唐笠の後枝

ハナビシトモエ

彼岸

「今を生きる私にとって、過ぎ去った日々は文字通り過去でしかない」

「まーた、分厚い本を読んじゃって、痛んでますから先にきれいにしてからじゃないと」

 目の前で不機嫌そうな制服姿の高鍋凜華たかなべりんかの手から本を奪った。

「古い本こそ知識の叡智が詰まっている。それを分からない本屋さんがあわれです」

「高鍋さんこそ、休日の昼間に古本屋の戸口に座っていることもあわれですよ。友達とかいないんですか」

「ここはラジオも本も冷蔵庫もアイスもある」

「後ろ二つはこっちが使うようですけどね」

 あー、怖い怖い。

 A県K町は海辺の小さな町だ。十五年前、町のほとんどをあの恐ろしい津波がもちさっていった。

 町の奥に入ったところで読書が趣味の父の書庫があった。本の手入れも丁寧で、新品同様とは言えないがきれいに保管されていた。

 父は津波で被害を人たちに出来ることは本の貸し出しだと思い、余震と疲れで弱った人たちに移動図書館を提供した。返すことが出来なくても無くしてしまっても良し。最初は物好きの金持ち道楽がと言われたが、子供たちに絵本を提供し草の根活動をしているうちに大人も接してくれるようになった。

 父が亡くなってもこの書店がK町で生きていられるのは大きくなっていらなくなった本たちを返してくれて、大切にしてくれたから、今の販売冊数がある。どのみち、趣味程度の仕事なのでそれほど冊数はないのだが、売りに来てくれる人もいるので、その人たちの縁で本を買い取って、ネット販売も手掛けている。

「高鍋さん、例えば町営バスに乗って」

「行かない」

 こうなったら意地でも行かないつもりだ。仕方ない、暑いから中でゆっくりしてもらおう。

 中を休めるように整理した。入れてからでは座ってもらうスペースが無い。

「これはいつかの記憶だ。私をあの場所に連れて行ってくれた列車が、今目の前で停車している」

 私をあの場所ね。ラジオから流れる大学案内のCMがそんなことを言っている。K町には高校がない。バスで隣の町の高校を出て、卒業後は八割が就職をする。こんな田舎で大学のCM流してもね。

「やれやれ、麦茶の替えあったかね」

 ドンドンと戸から音がした。待てないのかよ。

「はいはい、今準備していますからね」

「本屋さん、あたし、チヅ」

 チヅさん、そういえば唐笠からかさ後枝こうしの件だな。

「チヅさん、暑いから入って」

「そんな気温高くないやろ」

「年寄はみんなそういうのよ。上がって」

「ほら、りんちゃんも上がって」

 チヅさんに誘われるまま、高鍋さんは店に入った。ここ、俺の店なんだけど。

唐笠からかさ後枝こうしは見つかったかね」

 唐笠の後枝という書籍は存在をしていない。だが、目の前のチヅさんは確かに見たと言った。女学生の頃、好きになった兵隊さんが読ませてくれたで読む度に感想を言い合った。背の高い色白の兵隊さん、よく兵隊さんしかもらえないお菓子を二人で食べた。

「文集や日記の類も調べましたが、無かったです。ただ、ここで一つお話をしないといけません。周辺の町に医者はいましたか」

 高鍋さんもいつの間にか本をかたわらに置いて、身をのりだして話を聞いている。

「いなかったわよ」

「じゃ、弟さんの結核は誰が治したのですか」

 チヅさんが墓場まで持っていきたい秘密だ。その兵隊はアメリカのスパイだった。この町までは中央から遠く、医者だと言えば潜伏出来る。その兵隊はK町に医者として潜伏し、たまに休暇だと言って、都会の医務局に出入りして情報を集めていた。

 チヅさんは戦前に英語教育を受けたからという英語の小説が和訳をしないでも読むことが出来た。

「もう誰もチヅさんの事は責めない。向こうでも聞いてみたんだ。原本は貰えなかったが、表紙のコピーだけ送ってもらった。えらく無口で家族の前でも話をしなかった。身長がアメリカ人にしては低かった。写真も送って貰って来たよ。全部、この封筒に入っている」

 大切にコピーを胸に抱いて、チヅさんは手紙を読んだ。

 遺族に「あなたは郵便屋さん?」と聞かれ、違うと言ったらチヅに渡す前にあなたが読んでくれるなら送ってあげると言いやがった。

「日本人はクレイジーだ。たくさんの友を殺した。なのに、戻りたいと思った。もう一度あの場所に行きたいと思ってしまった。思うやいなや、無意識に踏み出した一歩が、私をあの場所に連れて行く。私の踏み出した一歩は夢の中で西海岸の砂浜を海側に一歩進んだだけだった。あぁ、チヅ愛しているよ。日本人は嫌いだが、K町のみんなは嫌いじゃないさ。世界の誰よりも大切な君へ」

 それを小さな声で訳せずに言い切った。

 こちとら頑張って解読したのに、一瞬だった。

「ありがとうね。中を読んで見たかったわ」

 向こうさんに中身を要求したが、その本は官能小説だそうだ。夢は夢のまま終わらせた方がいいという意見に俺は賛成した。

「りんちゃんもお茶を飲んで」

 俺は席を立って、一度奥に引っ込んだ。

「ありがとうございます。ありますよね。こんな暑い中いるのにスイカとアイスクリームはありますよね」

「高鍋さんはいつからここに住むことになったんだ」

 奥の台所から店先をのぞいた。

「本はたくさんありますし、いい塩梅に人は来ません。雇ってください」

「それはもしかして」

 永久就職ってやつか? さすがに高校生は無いわ。

「その出来たお金を使ってここで本を買いますから実質給料負担ゼロですよ」

「りんちゃんは本当に本屋さんの事好きなのね」

「ええ。本は叡智なので」

 俺がまだ大学にいた頃の地震で高鍋さんは両親と兄を亡くした。今は高鍋さんがいうところの町を出ると生きていけない祖母の家で暮らしている。大学には奨学金で行くそうだ。

「この前、メロンもらいましたよね。出してください」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

唐笠の後枝 ハナビシトモエ @sikasann

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説