さようなら、わたしの水平線

栄三五

さようなら、わたしの水平線

 うちの学校からは水平線が見える。


 ただし、見えるのは校舎の3階より上の階と部活棟だけ。

 1年生が3階で、年次が増えるごとに階は下がってゆく。

 だから、今の教室から見えるのは、グラウンドと雑木林だけだ。


 1年の頃は席替えで窓際の席になるとガッツポーズしたものだ。

 古典教師の発する呪文がわたしの左耳から抜けてそのまま視線の先、空の上を飛んで行き、海とのきわに吸い込まれていった。

 失恋した時、友達と一緒に海まで行って夕陽で赤く燃える水平線に叫んだこともあった。


 つまらない授業を、失恋の胸の苦しさを、悔し涙を、一緒くたにして放り込む。青、赤、夜は濃紺に輝くLED搭載のゴミ箱。


 海は――水平線というのは、わたしにとってちょうどいい分別不要のゴミ箱だった。


 今は教室から部活練に行く時も、授業の時も、もう見えない。


 大人になるにつれて、水平線は見えなくなる。


     ◇


 打ち上げはカラオケになった。


 一週間前に最後の試合が終わって、わたしたち3年は引退した。

 県大会の準々決勝で負けたのだが、朝練自由参加の進学校にしては健闘した方だろう。結果も1点差で接戦といえる。

 そして、接戦に競り負けたのが誰のせいかと言われれば、わたしのせいだった。

 最後のフリースロー。同点に追いつくチャンスをわたしがフイにした。

 そのわたしを誰も責めなかった。

 

 カラオケ屋の前で集まり、予約した大部屋に入る。

 明日が土曜日だから時間を気にする必要はない。そこそこのところで後輩たちを帰し、3年だけで朝まで部屋にいた。


 会計を終えて店の外に出ると、まだ真っ暗だった。

 一番安いカラオケ屋を探したので最寄駅まで少し遠い。

 私鉄を使うのはわたしと樹里の二人だけ。どうせ遠いのだからと少し南に進んで、二人で海岸線を歩いて駅に向かう。

 わたしが志望している大学は友達とは被らない。海から離れたところにあるから志望通りになれば、こんな風に友達と海を歩くことも、もうできない。

 波の音の中、街灯の明かりを頼りに歩く。波の音が途切れた時、樹里が聞いた。


「アー、アー、声やば。声出る?」

「出ない」


 出ている。カスカスだが。


「大学でもやる?」


 バスケのことだ。


「……勉強しないといけないから」

「続けな」


 有無を言わさない。


「なんで樹里が決めるのよ」

「あんたがトイレ行ってるとき、皆で決めたの」

「なんでよ」

「悔しいんでしょ」


 歩く足が止まった。

 大学に行ったら忙しくなるからだ。最後の試合は関係ない。

 後悔ならもう流し尽くした。



 最後の試合の日、終わって体育館の外に出たら日が沈みかかっていた。

 現地で解散して電車で帰った。わたしは家族に買い物を頼まれたと言っていつもの駅を通り過ぎた。

 海のそばの駅で降りた時には日が沈んでいた。


 海岸までふらふら歩いて、波がギリギリ届かないところで座り込んだ。

 お母さんにみんなとご飯食べて帰るとメッセージを送って、スマホの電源を切って、そのまま泣いた。

 気がつくといつの間にかくるぶしの辺りまで波に浸かっていた。

 月が雲に隠れて光が薄い。暗さと涙で空と海の境界が見えない。

 涙が足元の水平線に溶けていった。



 後悔は水平線の向こうに流れていった。だからもういいのだ。

 それをどう伝えるべきか困り視線をさ迷わせていると、海の向こうが輝いた。

 目の前の水平線が赤く揺らめく。夜が明ける。

 惚けて朝日を見つめるわたしの後ろに影が伸びてゆく。伸びた先から樹里の声が聞こえた。


「あんなに朝練頑張ってたのに?」


 塾で部活に行けない時があって、その代わり朝練に力を入れた。

 冬は日が昇る前に家を出た。

 夜が明ける前に乗り込んだ電車がトンネルを抜けると朝日が差していた。そのまま日差しの熱を背に受けながら学校へ向かうと、自然と足早になった。


 目の前で、朝日が昇る。

 後悔に包んでクシャクシャに捨てたはずの熱が顔を出す。


 大人になるにつれて、水平線は見えなくなる。


 きっと、捨てるものを分別するようになる。上手く生きていくため、丁寧に選り分けて、綺麗に解体する。そしたら捨てたものは戻らない。


 だから、たぶんこんな風に鮮やかに、捨てたものに再会することはもうないのだ。

 ここで背を向ければ、二度とこの熱は戻らない。


 歌い過ぎで喉がガラガラだ。

 今、口を開いたら声にならない声が出てしまう。

 黙って首を横に振ると、樹里が笑った。


「続けるよ、絶対」


 朝日が昇る。


 水平線から躍り出た太陽が白熱する。太陽の熱を引き受けたみたいに、体が熱い。

 眩しくて、涙が出る。声が出なくて良かった。こんなこと恥ずかしくて言えない。



 嬉しいことや楽しいことだけを友達と分けあった。

 辛いこと、叶わなかったこと、要らないものは全部水平線に放り込んだ。


 でも、実際はわたしのことは友達の方がよく知っていて、水平線はわたしが捨てたものを預かってくれていただけだった。


 ありがとう、わたしの友達。

 さようなら、わたしの水平線。


 あなた達と遠く離れても、わたしはあなた達から貰った熱を持って行く。

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さようなら、わたしの水平線 栄三五 @Satona369

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