。


 プールの上には端から5メートルの所に、背泳ぎの人の目印として旗の着いたロープが渡されている。


 5メートル通過。割と楽なまま見える天井に半分を過ぎたと思った。

 先生が並行していて私の崩れる姿勢を直してくれる。そのため泳ぎやすい。


 だがだんだん足が疲れ、息が上がってきた。


 でもなぜかいけそうな気がしてきた。


 これなら25メートルいけるかも!


 だが今度はなかなか残り5メートルの旗ロープが来ない。おかしい!


 もうそろそろのはずなのに!


 私は焦った。息が荒くなり、足が悲鳴を上げはじめた。


 やっぱり無理なのかな…。そう悲しくなってきたとき。



 旗だ! 旗ロープだ! あと5メートル!



 最後の気力で動かない足を動かしてがんばった。



 そしてついに、25メートルにたどり着いた。やった!!


 それからあと、褒めてくれる先生と共にまた普通にうつぶせのビード板25メートルにも挑戦したが、今度は15メートルが限界だった。


 でも先生は褒めてくれた。


 ここまで1年近くかかったが、ろくに水に顔をつけることも出来ないところからなんとかここまで来た。


 そしてこの日は普段より多めの競泳水着の女性も見られた。素晴らしい日だと思った。




 だがその終わり、シャワーを浴びるところに、プールの中年の男性職員が待っていた。


「熱心にやってらっしゃいますが、営利目的の個人レッスンじゃないですよね?」

 その職員の言葉に、私の中でパチンと脳細胞がはじけた。

「いえ、ちがいますよ」

「あんまり熱心なんでそう思ったんですが」

「いえ、営利だったらとてもじゃないけどこんなにして貰ってるのを私、払えませんよ」

「それなら良いんですが、これからは2人で距離を置いてご利用お願いしますね」

「はあ」


 私はその場、そういう生返事をして負えたが、そこから更衣室に戻ったとき、だんだん不愉快が胃からこみ上げてきて耐えられなくなった。


 我々は当然営利目的ではないうえに、彼の言うことはとても理不尽でしかも無礼だった。

 そもそも私は障害者で先生はその付き添いなのである。距離を置いてしまったら付き添いの意味がない。


 その上営利目的だという疑惑を向けるなら天使とそのコーチはなぜそれを言われないのか。その日はもう一組、近く熱心にやってる女性2人もいた。それにも言わないで私たちだけを狙い撃ち。

 どう考えても理不尽だった。


 でも先生はすっかりやる気を失っていた。別の市のプールでやりましょう、と力なくぼそりと先生は言った。


 私はその場でその職員のとんでもない無礼と矛盾と非見識を指摘できなかったことにヒドく落ち込んでいた。

 こっちがすぐ言い返せないのを判ってそうしたのか? 私は不愉快を通り越して死にたくなっていた。


 そこまでして私を追い出して、絶望で死んでほしいのか? ああ、死にますよ。そこまでして生きてく理由なんてない! ちくしょう!


 そんなに幸せになったらダメなんですかね、私。


 帰りのクルマの中で私は怒りのあまり、先生相手に前の職場にもいたそういう職権乱用野郎の話をしまくった。時々そういう愚か者がいるのだ。

 止まりようがなかった。


 もう二度とあの市民プールに行く気はなくなっていた。


 残念だけど、こうしてあの市民プールの素敵な天使との別れが来てしまったのだった。


 市民プールのクリスマスの電飾が、うつろに見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

市民プールの天使 米田淳一 @yoneden

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ