真剣虫歯取り

鳥尾巻

ガマの油売り

「さあさあ、お立合い!御用とお急ぎでなかったら、ゆっくり聞いておいで。遠目山越えは傘の内。聞かざる時は物の出方・善悪・黒白がトンと分らない」


 人々が忙しく行き交う大路の片隅で、刀を手に「ガマの油売り」の口上を述べる浪人風の男がいた。名は東雲しののめ幸治之輔こうじのすけ。故あって主家を召し放たれ (リストラされ)、新たな仕官の口を求めて故郷を出たものの、泰平の世では剣術の腕だけで食って行くことも叶わない。半年以上経って奉公先も見つからず、食い詰めた幸治之輔は香具師やしの真似事で糊口ここうをしのいでいた。


「さて、お立合い。手前ここに取りいだしたるは筑波山名物ガマの油、ガマと申しましましてもただのガマとガマが違う」

「前足指四本、後足の指六本、合わせて四六のガマだってんだろ。オイラもう覚えたよ」

「こら、最後まで聞かんか」

「聞いてるよぉ。だから覚えたんじゃねぇか」

 

 剣術の腕は確かだが、少々お人好しなところもある幸治之輔である。矢絣やがすりの着物を着た鼻たれ小僧にまで舐められて立つ瀬がない。聞くも何も他に見物人がいないのだ。皆、忙しそうに目の前を通り過ぎて行くだけで、下手糞な口上を聞いているのはその小僧だけ。

 今日も少ない売上を仕入れ先の業突張りな興行主にピンハネされ、幸治之輔はトボトボと家路についた。


 細い路地を抜け、鰻の寝床のような割長屋の入口に差し掛かると、三軒隣の家の戸が勢い良くスパーンと開いた。中から現れた中年の男は、貪欲そうな金壷眼かなつぼまなこをギョロリと見開き、いきなり幸治之輔に食って掛かる。


「東雲さん!今月こそお家賃払っていただきますよ!」

「お、大家さん……生憎今月も厳しくてな。いましばらく猶予を頂けぬか」

「ゆうよだか遊女だか知らねえが、もう三月みつきも溜まってんですよ。月末までに耳揃えて払っていただかなきゃ、出て行って貰いますからね!」


 大家は自分の言いたい事だけを言うと、乱暴に引き戸を閉めた。幸治之輔は項垂うなだれて、自分の家に入る。一畳半ほどの土間と、毛羽立った畳の上に、家具は一組の茶碗と粗末な布団だけの殺風景な四畳半である。板張りにむしろだけの部屋よりはマシだが、男やもめの侘しさが募る。

 今夜もまともな夕餉にはありつけそうにない。空きっ腹を抱えた幸治之輔は、水甕みずがめから柄杓で水を掬い、フチの欠けた茶碗に注いで喉を潤した。


 幸治之輔を悩ませるものは貧乏だけではなかった。クゥクゥと寂しく鳴る腹を抱えて布団に包まっていると、隣の部屋から恨めし気な女の呻き声が聞こえてくる。長屋の壁は薄いので、両隣の声が筒抜けなのだ。

 隣はアサリやシジミの棒手振ぼてふりを生業にしている清助が、一人娘の尾巻おまきと一緒に住んでいる。年の頃は十八、十九。顔を合わせれば挨拶をかわすこともある、陽気で感じの良い娘である。

 その尾巻が夜になると、地獄の底から響くような声で呻く。夢に魘されでもしているのか、これがまた五月蠅くて眠れない。眠れないが、少しでも寝ておかないと明日に響く。幸治之輔は薄い布団を頭から被り、耳に指を突っ込んで無理矢理目を閉じた。


 四半刻しはんときほど経っただろうか。ようやくウトウトし始めた幸治之輔は、額の辺りにヌルリとした感触を覚えて目を覚ました。


「む……」


 破れ障子から差し込む月明かりを頼りに、手を伸ばして掴んでみると、それは異様に体の膨れた蛙のようであった。つるつると滑るその生き物を顔の前に持って来てしげしげと観察する。色は緑、よく見かける雨蛙に形が似ているが、その前足と後足が異常に発達している。


「どこから入った」

「ゲコ。こんなオンボロ長屋、どこからでも入れるわい」

「なんと、お主喋るのか」

「当たり前だ。俺様は蛙の神であるぞ。人間の言葉を操るなど造作もないことだ」

「物の怪か」

「物の怪ではない。神だ。この裏の池に棲んで居る」


 神を名乗る蛙は、幸治之輔の手の中でジタバタと暴れている。幸治之輔は訝りながら、生来のお人好しでその言葉を信じかけていた。


「して、神が拙者に何の用だ?」

「お前、ガマの油売りであろ?」

「如何にも……と言いたいところだが、それは仮の姿。ゆくゆくは仕官を……」

「やかましい。ごちゃごちゃ言わずに話を聞け」

「む」

「隣の娘、毎晩呻くのは歯が痛むからだ。虫歯を抜いてやれ。そして軟膏を塗ってやれ。こうも毎晩呻かれたのでは可愛いオナゴを口説く邪魔になる」

「神はオナゴを口説くのか」

「へへへ。蛙も恋の季節でな」


 何故か恥じらっているらしい蛙を手に、幸治之輔は考え込む。虫歯は大の男でも七転八倒の苦しみだ。将軍家や公家には口中医という歯の治療専門の医師がいるが、虫歯の治療が出来るのは裕福な階層だけで、庶民はただただ苦しみに耐えるか神頼みするしかない。

 他に頼れる者と言えば「歯抜き師」などだ。これは痛みを一瞬で終わらせてほしい者が、居合い抜きの達人などに頼んで抜いてもらう一種の見世物だ。幸治之輔も見物したことがあるが、口の中を血塗れにして転げ回る者達の姿を見て、背筋が寒くなったものだ。武士ではあるが、人を斬ったことのない幸治之輔は、血を見るのが苦手だった。


「しかし……」

「しかしもへちまもねえんだよ、やれ。それでも武士か。その刀はなまくらか?」

「いや、しかしだな。いきなり歯を抜いてやるなどと若い娘に言ったら……」

「煮え切らん奴だ。決めた。お前がうんと言うまでここに棲みついてやるからな」

「それは困る」

「もう決めた。イヤならさっさとやれ」


 蛙はのそのそと水甕に近づき、空いた木蓋の間から水の中にぽちゃんと沈んで行った。飲み水なのに……と、恨めしく見送った幸治之輔は、隣から切れ切れに聞こえる呻き声に耳を澄ませ、がっくりと肩を落とした。


つづく

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