蛙の歌
翌朝、水甕の中を覗くと、蛙の姿はなかった。あれは夢だったのだろうと思い、幸治之輔は共用の井戸に顔を洗いに出た。するとそこには隣の家の尾巻もいた。少し腫れぼったい目をして、眉根を寄せながら口をゆすいでいる。幸治之輔は尾巻に軽く会釈をして、井戸の中を覗き込んだ。
「ほれ、いまだ、歯の話をしろ」
「のわぁっ!」
幸治之輔は、いきなり井戸の中から現れた蛙神に驚いてのけぞった。井戸の縁に掴まって、口を大きく開けた蛙がニヤニヤと笑っている……ように見える。
幸治之輔の声に顔を上げた尾巻が、不思議そうに近づいてくる。
「どうしたの?東雲さま。何かいたのかい?」
「い、いや、その……尾巻どの、もしや歯が痛むのではないか?」
「やだ、聞こえてました?放っておけば治ると思ってたのに、どんどんひどくなっちまってねえ」
「よ」
「よ?」
「早く言えよぉ~こうじぃ」
「うるさい」
「何?あら、なんだか変わった蛙だねえ」
若い娘ならここで悲鳴の一つも上げそうなものだが、尾巻はにっこり笑って蛙神の頭を撫でた。神もまんざらではないのか、普通の蛙のフリをしてゲコゲコ鳴いている。
「その……尾巻どの。拙者、多少は居合の心得もあってだな」
「はあ」
「よければ、その虫歯一息に抜いてしんぜよう」
「ほんとですか!?」
「あ、ああ。だが抜く時は痛むと聞く……だからその、覚悟が決まってからで」
「いいえ!今すぐ一思いにやっちまってください!」
尾巻は食いつかん勢いで幸治之輔に迫った。今まであまり話す機会はなかったが、ずいぶんと豪胆な娘である。大の男でも躊躇うことが多い抜歯を今すぐとは。幸治之輔はたじたじとなりながら、蛙神と尾巻を交互に見比べた。蛙はゲコゲコ鳴きながら、太い前足を振って、早く行け、という仕草を見せている。
「で、では、支度をしてくる」
「はーい!お待ちしておりまーす!」
尾巻の大声に、長屋の住人も集まってくる。庶民にとって抜歯は一大
これは抜くか抜かれるかの真剣勝負である。剣術の師範に対峙した時以上の緊張の中、なぜか脳裏を過るのは「ガマの油売り」の口上。
『取りいだしたるは夏なお寒き氷の刃、一枚の紙が二枚、二枚の紙が四枚、四枚が八枚、八枚が十六枚、十六枚が三十と二枚、三十二が六十四枚、六十四枚が一束と二十八枚』
緊迫した空気に誰もが固唾を呑んで静まり返り、幸治之輔の心は凪いでいく。誰かがふっと息を吐いた。
『ほれ、このとおり、ふっと散らせば比良の暮雪は雪降りの姿』
その瞬間、ヤットコを握る手に力がこもり、無駄のない動きで肘が引かれた時には、一滴の血を見ることもなく、見事に歯は抜かれていた。
「おおおおおおおおお!!」
長屋を揺るがす歓声、拍手喝采が沸き起こる。歯を抜かれた尾巻は、何が起きたのか分からず、口を開けたままポカンとしている。幸治之輔は急いで軟膏を患部に塗り、清潔な綿を口の中に詰めた。我に返った尾巻が、頬を押さえて満面の笑みを浮かべる。
「痛くなかった!すごいねえ!東雲さま」
「やるなあ、お侍さん」
「あんたすげえよ」
口々に賞賛され、幸治之輔は俯いて頭を掻いた。いつもは口やかましい金壺眼の大家も出てきて、手放しに褒めそやす。
彼が手にした軟膏を見た長屋の住人や、通りすがりの野次馬が尋ねる。
「その薬、効くのかい?」
「あ、ああ」
「俺にも一つくれよ」
「俺も」
「あたしも」
井戸の傍で蛙が鳴いている。幸治之輔は肩の力を抜いて、喧騒に紛れる蛙の鳴き声に耳を澄ませた。それは、訪れた恋の季節を喜ぶ蛙神の歌のようであり、偉業を成し遂げた幸治之輔に対する賞賛の声のようでもあった。
その日、軟膏は売れに売れ、東雲幸治之輔の名は町中に知れ渡った。
のちに彼が凄腕の「抜歯師」として名を馳せ、「入れ歯師」となった矢絣小僧と組んで、庶民の虫歯事情を救うのは、また別の話である。
おわり
真剣虫歯取り 鳥尾巻 @toriokan
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